ボクとクロとの出会い
ボクの母親という人は、ボクが物心ついた時から、昼間から酒浸りで、食事の支度も、
洗濯も、掃除も一切やらない人だった。
たまに上機嫌で食事を作ってくれることがあるけど、それは決まって男に会いに行く時。
「行ってくるわね!」と輝く様な笑顔で出かけて行き、1週間くらい帰って来ない事は
ざらだった。
そんな事はもう慣れっこだけど、厄介なのは男に捨てられた時。
散々泣き喚いて、相手の男を罵った後、必ず最後に
「あんたなんか産まなきゃ良かった。あんたさえ居なきゃ私は幸せになれたのに……」
と吐き捨てる様に言った。
その後は決まってボクを殴る。
最初はビンタで、(左ほほがヒリヒリする) その後は握りこぶしで数回。
「ああ……口の中切れた……」
「視界がぼやけるな……」
痛みも、恐怖も、もはや慣れっこだ。ただ思った。
「ボクハ ナゼ ウマレテキタノダロウ……」
父親が誰かも分からないボク。
服が汚ないし、臭いから、友だちなんて1人もいないボク。
痛くない。怖くない。辛くない。悲しくない。
でも涙が出るのはなぜ?
ある夏の日、突然、母との生活はピリオドを打つ。
母がいつも通り、どこかへ出かけたまま、ボクはいつも通りゴミだらけの部屋で寝ていた。
そこへ母の母、つまりボクの祖母だと名乗る人がやって来て、
「一緒に暮らそう」と言ってきた。
ボクは小学6年生になっていたが、おばあちゃんがいた事すら聞かされていなかった。
母はこの「おばあちゃん」という人に
「育児に疲れた。しばらく息子を預かって欲しい」
と連絡したらしい。
母も苦しんでいたのかもしれない。
1人でボクを産んで、彼女なりに、うまくやろうと努力していたんだろう。
そうでなかったら、誰かにボクを託すだろうか?
ボクは無言で「おばあちゃん」という人に、コクンと首を立てに振って見せた。
祖母の家はとんでもない田舎だった。電車とバスを乗り継いで、ようやく辿り着いた。
山と、田んぼにかこまれ、綺麗な小川が流れていて、澄み切った空気が心地良かった。
ここが同じ日本だなんて信じられないくらいだった。
朝目覚めると、御飯の炊ける匂いや、味噌汁のネギを刻む音が聞こえてきた。
「すごい!朝ご飯が出てきた!」
ボクは振り絞るように
「いただきます」と言った。
もう随分誰とも話していないから、声の出し方を忘れてしまっているらしく、その声は祖母の遠い 耳には
聞こえていないだろうと思いつつ……
声は出ないけど、涙が出た。
どうして生まれてきたのかは分からないけど、ボクは生きてる。
生きて御飯を食べている。
蝉の声が家の外で大合唱していた。
ボクには命の歌に聞こえた。
夏休みが終わり、ボクは地元の小学校へ転校した。前の学校とは違って随分、規模の小さい、何というか
アットホームな学校だった。
転校生は珍しいらしく、ボクの周りは あっという間の人集り。
「どこから来たの?」「わたしね、◯◯っていうの。よろしくね!」
こういう時どうしたらいいんだろう……
やっぱりうまく話せない。
反応がないボクを見て、みんなつまらなそうに去って行く。
ボクは正直安堵した。
学校からの帰り道、竹やぶから
「ニャー、ニャー…」
という鳴き声が聞こえてきた。
ボクは立ちどまって、竹やぶの方へ目をやった。一匹の黒い子猫がヨロヨロと出てきた。
捨て猫かな? お腹が空いてるのかな?
後先の事は何も考えず、思わず、祖母の家へ抱いて帰ってしまった。
飼うことを祖母に反対されるかもしれない。
とりあえず家の外に置いて、こっそり冷蔵庫から牛乳を拝借、少し温めてから子猫に与えてみた。
夢中になって飲んでいる。やっぱり お腹が空いていたんだ。
子猫は、あっという間に空っぽになった皿を、まだ愛おしそうに舐めている。
ボクの方を見上げて、物欲しげな顔をしている。
「もう少しだけだぞ。」
も一度、こっそり牛乳を持って来て与えた。やっぱり夢中で飲んだ。
コイツには母猫はいないのかな?
連れて来て良かったのかな?
もし母猫がいたらコイツはこんなに空腹だっただろうか……
きっと母猫は何日も帰って来れない事情に巻き込まれたんだろう。
コイツも1人だった。いや、一匹だったのだろう。
ボクは意を決して祖母に話しをしに行った。
「あの……お願いがあるんですけど……」
祖母は耳が遠いから、ただニコニコしてボクを見ている。
「猫を飼いたいんです……」
祖母が
「何だって?」と聞き返してきた。
「猫、飼ってもいいですか⁉︎」自分でもビックリするような大声が出た。
ボク、声でるじゃん。
祖母はニコニコしながら
「好きにしたらいい」と言ってくれた。
「ありがとうございます!」も一度、大きな声で言ってみた。
祖母はニコニコしたままだった。
ボクは猫と一緒にへやに入った。名前をつけなきゃ。
猫はオスらしい。散々悩んでシンプルに
「クロ」と呼ぶ事にした。黒猫だから「クロ」。
その晩、クロの汚れた身体を風呂で洗ってやった。
身体が濡れるとますます小さくなって、切なくなった。
こんな小さな身体で、暗い竹やぶで、何日 夜を過ごしたんだろう……
ボクとクロは同じ布団で眠った。
次の朝が来た。
ボクは朝食を取り、いつも通り学校へ行く前に、クロの目の前にミルクの入った皿を置いた。
クロはまだ眠っていた。
「行ってくるよ」と声をかけ、頭をクシャッと撫でた。
面倒くさそうに、クロが一瞬だけだけボクを見た。
ボクは自然と笑顔になっていた。
学校にいてもボクは相変わらず浮いている。何だかみんな一線引いている感じ……
もう服も汚れていないし、臭くもないのに。
でも、1人でいいや。
ボクにはクロがいる。初めてのボクの「友達」
5・6時間目の図工の時間に絵を描くように先生に言われた。
お題は「友人」
先生の指示で、それぞれ隣の席の子と向かい合わせに机をくっつけて、お互いの顔を、
恥ずかしそうに、でも真剣に見つめながら描き始めた。
もちろんボクにそんなこと出来るはずがない。
人の顔なんて、しみじみ観察した事など一度もないもの……
ボクの向かいの子はユウタって名前らしい。さっき他の子にそう呼ばれていたから…
ボクが下ばかり向いているから、
「おい!ちゃんと顔見せろよ!オレだけ進まないじゃん!」
と、少し怒っている様子。
それでもボクは、ほんの少し彼を見ただけで、また下をむいてしまう。
とても直視できない。それに……
ボクの友人は「ユウタ」ではない。「クロ」だ。
ボクはユウタに見えないように、スケッチブックを斜めにして、せっせとクロを描いて
いた。
触れた時の毛の感触や、くりっとした金色の目を思い出しながら……
ユウタの方も諦めたのか、うつむいたままのボクを描き始めた。
お互い、何も話さず、あっという間に2時間が過ぎた。
先生の所に提出に行く時、ユウタはとても不満気に、
「アイツ、全然顔見せてくれないから、ちゃんと描けなかった」と言った。
先生は「そうか」と言っただけだった。
ボクが絵を提出すると、先生の顔が明らかに変わるのが分かった。きっと怒られる。
先生が言った。
「お前、絵のお題が何かきいてたか?」
ボクは黙って頷いた。
「じゃあ何で猫なんか描いたんだ?」
ボクは黙っていた。
それを聞いてクラスの子達が大爆笑した。顔から火が出そうだった。
「先生、その絵見せてよ」誰かが言った。
「見せて、見せて!」他の子も言い始めた。
やめてくれ!そんなつもりで描いたんじゃない。ボクは恥ずかしくて失神しそうになった。
先生はみんなに向かってボクの絵を晒した。
クラス中が静まり返った。
「すげー!」
「上手いじゃん!」
先生が言った。
「先生もそう思った。いい絵だと思う。愛情が伝わってくる」
え?ボクの絵、褒められてる?
確かに小さい頃から、スケッチは よくしていた。
ベランダから見える風景とか、母のヒールの高い靴とか、あげくはカップ麺を食べた後のゴミ
まで、限られた景色の中で、何かしら見つけては鉛筆でスケッチしていた。
時間はたくさんあったから……
でも、その絵を誰かに見られた事も、見せた事も、これまで1度もなかった。
今日、はじめて、しかも、こんな多勢の前で、ボクの絵は人目に晒された。
評価された。
すごく恥ずかしくて、くすぐったい気持ちになった。
ユウタが言った。
「お前の友達は、この猫なんだな?」
ボクは大きく頷いた。
ユウタは、もう怒っていないみたいだった。ボクの顔をみて、二サッと笑ってくれた。
ボクも、うつむいたまま少し笑った。
ボクは、学校から引きずって来た気持ち、相変わらず何だかくすぐったい気持ちのままで帰宅
した。
「ただいま!」と大声で祖母に声をかけると、ニコニコしながら
「おかえり!」と言ってくれた。
急いでクロに会いに自室へむかう。
ボクが今朝、畳んだ布団の上で、クロは丸くなっていた。
嬉しさが込み上げた。
学校での出来事をクロに話して聞かせた。クロは途中で飽きてしまったのか、畳の縁を
カリカリと爪で引っ掻きはじめた。
それは マズイと思って、抱き上げた、その時だった。
「良かったじゃん」誰かに言われた。
ボクは思わずクロを落としそうになった。
誰?ボクに話しかけたのは……
「みんなに褒めてもらえたんでしょ?絵の事。良かったじゃん。」
ボクは、夢でも見ているのだろうか?
声の主はクロだった。
「お前、喋れるの?」
「猫が喋れないって、誰が決めたのさ?」
確かに、そんなルールはないけど……
「ごはんだよー!」祖母の声がする。返事をして、とりあえず食卓へ向かう。
祖母の前では、クロは一言も喋らなかった。
無心に子猫用の缶詰めを貪っている。食後のお皿をキレイに舐め、口の周りを舐め、自分の
前足の肉球までペロペロして、どこからどう見ても普通の猫だ。
さっきのは、やはり気のせいだったのではないだろうか……
食事と入浴を済ませ、布団に入ったが、今日は色々なことがありすぎて、なかなか寝付けなか
った。
「眠れないの?」と、クロが話しかけてきた。
やっぱり喋れるんだ、コイツ……
「何か色々あったから…」ボクが言うと、
「でも、ステキな1日だったじゃない?絵を褒めてもらえて、仲良くなれそうな友達も見つかっ
たし。」
「え?友達?」
「ユウタだよ!何だか仲良くなれそうな気がするけど」
それだけ言うと、クロはボクの布団の足元で、丸くなって寝てしまった。
そうかな?確かにユウタがクロの事を、友達だと言ってくれて嬉しかったけど……
ボクもいつの間にか眠りに落ちていた。
次の朝、学校へ行くとクラスの子が「おはよよ〜!」と声をかけてきた。
明らかに今までとは違う反応。
ユウタが登校してきた。
「おはよよう。ねえ、今日さ、お前んち行ってもいい?」
一瞬戸惑った。
「オレも猫、好きなんだ。あの絵の猫に会わせてよ」
クロに?喋っちゃう猫に?
ま、少しならいいか。バレやしないだろう。
放課後、ボクとユウタはボクの家に向かった。
祖母に「ただいま!」と言うと、
「あれ、友達かい?」と、いつも以上にニコニコしながら祖母が言った。
「こんにちは。お邪魔します」ユウタは爽やかに挨拶した。
ユウタって意外に礼儀正しいんだな……
ボクたちはクロに会うため、ボクの部屋へ向かった。
クロは相変わらず、畳んだ布団の上で丸くなっていた。
「わあ、かわいい……」少し乱暴だけど、愛おしそうにクロを撫でるユウタ。
その様子をボクは黙って眺めていた。
祖母が、二人分の麦茶とせんべいを、部屋まで持って来てくれた。
祖母が去った後、ユウタが言った。
「お前、ばあちゃんと暮らしてるの?」
「そうだよ」
「お!お前の声、はじめてまともに聞いたわ。親とかは?」
「いないよ」
「そっか。ゴメン。ああ、オレ?オレんち、父親が違うの。母親が再婚してさ。オレ、父親の
こと嫌い。多分、向こうもオレの事、邪魔だと思ってる」
「どうして そう思うの?」ボクが聞いた。
「何か、良く分からないタイミングで殴られるから。ほら見て」
ユウタはTシャツの、お腹の所を捲り上げて見せた。
青いアザはまだ新しい。黄色がかったアザは、少し前のものだろう。
「痛む?」ボクは聞いた。
「平気。もう慣れてるから」キレイな歯を見せてユウタが笑った。
こんなにステキな笑顔なのに、ボクはどうしてこんなに苦しいのだろう…
ユウタの心の底まではボクには分からない。
ただ、身体の痛みはいつか消えるけど、心の痛みは、ずっと消えない事をボクは知っている。
ユウタは無邪気にクロと戯れていた。
帰り際に、また来てもいいかと聞かれたので、ボクは「うん」と頷いた。
ユウタが帰った後、クロが喋り出した。
「ね、ユウタの事、友達になれそうだと思ったでしょ?」
「良くわからないけど、ユウタが辛い状況なのは分かった。でも…
ボクには何も出来ないね……」
「そばにいてやればいいよ。話を聞いてやればいい。一緒にいて欲しいと思う時、君が居てあげ
たらいい。君がさ、ボクにしてくれたみたいに……」
違うよ、クロ。本当に君を必要としてたのは、ボクの方だったんだ。
そう言いたかったけど、口を開くと涙声になりそうだったから、話すのをやめた。
それからユウタは、放課後や休日にボクの家へ遊びに来るようになった。
二人で近くの川へ釣りに行ったり、森の中へ散策に出かけたりもした。
森の奥に偶然見つけた小屋を、ボクたちは少しづつ改造して秘密基地にした。
そこへはクロも連れて行った。
雨漏りはするし、ホコリっぽいし、お世辞にも快適とは言えないが、ボクたちも、クロも満足
だった。
ある朝、学校で先生から、クラス全員の前で発表があった。
ボクが前に描いたクロの絵が、県のコンクールを通過し、全国のコンテストへ出展されたところ、
最優秀賞を受賞したと。
教室で、「おおー!」と騒めきが起こった。
ユウタは、ボクの顔を見て、ニコッと笑いながら、親指を立てていた。
恥ずかしかった。でも、それ以上に嬉しかった。
春が来て、ボクたちは中学へ進学した。
ボクは美術部へ入って、本格的に絵を描き始めた。昔はクロッキー画ばかりだったが、絵の具
を使って色で表現することも学んだ。遠近法や、色の濃淡で、光を表現する事も知った。
描く事が楽しくて仕方なかった。
出展した作品は、そのほとんどが、様々なコンクールで評価されるようになった。
でも、クロと、ユウタとの関係は変わっていない。
ユウタは身体を動かす方が好きなタイプだから、サッカー部で頑張っていた。週末も練習が入る
ので、小学校の頃よりは、会う時間が減ってしまったけど、一緒にいる時間は以前より大切で、
凝縮されたものになっていった。
あの秘密基地にも三人?で出かけた。ボクはそっちに画材を置いてあるから、ユウタとクロが
遊んでいる姿を描いたりもした。
ボクたちにとって、幸せな時間だった。
夏休みに入ったある日、ユウタが言い出した。
「オレ、家出する!」
ユウタは、左目の上の辺りを青く腫らしていた。
「何かあったの?」ボクは聞いた。
父親からの暴力はエスカレートしているらしく、母親は、ユウタを庇うどころか、見て見ぬふり
らしい。
もう、耐えられないと、ユウタは言った。
ユウタはリュックひとつで秘密基地にやって来た。中身は、水、カンパン、寝袋、カンテラ…
災害時の非常袋みたいだった。
ボクは、家から何だかんだと言い訳をして、食料を持って行ったり、こっそり家へ、風呂を使い
に連れてきたりもした。
1か月程が過ぎた。さすがにユウタの親も彼を探し始めているらしい事が風の噂で耳に入ってき
た。
警察に捜索願も出したらしい。
ボクたちは秘密基地に三人でいた。
「ユウタ、そろそろ潮時だな……」突然クロが言った。
驚いたのはユウタだ。クロが?クロが喋った?
ポカンとしているユウタに向かって、クロは続けた。
「お母さんに伝えたいことが、本当は山程あるんだろう?こんなキャンプみたいな家出ごっこ、
いつまでも続かない事だって、初めか分かってたはずだよ。」
「でも、帰りたくない…」ユウタの目から涙が溢れる。
「違うだろう?本当は帰りたいんだろう?自分の居場所が欲しいんだよね。ちゃんと自分で見つけ
なきゃ!もう、逃げちゃダメだよ。ちゃんと現実と向き合うんだ。自分の言葉で、自分の心の中の
事、全部伝えてみようよ。分かってもらえるまで、何度でも、何度でも……」
ボクたちは、クロの言葉に従う事にした。