ボク達の未来
外は夕暮れだった。
ボクたちの心と裏腹に、赤い夕焼け空がとてもキレイだった。
ユウタがまた暴力を振るわれるといけないと思って、彼の家には三人で向かった。
ユウタは、玄関のドアを無言で開けた。
鍵はかかっていなかった。
靴を履いたままのユウタは
「ただいま……」と、小さな声で言った。声が震えているのが分かった。
ボクの心臓も、早鐘のように鳴っている。
奥から女の人が出てきた。
憔悴しきった顔で、
「ユウタ……」と言ったきり、その場にへたり込んでしまった。
この人が、ユウタの母親か…
ユウタが言った。
「母さんゴメン。でも、オレ、もうあの人には耐えられないよ……」
ユウタはそれ以上喋れなかった。
肩を震わせて、嗚咽していた。
へたり込んでいた母親が、ユウタの所までやって来て、
ユウタの首元に、その痩せた腕を巻きつけ、抱き寄せた。
「辛い思いさせてゴメンね。もう大丈夫だから。あの人ね、
出て行ったのよ。あなたがいなくなってすぐに……
他に好きな人が出来たんだって。
これから離婚の手続きとかでゴタゴタするけど、
ユウタ、私と一緒に生きてくれるよね……」
ユウタは嗚咽しながら、コクンと頷いた。
大人も、迷子になるんだ。
見えていたはずの道が、見えなくなってしまう事だってあるんだ。
ユウタのお母さんも迷子だったんだ。
ボクの脳裏を、ふと、母がよぎった。
あの人もそうだったのかもしれない……
とりあえず、ユウタは殴られなくて済みそうだ。
ボクは会釈して、その場を去り、家路についた。
家に着いて、クロに聞いてみた。
「クロ、本当はユウタの家の事情、知ってたんじゃないの?」
「……」
クロは都合が悪くなると、普通の猫のフリをする。
四六時中、一緒にいるわけじゃないから、クロの行動は
ボクの知るエリアが全てではないわけで、
そうすると、クロは先にユウタの家の事情を
リサーチしていたかもしれないわけで……
事情を知っていたからこそ、あんなに強気な発言が、
ユウタに対してできたのかもしれないと思ったわけで……
でも深層は闇の中。クロは何も言わない。
ユウタのところは無事?離婚が成立し、
慎ましく母子の生活を送っているらしい。
とにかく、明るいユウタが居てくれる事が、
ボクにとっても幸せだ。
ユウタはボクとクロの事を「親友」とか
「恩人」とか呼んで大切にしてくれる。
そんなユウタの事を、ボクも大切に思っている。
ありがたいと思っている。
高校は、それぞれ別の所へ進んだ。
それでもボクたちは、連絡を取り合う事はやめなかった。
あの秘密基地も、懐かしくなって、時々見に行った。
二人の時も、一人の時もあった。
一人の時は、大抵ここで絵を描いて過ごした。
二人の時は、たわいの無い話しをしてゲラゲラ笑って過ごした。
高校3年生の夏、ボクの祖母が亡くなった。
いつも、何をしても、ニコニコ見守ってくれた優しい祖母…
ボクは沢山泣いた。
クロは何も言わず、ただ、傍らに居た。
祖母にとっての子供は、ボクの母だけだったらしく、
親族についても良く分からなかった。
呆然としているボクの周りで近所の人が何やかにやと動いてくれて、
葬儀の段取りなどもやってくれた。
しばらくして、弁護士がやってきた。
祖母の遺産の相続の話しをしにやって来たと言う。
そんなもの正直、どうでもよかった。
難しくてよく分からない話だったが、簡単に言うと、
祖母にはいくつかの不動産があり、それを相続する
権利がボクにあるが、どうするか?との事だった。
お金の事なんか考えたくなかった。
祖母はボクを、地獄みたいな日常から救ってくれた人だ。
ボクが味わった事のない、温かい愛情で包んでくれた人だ。
その人がいなくなったんだ。
そんな時に、お金の事なんか考えられるわけがなかった。
「少し考えさせてください…」と弁護士に伝えるのが精いっぱいだった。
クロと家の中でぼんやりしていた。
クロが言った。
「君はこれからどうしたいの?」
「どうって… 高校は卒業できたとしてその後どうしよう……
好きな絵は、これからも描き続けたいし……」
「おばあちゃんも君が一番幸せになれる道を選んで欲しいだろうね。」
「幸せになれる道?」
ボクは祖母の遺産を相続する事にした。
そのお金で、美大へ進んだ。
ユウタは高校を卒業後、車の整備士の専門学校へ進んだ。
手に職をつけて、お母さんを早く楽にさせたいと言って……
「ユウタはすごいや。」そう言うと、ユウタは必ず
「すごいのは、お前の方だよ。」と言う。
ボクが、両親の元に居なくても、素直に生きている事、
人に優しくできること、
好きな絵をブレずに続けている事、そんなボクだからこそ、
クロは、ボクの所へやって来たのだと、ユウタは言ってくれる。
そんなユウタに、ボクは本当に感謝している。
ボクの初めての友人(人間としての)。
そして親友と呼べる唯一無二の存在。
ユウタは一足先に社会人になった。
ユウタが眩しく見えた。
ボクは在学中に作品を見初められ、アマチュアばかりではあるが、
あるギャラリーの一画に、絵を置かせてもらえるようになっていた。
クロは年をとった。寝ている事がますます増え、行動範囲も狭くなった。
大学卒業後、祖母の遺産を元手に、いままで住んでいた
祖母の家を、アトリエに改装した。
作品をインターネットにアップすると、
是非直接見たいと、訪れる人も出てきた。
おかげさまで、少しづつ、ボクの絵を買ってくれる人も現れた。
軌道に乗るかどうか分からなかったけれど、遺産の残りは、
近くの養護施設に寄付した。
偽善者かな?とも思ったけど、ボクよりも必要な人がいる気がしたから…
その後、都会で個展を開くチャンスにも恵まれた。
ボクが訪れてくれたゲストに、絵の説明をしている傍らで、
クロは骨ばった背中を丸くして眠っていた。
ユウタも忙しい合間をぬって、個展を見にきてくれた。
「すげーなあ、お前… …こんなヤツがオレの友達だなんてさ……
オレ、何か感動するわ……」
ボクは自分の力で歩んでいるユウタの方が、ずっと格好いいと思うのに…
突然クロが言った。
「そんなことないよ。君の力は本物だよ!努力もちゃんとしてきたじゃない。
君自身が掴んだ居場所だよ。おばあちゃんは、ほんの少し手伝っただけさ」
ボクは口に出して何も言ってない。
クロは心の中も読めるのか?
その時だった。ふと視線に気が付いた。
一人の女性が、こちらを覗き込んでいる。
入ろうか、どうしようか、迷っている様子。
案内しようとしてハッとした。
どこかで会ったことのある人だ。
女性と目が会った。
逃げるように、彼女は走り去った。
追いかけようとした。いや、追いかけるまでもない。
あれは、母だった。
何をどう思ってここへ来たのか……
ボクが相続したお金が欲しかったのか?
単純に息子に会いたいと思ったのか?
どんな作品を描いているのか見たかったのか?
ユウタが聞いた。
「え、誰、今の。知り合い?」
ボクはその質問には答えず、クロに聞いた。
「ねえ、どう思う?あの人、何をしに来たんだろう……」
「……」
「クロ、何か言ってよ……」
なぜか、ボクの頬を一筋涙がつたった。
ユウタが、「お前、大丈夫か?」と言って、オロオロと心配した。
おもむろに、クロが椅子からスルリと降りた。
音もなく外へ飛び出した。
「クロ!」ボクは叫んで後を追った。
が、 クロは、アッと言う間に街の雑踏に紛れてしまい、
行方が分からなくなってしまった。
個展が終わって、自宅兼アトリエに戻る日が来ても、クロは帰って来なかった。
もちろん必死に探した。
ユウタも手伝ってくれたが、見つける事ができなかった。
次の作品展が控えていたが、全く絵は描けなかった。
クロの事ばかり考えてしまう。
一体どこへ行ってしまったんだろう…
1か月程経った。
突然クロが帰ってきた。
クロと初めて出会った時、竹やぶから出て来た、あの日の様に
「ニャー、ニャー…」と鳴きながら、ボクの前にフラフラと現れた。
ボクは
クロに駆け寄って抱きしめた。
「どこへ行ってたんだよ……ずっと探してたんだぞ!」
「……」
クロは何も言わない。
「何か言ってくれよ……」
やつぱりクロは何も言わない 。
この時を境に、クロは人間の言葉を喋らなくなった。
それでもいい。
クロが、そばに居てくれれば、それだけlで十分だ。
何も変わらない。クロはボクの友達だ。
ユウタにクロが無事に帰ったと知らせたら、彼は飛んできて、
ボクと同じ様にクロを抱きしめ、顔をすりよせながら号泣した。
クロが帰ってきて、1週間程経った頃、1通の手紙が届いた。
差出人は書かれていなかった。
思い切って開封してみた。
文面を読み進めていくうちに、それが母からのものだと分かった。
手紙には謝罪の言葉や、ボクの事をずっと思っていた事などが
切々と綴られていた。
手紙のおしまいの方に、母の連絡先が記されていた。
思い出した。
この人も迷子だったっけ……
ボクの頬はいつの間にか濡れていた。
同時に微笑んでいた。
母に返事は書かない。会いにもいかない。
意地になっているわけでも、彼女を憎んでいるわけでもない。
ただボクは思う。
会わなければならない人とは、いずれ必ず会えるものだ……と。
祖母がボクを救いに来てくれた様に、クロが、ユウタが、
ボクの心に、そっと入ってきてくれた様に……
今ボクは沢山の人に支えられて生きている。
好きな絵を描き続けていられる。
ボクは久々にキャンバスに向かった。
寝食を忘れて、3ヶ月程かけて、1枚の作品を描きあげた。
その間、クロはボクのそばを片時も離れなかった。
キャンバスの中にいる女性は母。
それは、これまで見た事もないような、優しい、
温かい微笑みを浮かべていた。
彼女が、どんな気持ちでボクをこの世に生み出し、
どんな気持ちで育て、ボクを捨てた後、どんな気持ち
で時を過ごしたのか、本当のところは彼女にしか
分からない。
ただ、この母が、もしボクを生んでくれなかったら、
ボクは今の幸福を味わう事はなかったのだ。
幼いとき、幾度となく思った
「ボクハナゼウマレテキタノダロウ……」
あの頃のボクに今のボクが会えるなら、
きっとこう言うだろう。
「君を必要として、愛してくれる人が、もうすぐ
現れる。だから、もう少し、後もう少しだけ待って
て……」と。
クロのゴツゴツした背中を、そっと撫でながら思う。
クロもやがて逝くだろう……
でもクロと歩んだ記憶はずっと無くならない。
触れた温もりも、クロとの絆も決してなくなる
事はない。
クロから貰った沢山の勇気も、ボクにとって、
かけがえのない宝物……
「来てやったぞー!」
静寂を破って、ユウタの明るい声が飛び込んできた。
そう。忘れちゃいけない、ボクのもう一つの宝物。
「絵、進んでるの?」ユウタが言った。
「昨夜、仕上がった。」ボクは答えた。
「見たい!」ユウタの目が一瞬輝いた。
ボクはキャンバスにかけてあった布を外した。
ユウタは、ゴクンと唾を飲み込んで、しばらく
動かなかった。
その目には涙が浮かんでいた。
「お前の、お母さん……だよな?」
ユウタが聞いた。ボクは黙って頷いた。
「うん。いいと思う」ユウタが言った。
「ありがとう」ボクは笑顔で返した。
「今度の作品展、お前のが一番だぜ、きっと!」
ユウタはとても嬉しそうに言った。
正直、絵の評価はあまり気にしていなかった。
ボクはボクの思いのたけを、この絵にぶつけた
だけだもの。
この先も、ずっと、そうしていくだろう。
ゴールなんかない。
ユウタが言った。
「作品展が終わったらさ、どっか行こうぜ!
海とかどう?オレ、運転するし」
「いいね!クロも一緒?」ボクが聞いた。
「当たり前じゃん‼︎」ユウタがキレイな歯を見せて笑った。
ボクたちの夏が、もうすぐそこまで来ている。