知らない罪と知らせない罪
「大変なご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません」
深く頭を下げる黒い髪の頭を、わたしはぼんやりたと見つめる。
ーーどうしてあの女がここにいるの?
腕を引かれ、見覚えのある白い車の後部座席に押し込められるように、乗る。
「本当に申し訳ありませんでした。連絡していただいて、助かりました」
ネイビーのジャケットを着た後ろ姿が、腰を深く折る。
エンジンが回り、車窓からの景色がゆっくりと動き始める。
雨に濡れて、街路樹の深い緑の葉が太陽の光を受けてキラキラとしている。いつまで、雨が降っていたのだろうか。
今の空は青く白い雲がふわりふわりとうかんでいる、まるで雨雲など一筋も浮かんでいなかったかのように、すっきりと青く澄んでいる。
「渚、大丈夫?気持ち悪い?吐きそうなら言って、クルマ停めるから」
真っ直ぐに前を見つめたまま言う。
赤信号で停まったとき、くるりとこちらを振り向き、目を細めて微笑む。
「渚はしっかりしてるからって、みんなで渚に甘えてたね、ゴメン。いっぱい無理させて、いっぱい我慢させてしまったね。いつまでたっても、小さいまま、子供な気がして、何も教えなかった。……少し考えれば、間違ってることがわかるのにね、もう、17才。まだ17才じゃないんだね。……結婚だってできる年だもんね」
「なに言ってんの、今さら?あんたに何がわかるのよ?わたしの何を知ってるって言うの?何にもわかってないのは、あんたのほうでしょっ!?」
「……」
ふうと大きくため息をついて、困ったように笑い、何にも言わなかった。
車は住み慣れた住宅街の一戸建ての家ではなく、幹線道路に面したテラコッタタイル張りのマンションの前に停まる。
「降りて」
とられた腕を振り払い、わたしは後を付いて歩く。
いくつも並んだドアの1つの前に立ち、鍵を差し込む。一瞬、動きを止めて、小さく首を振って目を閉じた。
「お母さん、来てる」
言い終わらないうちに、ガチャリと内からドアが開かれる。
「お母さんには、言わないでって言ったじゃない!?嘘つき!!」
わたしは目の前の女の頬を力いっぱいに叩く。
パシっ!
高い音が響き、手は強い衝撃のすぐあとからじんと熱くなり、胸を打つようにズキズキと痛む。
「……入ろう」
細く開いたドアが大きく開いて、赤く腫らした目の母親が顔をのぞかせる。
「何?何をしているのよ、こんなところでいったい、どうしたの?二人とも?……真保!ちょっと待ちなさい。真保!!」
母親の声に全く耳をかすことなく、その脇をすり抜けて、パンプスを脱いで中へはいっていく。
母親は大きく息を吐き、わたしの存在に今、気づいたらしく、はっとして曖昧な笑みを浮かべる。
「渚……。どうかしたの?ケンカでもしたの?……渚?顔色も良くないし?ちゃんと食べてた?」
母親の白々しい言葉に苛立ちを押さえきれない。
「知ってるんでしょ?全部聞いたからここにいるんでしょ?……言わないでって言ったのに!」
「渚……。何があったの?とにかく、入りなさい」
母親の瞳がゆらりと振れる。わたしは腕を引かれてリビングのソファーに体を預ける。
「お母さん、話は後ね。先に渚に話があるから、黙って聞いてて」
カウンター式のキッチンから、こちらを見ないまま声が聞こえる。
「渚、何か飲む?」
「……いらない」
マグカップを両手に持ち、わたしの横に座っている母親にマグカップを渡し、わたしの前にゆっくりと腰をかける。
「……自分で言う?それとも私が聞く?」
「……」
「じゃ、私が聞くわ。妊娠検査はしたの?」
「え?……何っ!どういうことよ?!渚っ!」
「……」
「お母さんは黙ってて。その結果次第で、次の質問するね。先に検査、済ませようか」
「そんなの、検査するまでもないわ……。気持ち悪いし、食べ物の匂いで吐いてしまうし、頭は痛いし、……生理はもう三週間も遅れてるもの」
「な……、渚っ!?いったい、どういうことなの?」
「だから、お母さんは黙ってて。検査してみないことには信じられないって言ってるの。渚がどう思ってるかじゃないの、渚の体を心配してるから言ってるの。検査しないまま、病院にも行かないまま、友達の家で赤ちゃんを産むつもりだったわけ?そんなこと、出来るわけないでしょう?」
「渚っ……」
表情の固まった真っ白の顔をわたしに向けて、腕を痛いくらいに掴まれる。
「お母さん……。もう少し待って。渚、検査はしない、病院にも行かない、高校にも行かない。どうしょうと思ってるの?」
「うるさいうるさいうるさいっ!もうっ!ほっといてよ」
このままじゃだめなことはわかっていたけれど、わたしには誰もいなかった。
わたしにはどこにも居場所なんてなかった。どうすればいいのかわからなかったわけじゃない。けれど、怖かった。
こない生理、張って痛い胸、止まらない吐き気、回るような頭痛。この理由がお腹に赤ちゃんがいるとしたら、産むことも、おろしてしまうことも、怖かった。
はっきりと、わかってしまうことも怖かった。
二人の前で涙を流すことが悔しかったけれども、とめどなく頬を伝う。
お母さんの手がわたしの背中を撫でる。ゆっくりとゆっくりと、背中が温まっていく。
「渚……」
お母さんに抱かれた肩が温かかった。
「お母さん、渚は学校に行ってなかったの。友達の家に入り浸ったまま帰ってこなかった。……それで、私が代わりに高校に行ってた。ごめんね、渚。私、高校にいい重いでがなくて、仕事も採用取り消しになったし、制服を着てみたら、何か行きたくなちゃって……」
「……信じられないっ!なんでそんな勝手なことするの?要は、暇だったってことなんでしょ?もう、行けるわけないじゃん?あんた誰?ってなるのわかってたでしょ?」
「けっこう、似てるって言われるから、髪を短くして、コンタクトレンズにしたのって言えば大丈夫かなぁって……?デビュー的な?かなりダサい感じで地味に過ごしてたから……」
「……真保。どうしてそんなことをするの?やっていいことと悪いことがあるでしょう?」
「……別にいいけど。もう行くことないし」
「渚、ちゃんと検査しよう?はっきりさせないと先にすすまないから」
すでに用意してあったらしく、妊娠検査薬を渡され、箱からプラスチックのスティックを取り出して私はトイレに入る。
オレンジ色の電球の光だけに、照らされた小さな密室でわたしはじっとスティックを見つめている。
結果はどちらがいいのか、わかってはいない。
薄い桃色のラインがはっきりと浮かび上がる。
どれだけ待っても、そのラインは二本。
ーーわたしのお腹の中には彼との赤ちゃんがいる。
「渚はどうしたい?」
「渚っ!相手は誰なの?ちゃんと話さないとわからないでしょ?」
「お母さんは黙って、渚はどうしたい?産みたい?産みたくない?相手にはどうしてほしい?知らせたい?知られたくない?自分で決めなきゃ。自分のことでしょう?」
その言葉に、お母さんはハッとして口を閉ざす。
「しっかり自分で考えて、自分で決めて。相談には乗るわ、でもあまり時間はないからね」
「真保……」
「お母さん、お待たせ、話ししょうか?……渚、聞きたいならそこにいて、聞きたくないなら、左の部屋が渚の部屋だから」
「真保!どうして渚に聞かせるのよ?そんな必要はないわ、ましてや、お腹に赤ちゃんがいるのに……」
「私に話さなかったことをお母さんは間違ってなかったと思うの?渚にも何も話してないことを、話さないことを正しいと思うの?私はもう22だし、渚も17なんだ。なんでも親の思う通りにはいられないんだよ?自分ことは自分で決めたいし、決めなきゃダメなんだよ。……お母さん、私は初めから全部話してほしかった。私のことは私が決めたかったよ、今さらだけどね。……だから、渚には自分で決めてほしいよ」
片方の頬だけを赤く腫らした蒼白い顔に浮かぶ、黒くよどんだ瞳でぼんやりとわたしを見つめる。わたしは話の内容をつかむことができない。
「何?いったい何の話しなの?」
「今日、お母さんがここに来たのは、病院から連絡があったからよ」
そうでしょとお母さんに視線を合わせ、うっすらと微笑みを浮かべる。
「渚、長いことおばあちゃんの家に行ってたのを覚えてる?」
「うん」
「私、毎日同じことの繰り返しなんだと思ってた。それがどれくらいすごいことかなんて、知らなかったし、……知りたくもなかったわ」
どんよりとよどんでいた目を、痛みを堪えるようにきつく閉じる。
そうして、開かれた口からこぼれでた言葉は、心のどこかでわかっていたけれど、気づかないふりをしていたことであることだった。
知りたくなかったのか、知りたかったのか、わからない。
どちらも、怖いから。
それはまるで、プラスチックのスティックの結果を知ることに似ていた。




