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雨がやむ前に

 雨が降っている。

 黒く低い雲が勢いよく西から東に流れていく。その形は見る見る変わり、少しも同じ姿をとどめてはいない。

 絶え間なく真っ直ぐに落ちる水滴が顔を濡らす。

 頬を伝う涙が雨に紛れてわからなくなってしまうまで、私はそこで立っていた。





「真保……。会いたかった」


 良隆はにっこりと微笑みを浮かべる。梅雨時期になるといつも湿気を含んで、うねる髪、優しく細められる瞳、それらは私の記憶の中にある彼と同じだけれども、どうしてだろうか、私の知らない人のように思えて、彼の部屋に入ることを躊躇してしまう。


「良隆、久しぶり。元気みたいだね……」


「話があるんだろ?入りなよ」

 彼の瞳が一瞬にして冷えるけれども、口元は変わらず微笑みを浮かべている。


 乱れのない整えられた部屋、私の知っている彼はもういないのかもしれない不安がじんわりと胸に広がる。




「あの子は何も言わない、でも……、良隆なんでしょ?」


「何ていってほしい、真保?」


「素敵な小説なら、『俺は渚がずっとすきだったんだ』かな……」


「……陳腐の間違いだろ?」


「そうか……、じゃあ何で?」


「何で渚を抱いたのかって?」


 くくっと喉を鳴らして、私を見つめる瞳の冷たさに私の体は凍ったように動かない。


「笑えるだろ?俺の気持ちは変わらないっていったら、それでもいいってさ。悲劇のヒロインのつもりなんだよ?これは協力してあげようと思って、思い切り抱いた。真保って呼んで何度もね」



 私は体の力が抜けて、頭が白く霞んでくる。けれども、まぶたをきつく閉じて、大きく息を吸ってから、顔をあげ、彼の瞳を真っ直ぐに受け止める。


「そっか……、わかった。話はわかったから、もう帰る」


 立ち上がろうとする私の腕は彼の手に捕まえられてしまう。


「すんなり、帰れると思ってた?」


「え……?良隆?」


「もう、離さないから、真保」


 強く腕を引かれ抱き寄せられる。彼の腕は優しく私を包み込むように捕らえる。

 私の額に彼の鎖骨がコツリと当たり、あの時は息が苦しいくらいにきつく抱き締められ、耳元で自分とは違うリズムで、胸を打つ音が聞こえていたことを思い出す。


 ーーあの人じゃないんだ。


 そっと頬を撫でられ、柔らかく重なる唇。そのまますぐに離れて、彼は満足そうに口角をきゅっとあげる。



 顎を強く掴まれて、唇を食べられてしまうのかと思うくらい吸われ、痛いくらいに歯を立てられた。

 私を見つめる瞳は深く黒く強く欲していた。そんな瞳を私は知らない。

 私はあの瞳に見つめられたい。あの人がいい。



 良隆が私の頬から耳をついばんでいく。くすぐるような優しい口付け。

 彼の唇が私に落ちる度に、私の求めるモノとは違うことを私にわからしめていく。



 怖い、そう思ったときだけ止まった手、それ以上は求めなかった手、あの手にすべてをあげてしまえばよかった。約束なんてしないで。


 このまま良隆の手は私のすべてを奪ってしまうのだろうか。


 このままあの人との約束は果たせないのだろうか。



「真保……」

 良隆の甘い声が耳元に落ちて、彼の手が背中を撫でる。


 あの人に私の名を呼んでもらえばよかった。



「真保……、泣くほど嫌?」

 いつの間にか頬は濡れていた。彼が伝う涙を舐めとっていく。


「……」


「……どれくらい、俺が真保を好きか、わかってない。……どんなに俺が好きでも求めても、真保を俺を拒む。どうしてなんだ?」


「……私もどうして良隆が好きにならないのか不思議。……すごく大切ですごく幸せになってほしいからかな?……私じゃダメだから。私はみんなを幸せにしてあげられないから」


「……もう、治ったんだろう?再発してからもう、五年以上たってる」



「……また、ダメなんだ。私は死んでしまう」


「……真保」


「もう、死ぬとわかってるのに恋なんてしちゃダメでしょ?……お願い、幸せになって。私のことなんて忘れて、誰かに私を重ねるようなことしないで、こんな悲しいことないよ……。良隆、ごめん」


「……真保、なおさら離せなくなる。いなくなるなら、その一瞬たりとも離れたくない」


「私は……」

 誰と一緒にいたいと言葉にするつもりなのだろうか。


「……真保、うんと言って。俺を拒まないで……」


 良隆の優しく私を包み込んでいた腕がゆっくりとほどかれ、ブラウスのボタンに手をかける。ポツポツと右手で外され、スルリと冷たい指が脇腹を撫でて、背中にまわり、ホックが外される。


「……ごめんね。本当にごめんなさい。誰かを想って身体を重ねることって、本当に辛いね。私のせいで良隆にこんなに辛い思いさせてしまったんだね」



「……真保、誰かを想って身体を重ねるの?」

 彼の手が行き場を失ったようにピタリと止まる。


「……」

 私は何も言えない、溢れる涙を止めることもできない。


「……どうして、どうして、俺じゃダメなんだ……」


「……ごめんね」


「もう、いっそここで二人で死のうか?」彼の細く長い指がヒヤリと私の首に触れ、気道を彼の親指がグイっと押さえつける。息が詰まり、苦しさに彼の腕を掴む。けれども、その腕はびくともしない。


 ーーここで死ぬのかな、約束を守れないな。まだ、死にたくない……。


 意識が遠退きそうになったとき、ふっと首の締め付けから解放され、一気に肺に空気を吸い込もうとするけれど、咳き込んでしまい、上手く息をすることができず、硬いフローリングの床に倒れこんでしまう。

 荒くなってしまう息を整えることもできないまま、私は良隆を見上げる。


「……真保、生きて」

 彼の頬からはポタリポタリと雫がこぼれ、床を濡らしている。

 彼はゆらりと部屋から出ていくけれど、私は立ち上がることも、引き留める声をかけることもできなかった。

 涙を流す権利などないとわかってはいたけれど、私はうずくまったまま嗚咽をこらえていた。



 窓に当たる雨音が聞こえる。雨どいから落ちる水滴のリズム、通り過ぎる車が跳ね上げる水音。


 うっすら目を開けると、窓から街灯の光が入って、部屋を照らしている。



 私はもう一度、目を閉じて、肺にいっぱいの空気を取り込み、ゆっくりと吐き出す。

 頭と首が鈍く痛むことで、私の記憶に間違いがないことを知る。


 ーーあぁ、生きてる。








 私は酒屋の角を曲がり、茶色いアパートを見上げる。

 私はここでいったい、何をしようとしているのか。

 生きることをあきらめた私に、死んでしまう私に、何が許されるのだろうか?



 頼りない街灯の光に照らされて浮かび上がるアパートの階段を下りてくる人影、傘をさしているために、その顔はうかがい知ることはできないけれども、私の求めていた人であることは、すぐにわかった。



「……雨漏りか?」


「……せんせっ……んっ」

 言い終わらないうちに、唇をふさがれる。

 私を強く抱き締める腕、深く口付け、絡め取られる舌、食まれる唇。私は求めていたモノを得られた安堵と、体の芯が痺れるような疼きで、力が抜けていく。


「恭平だろ?……約束果たしにきた?」

 彼はしっかりと私を抱き止め、深く黒く、強く求める瞳を私に向ける。


「……」


「名前はどっちでもいけど、今日は離さない。初めてを全部もらうから」


 彼は軽々と私を抱き上げ、階段を上がっていく。


 アパートの部屋のドアがパタリと閉まると、彼は私の濡れたブラウスもスカートも下着も、何の迷いもなく剥ぎ取っていく。

 玄関に散らばった私の服をそのままに奥に運ばれ、彼の匂いの濃いベッドに下ろされる。


 彼は私の濡れた髪を長い指ですいて、耳に甘く歯を立て、首筋をきつく吸う。

 ピリッとした痛みが走る。


「……何、やってんだよ」

 彼は私の首を指でなぞる。


「……恭平さんの顔が浮かんだ。恭平さんに会いたかったし、全部あげなかったの、後悔した」


 彼は私の肩をきつく噛む。

「いたっ!もう、噛んじゃイヤ」


「後悔しないように、全部もらう。今日は止めないから」


 彼がシャツのボタンを外して、ベッドの下に投げ捨てて、私に覆い被さる。彼の体のは熱を持っていて、胸も肩も首も滑らかで硬い。

 彼は私の手を突然握り、くすぐったいと頬を緩める。



 手を伸ばせは、触れられるところに彼がいる。何度も彼の髪を想った、それにソロリと手を伸ばし生え際からゆっくりと撫でていくと想像していたよりも、柔らかく指の間を滑る。

「……この髪に触ってみたかったの」


「……」

 ニヤリと口元を歪めて、私の肌に歯を立てる。


「やっ!もう、噛まないでっ……」

 くっきりと歯の後が赤く浮かび上がる。彼はそれを満足そうに指でなぞり、舌を這わせる。


「ん……。あっ……ん」

 聞いたこともない声が漏れてしまい、私は口を閉じる。



「声、聞かせて」

 彼はまたあの瞳で私を見つめ、肌の上に舌を這わせる。


 ーー私の初めてをすべてを彼にあげた。







 鳥のさえずりが聞こえ、雨が降っていないことを知る。


 私は肌の上に残る赤い後を指でなぞる。

 腕にも胸にも、彼の美しく並ぶ歯列を思わせる痕。所々には、赤い花びらを思わせる痕が散らばっている。

 軋む体をゆっくりと起こし、玄関に置き去りにされた冷たい服を身につける。

 体の熱が奪われて、見つめなければならない現実に引き戻される。


 ドアに手をかけたところで、後ろから声がかかる。


「シンデレラの魔法が溶けたか?」


「うん……」


「また、来いよ?……まだ足りないから」

「足りないの?」

 思わず、私は振り返り彼の瞳を見つめてしまった。

 満足そうに笑う彼に抱きしめられる。


「足りない、全然足りない」

 耳元で囁かれ、柔らかく舌を這わせてから、歯を立てる。


「んっ!……噛むと思った。行くね、離して?」


「……コレ、どうした?誰にされた?」

 彼の唇が首筋をなぞる。


「……大丈夫。心配いらない」


「答えになってない……」


「いいの……」


「なんだそれ?いいわけないだろう?」


「……私、死ぬの。だからもういいの。だからもう来ない。だから忘れて」


「……なんだそれ?生きてるんだから、死ぬに決まってる。誰だって死ぬんだよ。それが今日かもしれないし、明日かもしれないから、必死で生きてんだろ?お前だけじゃない、俺だって、今日、死ぬかもしれないぞ?……もう、誰にも触らせるな」


「……せんせっ」

 唇を強く吸われ、舌を絡め取られる。私は噛まれる前に彼の舌に歯を立てる。


「……恭平だろ?……また俺に抱かれたいだろ?……俺はまだ足りないからな」



「もう……、帰る。服を着替えたいし」


「送ろうか?下で待っててやるよ」


「いい。すぐそこだから」


 私は彼に背中を向けて、部屋を後にする。コツコツとヒールの靴音が響く。階段の手前で振り返るとドアにもたれ掛かった彼が小さく手を上げる。

 私は頬が緩んでしまうことを彼に見られたくなくて、階段をかけ下りる。


『誰だって同じ……』彼の言葉がまた耳元で聞こえた気がした。

 私だけが死んでしまう訳じゃない。誰だって同じ。生きてるから、死んでしまう。

 私が誰よりも『悲劇のヒロイン』を演じていたのかもしれない。


 アパートの階段を下りて、見上げた空はたくさんの雲に覆われていたけれど、その隙間から青空が見えて、光が下りている。


 風が緩く街路樹を揺らし、早朝の道路は閑散としている。


 私はマンションに向かって、歩き始める。酒屋の角で私は横断歩道が歪んで見え、驚いて視線を上げると、信号機がぐるぐると回る。鈍く痛んでいた頭は脈打つように、激しく痛む。

 私は立っていることが出来ずに自動販売機の前に座り込む。



 ーーあぁ、私はここで死んでしまうのかな。





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