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喜多久市北区基沢野高校帰宅部

 本日最後の授業、その終わりを告げるチャイムが校内に響き渡った。

「さあて」

 退屈な授業を乗り越えた生徒(せんし)たちは、各々教科書をカバンに詰め込み帰宅の準備をする。


 ──談笑をする者。

 ──授業後にも関わらず真面目に復習をする者。

 ──未だに机に突っ伏して寝こけている者。


 しかし、そこに二人。

 明らかに目の色が異なる者がいた。


「それじゃあ、帰宅するとしますか」


 その瞳に、常軌を逸した熱を宿す者がいた。

 帰りのホームルーム中、二人は入念に足腰をほぐす。待ち受ける強大な試練を前に、彼らは決して油断しない。


「それじゃあみんな……慌てず、道に注意して、ゆっくりと、帰るように」


 先生が発した定型文は、二人の右耳を通り、左耳から抜けていった。そして、


「起立、礼──」

「「「さようならー」」」


 気の抜けた日直の号令とともに、旧態依然とした形式をとる本校のホームルームが終了する。



 同時、だった。



 バアァァンッ!!!! と爆発にも似た激しい音が鳴り響くと思うと、二つの『星』が教室から飛び出していった。

 激しい音を響かせたのは開け放たれたドア。飛び出していった二人は──喜多久市(きたくし)北区(きたく)基沢野(きたくの)高校名物、北原(きたはら)兄妹である。


「あいつら、今週もやるのかよ……」

「ほんと、その情熱をどこか他のところに向ければいいのに……」


 爆風に髪を煽られながら、残された生徒たちはやれやれと首を振る。


「なんつーかさ、あいつらって……バカ、だよな」


 しかし。


「でも俺……」

「ええ、私も……」


 クラスメートたちは、そんな愛すべき双子の兄弟を思いながら気持ちを一つにした。



 ──そんなお前らが、嫌いじゃあないぜ。



「おーい、明日北原兄妹呼び出しって伝えといてくれ」

「「「はーい」」」


 先生の権力の前では瞬く間に崩壊する程度の気持ちだったが。


☆★☆


 毎週木曜日。

 帰りのホームルームが終わった直後に、この光景は見られる。

 最初は二人が急いで帰宅するだけだったのだが、今となっては基沢野高校の一大イベントと化している。

 教室の窓からは多くの生徒が顔をのぞかせ、全力ダッシュする『帰宅部』の勇姿を見送っている。

 いつしか北原兄と北原妹のどちらが先に家にたどり着くかを賭ける『北原ダービー』が開催されるようになり、陸上部はお古の運動靴を譲り、吹奏楽部は応援歌を演奏するようになり、チア部は花道を作ってボンボンを振り上げ、同じく帰宅部の面々はその勇ましい帰宅姿に憧憬の視線を向けた。


 ではなぜ、北原兄妹はそんなに焦って帰宅するのか?


 理由は簡単────



 木曜四時半より放送中の、人気テレビアニメをリアルタイムで視聴するためである!



 しかも!

 二人が見たいテレビアニメは違う!

 つまりはチャンネル争い!

 先に帰宅した方がリモコンを獲得しッ! チャンネルの選択権を得る!!!!

 それだけ? と首を傾げたそこの君、分かってない!

 録画で見ればいいじゃんと笑ったそこの君、やはり分かっていないッ!

 ──幼少期からずっと二人はアニメを見てきた。このアニメをリアルタイムで見ること、それが生きがいの一つであった。

 だからこそ、以前は異なる時間に放送していたそれらが放送時間の変更により、木曜四時半という子供に見せる気があるのか定かではない微妙な時間に奇跡的にダブルブッキングしてしまったことは、悲しき事件と言わざるを得ない。

 そう。高校二年の春、その事件が起きて以来──二人は毎週木曜日、帰宅の修羅と化すのだ。


 さて、では始めよう。


 とくと御覧じろ。


 これこそが、喜多久市北区基沢野高校が誇る帰宅部のエース、北原兄妹による全力の『帰宅』である──!



☆★☆


『さて、やってまいりました第48回北原ダービー。今回の出走は二人、基沢野高校が誇るスピードスター北原兄と、変幻自在の魔術師こと北原妹です』

『先輩なんですかこれ』

『実況はわたくし先輩。解説は後輩くんをお招きしております』

『だからなんですかこれ』

『さて、今回も終業のチャイムとともに戦いの火蓋が切って落とされた北原ダービーですが、どうやら波乱の幕開けとなりそうです』

『……』

『おっと、いきなり第一の関門です! これは──!』

『……はあ』


☆★☆


 正門を飛び出した二人は、早くも驚愕の敵に道を阻まれることとなる。

 北原ダービー、この戦いの残酷なところ──それは、どちらが先に着くかという点以外に、アニメ放送に間に合わせなければならないという制限時間付きな点にある。

 木曜最後の授業が終わるのが四時十分。帰りのホームルームがどれだけ早く終わろうと、残された時間はわずかしかない。二人の家は基沢野高校から徒歩二十五分程度のところにあるので、普通に歩いていたら間に合わない。

 なので全力ダッシュで帰宅しなければならないのだが──


「ぜぇ、はぁ、お、おにいぢゃん、までよ……ごら……」

「う、うるぜぇ……今日こそ俺が、俺があぁぉあ……ごほ、おげぇ」


 そう、この二人──



 全くスタミナがないのである!!



 早くも露見する帰宅部の貧弱な運動性能!

 所詮どの部にも属さないオタク! 運動部には到底及ばないへっぽこ体力! 熱意だけがフル回転し身体がついてこないッ!

 そう。驚愕の敵とは──己自身であった。


☆★☆


『この局面どう見ますか、解説の後輩くん』

『いや、鍛えろや』

『くうー! これは鋭いコメント!』


☆★☆


 正門抜けてすぐにバテたオタク兄妹はしかしその足を止めることなく、次なる局面へと進んでいく。

 そこに待ち構えるは高低差15mに及ぶ激坂。基沢野高校生の間では「心臓破りの坂」と呼ばれるそれは、貧弱なオタクである二人にはあまりにも厳しい試練だった。


「ぐううううううう……ううう……っ」


 しかし二人は、ゾンビのような唸り声を上げながらも足は止めない。

 全身に汗を滴らせながら、懸命に一歩一歩を重ねる二人。現在はわずかに兄がリード。基本スペックがほぼ同じである双子だからこそ、男女の体力差が如実に現れてしまう────

 その時。


「よぉ、どうしたお二人さん。そんなに顔中汗だくにして」


 通りがかったのは──トラックに乗ったおっさん!

 気さくに笑みを浮かべながら話しかけてきたそのオヤジは、現代では珍しい根っからの善人であった!

 そんなオヤジの続く一言に、北原兄妹は言葉を失うこととなる──


「ん? 急いでるのか? 良ければ乗せて行ってやるぞ」


 神からの贈り物か、はたまたオヤジの気まぐれか。すでに疲れ切った北原兄妹には、その一言がどれだけの救いになったか──





「あ、でも荷台はいっぱいだから、乗れるのは助手席に一人だけだな」





 反転。

 衝撃、走る。

 瞬間交わされる百を超えるアイコンタクト。千に及ぶフェイント。万に至る心理戦。

 兄妹は、刹那の内に無数に広がる可能性の海から「どうすれば自分があの座に至れるか」を思考。

 突然現れたゴール直通のショートカットに対し、帰宅の修羅と化した北原兄妹は人間の限界を超越して脳を回転させる。

 わずかにリードした兄。このまま諸手を挙げておっさんに飛びつき、助手席を奪取することはおそらく可能──

 しかし。

 それでいいのか。

 兄として、北原家の長男として、そのような醜態を晒すことに躊躇いはないのか。

 己に問いかける北原兄──いや、考えるまでもなく結論は出ている。

 数億通りの勝算を踏みにじり、目の前に転がる簡単な勝利を蹴り飛ばし、お兄ちゃんのプライドを胸に掲げ、高校二年生の青春を帰宅に捧げた少年は一言──




「「いいえ、結構です」」




 それは偶然なのだろうか。

 もしくは双子の成せる同調(シンクロ)なのだろうか。

 はたまた、同じ志を宿したライバルが至った必然の奇跡なのだろうか。

 兄が言葉を発すると同時、遅れてやってきた妹も寸分違わず同じセリフを口にしていた。

 兄と妹、互いに顔を見合わせ──ニヤリと笑う。


「……」


 今度はおっさんが言葉を失う番だった。

 見るからにバテバテなのに。どう見ても時間に追われているのに。

 この二人は、自分一人抜け駆けしようとは思わないのだ。

 おっさんは、かつて自分にも笑いながら肩を組んだ兄がいたことを思い出した。

 頑固で意地悪で、すぐに弟である自分をいじめてくるような兄だった。だけど──



 ──ああ、そうだ。俺が置いてかれそうなとき、一番最初に手を差し伸べてくれたのはやっぱり兄貴だった……。



「……そうか。なら、頑張れよ」


 やがて、二人は、夕暮れに染まっていく坂を懸命に歩いていった。その背中を眩しそうに見つめながら、おっさんは笑った。

 好意を無下にされたにも関わらず、おっさんは清々しい気持ちでいっぱいだった。


「ああ……実家、帰るか」


 なぜなら──



「久しぶりにあのクソ兄貴の顔を、見たくなっちまった」



 忘れかけていた家族愛を、思い出させてくれたから。


☆★☆


『っ……ぅ……(泣いてる)』

『…………(ちょっと感動しているが恥ずかしいので顔に出ないように我慢している)』


☆★☆


 ついに最終局面。無事に心臓破りの坂を乗り越えた兄妹に残された試練は、あと一つ。

 次第に顔を見せる赤い屋根。北原家を示すそれに、疲れ果てた二人の心に再び火がつく。

 兄のリードは依然変わらず。

 時刻は四時二十六分。


 ──間に合う。


 あとはどちらが先にゴールテープを切るか、だ。

 だがやはり、性別は覆せないのか。ゆっくりと、ゆっくりと、兄と妹の間に横たわる明確な差は広がっていき────

 しかし。

 妹、笑う。

 口元に悠然と笑みを浮かべながら、決して焦らず、最初にして最後の好機を背後から虎視眈々と狙っている。

 そう。妹は決して自分が負けるなどとは考えていない!

 性別を言い訳になどしない! 妹は、鋼の精神をもって体力的に上回る兄を打ち破るのだ!


「……っ」


 裂帛の気合いでリードを保っていた兄、ここに来て顔を歪める。

 その理由は、眼前に迫る最後の関門にあった。



 ──犬上キャサリーン。



 それが北原兄に立ちはだかる、最後にして最悪の敵の名だった。


「やはりお前は俺の邪魔をするというのか、キャサリーン……っ!」


 北原兄は顔をしかめつつ、走るペースを落とす。北原家の隣を根城とするキャサリーンに気づかれないように、足音を殺す──


「ぐるぅぅぅ…………」

「──!」


 犬上キャサリーン、起床!

 同時に北原兄、戦慄!

 キャサリーンの口元からは唾液でぬらぬらと輝く犬歯が覗き、低いうなり声が一帯に満ちていく。


「ぁー、ぁー…………」


 犬上キャサリーン……学名Canis lupus familiaris、ネコ目イヌ科イヌ属に分類される哺乳類の一種(ウィキペディアより引用)! ブルドッグと呼ばれる犬種にあたるその暴姫に対して、北原兄はめっぽう弱かった!


 つまり──犬が、苦手なのである!


(どいてくれどいてくれどいてくれ! なんでお前はいつも俺の邪魔ばかりするんだ!)


 北原兄、静かにキレる。

 そう。このキャサリーン、なぜか妹には目もくれず、兄ばかりを追い回すのである。

 何が気にくわないのか、犬歯をむき出しにしてダルンダルンの皮膚をぶらつかせ、猛烈な勢いで追いかけてくる。北原兄はそれがトラウマとなり、犬嫌いになったのである。

 実は昔、北原兄がまだ犬嫌いではなかった頃、戯れにエサをくれたのを犬上キャサリーンがずっと覚えており、彼を見ると嬉しくなってしまうという裏話があるのだが──それはまた別の話。


「くっ……」


 ここで北原兄、痛恨の足止め! みるみるうちに妹との差は縮まり──


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」


 そこに──刺客、現る!


「お、お前は──」


 物陰から飛び出たその影は、キャサリーンに覆いかぶさるようにして動きを止める!




「や、山田!」




 山田! 喜多久市北区基沢野高校二年一組! つまり北原兄妹のクラスメート! ちょっと太り気味の冴えないオタク男子!

 それが今、ここでキャサリーンの足止めをしている!

 何故か!



 ──そう! 北原兄妹の生き様に、一人のオタクとして心を動かされたからである!



 いつの間にか、アニメを無感情に消化することしかできなくなっていた自分。大量のコンテンツに触れるうち、ただの消費豚と成り果てていたことに、彼は自分自身では気がつけなかった。

 そんな時だった。

 ただ、アニメをリアルタイムで見たい。そんな馬鹿で、一般人にはくだらないと笑われそうなことに全力な二人を見て──山田、気づく。


 かつて、初めて深夜アニメを見て心を躍らせたあの時!


 物語に秘められし無限の可能性にワクワクが止まらなかったあの頃!


『オタク』への第一歩を踏み出した、あの瞬間!


 忘れちゃいけない、忘れたくなかったその感動を、北原兄妹の背中に見たから!


 だから! だからこそ! 犬ごときにその栄光への道(リアタイしてえ)が邪魔されてなるものか、と!

 これまで北原兄妹が毎週木曜にこのような暴挙に出ても、未だに先生から怒りの鉄槌が落ちないのは、ひとえにクラスメートのみんなによる協力があったから!


 オタク山田──クラスメートを代表し、贅肉を揺らし駆ける!


 その分厚い皮下脂肪を盾に、滴る汗を潤滑油に! オタクのどうでもいい願望のために駆けるのだ!





「──行け」





 僅かに見えた山田の横顔は、清々しいほどに笑みで満ち溢れていて──

 山田、出番終了!!!!


「山田……すまねえ……っ!」


 唇を噛んで、北原兄は再び駆け出す。

 とはいえ、リードは眼前になくなった。山田はあくまでも、犬に結末を定められることを嫌った。あとの結果は、兄妹の意地にかかっている。

 玄関まで残り15メートル。

 横並びとなった北原兄妹。もはや体力は底をつき、走る速度はどちらも同じ。最後まで足を止めないという決意だけが、この勝敗を左右する。


「だああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」

「らああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」


 オタク=ハイパーボイスが響き渡る。近隣の住民に迷惑──否。

 近所一帯の窓からは、住人が顔をのぞかせていて。

 手を振って、声をあげて彼らを応援していて。


「「──」」


 残り、一分!

 いつしか熱狂に包まれた北原家前道路。どこからか、往年の名曲がBGMとして聞こえてくる。


負けないで もう少し

最後まで 走り抜けて

どんなに 離れてても

心は そばにいるわ

追いかけて 遥かな夢を


「ああああああああああああああああああああッッ!! 感じる、感じるぞ! 俺たちを突き動かすのは強烈な帰宅衝動! ふるえるぞハート! 燃えつきるほどヒート!! おおおおおっ、刻むぞ駆け足のビート!」


 そして兄、至る。


夕暮れに染まる(トワイライト・)俺の帰宅疾走(オーバーラン)ッッ!!!!」


 北原兄からこぼれ落ちた汗が、夕焼けに反射し──山吹色に光り輝く!


「は、はは、ハハハハハハ!」


 逆に妹、壊れる。


「無駄無駄無駄無駄ァ!」


 兄の汗を縫うように避けて、土壇場のフルパワーでまるで忍者のように速度を上げる妹。

 ──23勝24敗。妹は今、負け越している。

 苦渋を飲んだ。涙を流した。我が物顔でテレビを占拠する兄の首を絞めてやろうかと思う日もあった。

 あと一歩。あと一歩なのだ。たった一本だけで、その背中に追いつけるのだ。





 ──アニメにハマったのは、間違いなく兄の影響だった。

 運動はできない。勉強も得意じゃない。容姿もそれほど優れておらず、自分には魅力なんて一つもないのだと思っていた。

 自分の中には常に劣等感があったと思う。何も成さずに無為な日常を送るだけの日々は、灰色だった。



 そんなある日、とあるアニメに出会った。



 たまたま兄の隣でそれを見ていた。ヒーローが毎週のように襲いかかってくる怪人を倒すだけの……言ってしまえばそれだけの、アニメだった。

 なのに。

 兄はそんなアニメに熱くなり、涙を流し、そして笑っていたのだ。

 妹は、アニメに惹かれたのではなく、兄のその横顔に惹かれたのかもしれなかった。それでもいつしか、妹は毎週兄と並んでソファに座り、そのアニメを見るようになった。その時間だけが、彼女の人生を虹色に変えてくれたから。

 それからアニメにハマって、悲しき事件が起きて二人が見たいアニメが被っても、妹の人生はさらに色づいていった。

 毎週木曜日、馬鹿みたいに急いで帰る二人の周りには、いつしか人があふれていた。


「ねえ、なんであんなに急いで帰ってるの?」

「そのアニメ、そんなに面白いんだ!」

「私も見てみようかな」


 教室の隅で目的もなくスマホをいじっていたあの頃の妹は、もういない。

 兄と競争をするのだって、本当はどうしてもリアルタイムで見たいからじゃなくて、そうやって二人で笑いながら競争すること自体が楽しくって仕方なかったからで────




 ──だから、お兄ちゃん。




 残り数歩と迫ったこの時、妹は心の中でつぶやいていた。



 自分を変えてくれた兄に。



 人生に色をくれた兄に。



 そして何より、●●●な彼へ。



 消して届かないそのメッセージを、心の中で力いっぱい叫ぶ。






 ──あなたが私を変えてくれたんだよ、お兄ちゃん。






 ああ、しかし。

 いやだからこそ、妹は決して足を止めない。

 ここで手を抜けば、兄が教えてくれたアニメへの熱意を裏切ることになってしまうと思ったから。

 大好きな兄にもらった、溢れんばかりの情熱。今もこの胸を熱く、激しく燃え上がらせる魂よ──どうか、兄に届いてくれ。

 妹は、限界を迎えて吊りそうな足を尚も動かす。明日筋肉痛になってもいい。後で肉離れになって動けなくなっても構わない。だからどうか、今だけは。

 届け、この思い。






 ──どくん、と心臓が跳ねた。


 それは刹那の出来事。一秒にも数えられない、瞬間の感覚だった。兄は、自分の中に広がる不思議な感情を、どこか遠くから見ているような感覚に陥った。

 必死に玄関(ゴール)へ手を伸ばす妹。その横顔が、いつかの自分の記憶に重なって。


 ──ああ、俺は……。


 思い出したのは、今も忘れないあの日の記憶。

 兄は昔から、アニメが好きだった。

 今となってはそのきっかけも思い出せなかったが、物心ついた頃にはすでにアニメを見るのが生きがいで、人生には常にアニメが隣り合っていた。

 いわゆるオタクというのは、一般的論として人気者ではない。クラスでは浮いていて、根暗で気持ち悪いものとして見られがちだった。

 もちろん兄も例外ではなかった。アニメの話を始めると早口になるような典型的なオタクだった彼は、予定調和のようにクラスの輪から外れていった。

 兄は、それも仕方ないことだと割り切っていたが、辛くなかったかと聞かれれば嘘だった。

 彼はただ、アニメの話がしたかっただけなのだ。

 誰かと同じアニメの話をして、盛り上がって、笑い合って……そんなちっぽけな夢が、いつまでも胸の中に燻っていて。

 でもそれは叶わないものだと知っていて。




 そんな彼を救うのが、一番身近な少女になるとは、夢にも思っていなくて。




 もともと妹はオタクじゃなかった。アニメは見ないし、漫画もさほど読まない。兄みたいに、物語を見てボロボロと涙をこぼしたり馬鹿みたいに笑ったりする姿なんて、到底想像もできなかった。

 そんな彼女が、気まぐれで兄の好きなアニメを見た時だった。それはヒーローが毎週のように襲いかかってくる怪人を倒すだけの……言ってしまえばそれだけの、アニメだった。

 なのに。




 妹はそんなアニメを見て、頬に一筋の涙をこぼしていた。




 このアニメを見て泣くのは、きっと俺だけなのだと。兄はずっとそう思っていた。

 これまでの人生が報われた気分だった。妹のその涙が、兄の歩んできた道のりを認めてくれているような気がした。

 そうか。俺は間違っていなかったんだな、と。

 その時兄は初めて、アニメ以外の理由で涙を流した。

 でも隣に妹がいたから、涙で視界が滲むのはアニメのせいにした。

 それからだ。兄の人生も劇的に変化した。

 内気なオタクたちが、彼に声をかけるようになったのだ。

 そう。決して数は多くなくとも、仲間は最初からいたのだ。その一歩を踏み出すことさえできれば、こんなにも近くに。

 兄はいつしかクラスの中心人物──とまではいかないものの、輪から外れるようなことはなくなった。

 そう。それも、全部あいつのおかげ。

 普段は憎まれ口しか叩かないくせに、アニメにだけは真剣で、兄の話し相手になってくれる──掛け替えのない、仲間。




 ──だから、妹よ。




 残り数歩と迫ったこの時、兄は心の中でつぶやいていた。



 自分を変えてくれた妹に。



 一歩を踏み出す勇気をくれた妹に。



 そして何より、●●●な彼女へ。



 消して届かないそのメッセージを、心の中で力いっぱい叫ぶ。






 ──お前が俺を変えてくれたんだ、妹よ。






 そして、果てしなく延長された一秒の、その先。

 二人はついに、たどり着く。

 多くの人間に見守られながら、助けられながら。

 馬鹿だと笑われても、くだらないと切って捨てられても、決して止まることのなかった二人は、その瞬間を迎える。

 そして、勢いよくゴールテープを切った二人はこう言った────






「「ただいま!」」







☆★☆


 大天使による人間の秘めたる可能性とその発展性の考察


 人間とは、時に馬鹿で、くだらなくて、頭が悪いように見えるが、そこにかける熱意だけは間違いなく本物である。


 大天使 印


☆★☆


 這々の体でテレビの前に座った勝者は、悔しがる敗者を横目に、自分の見たいアニメにチャンネルを合わせた。

 ああ。この時、この瞬間を求めて戦ったのだ。

 勝者は、勝利の美酒に酔いしれながら画面に視線を向ける──────────














『ゴルフ中継延長のため、本日の放送は延期とさせていただきます』

「「なんだそれッッ!?!?!?」」



 喜多久市北区基沢野高校帰宅部 完



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