黄昏の西校舎
薄暗い狭いアパートの玄関で、彼女はハイヒールをカツンと鳴らして履き、立ち上がる。折れてしまいそうなくらい細い足首、滑らかな線を描くふくらはぎ、丸い骨の浮かぶ膝、スカートの裾を引っ張り、乱れを整える白い手。
ゆるく編んで高くまとめてある髪、うなじのあたりで届かない毛束が一筋、白く柔らかそうな首に絡み付いている。
俺はその首に触れて、ペロリと舌を這わす。
「ちょっ、やめて……」
ハイヒールで立ち上がっても、胸の辺りまでしかない、彼女は頬を赤く染めて、上目遣いで睨んでくる。
俺は堪らずに少し尖らせた唇を捕らえる。何度も何度も重ねたそれは、少し熱を持ってぽってりと丸みを増していた。
ーー名前も知らない女。
初めて見つけたときから、触れたくて仕方なかった。
無意識に手を伸ばしてしまいそうで、傍らに立つときはいつも腕を組んでいた。
とうとう頭がおかしくなったと、我がことながら笑えた。
生徒にこんな感情を持つ自分が信じられず、触れずにいられる自信もなく、そのくせ、よせばいいのに、西校舎の見回りを率先して行っていた。
黄昏の迫る西からの光が葉桜に降り注ぎ、教室もキラキラとした光に満ちていた。
机に肘をついて、黙々と本に向かうその瞳は、目を細めてしまうくらい、眩しかった。
抜けるように白く細い顎をグッと掴んで上を向かせ、桜色の唇を食みたい衝動にかられる。
嬉々として語る書籍の内容はあまり耳に留まらず、クルクル変わる表情に釘付けになる。だから内容の矛盾に気付くのは、彼女との会話を後になって思い出す時だった。
喜久川はいとも簡単に肩にも腰にも、その柔らかそうな首にも触れることができる。
自分は決して出来ないことに苛立ちを覚え、またそう思う自分にため息をついてしまう。
ーーそれが今、この手の中にある。
「ホントに離して……。もう行かなきゃ」腕の中で彼女は身をよじり、俺の胸を押す。彼女の言葉とは裏腹に、全く身体は離れない。
「このまま、帰したくない……。それとも、靴を片方だけおいていってくれるか?」
「シンデレラみたいに?」
「シンデレラみたいに」
「……ダメ、今からしなきゃいけないことがあるから靴がないと困る」
「じゃ、財布?免許証?スマホ?」
「何それ?私が悪いことしたみたいだし……。どれも今から使うからムリ」
彼女のジャケットに手をかけ、スルリと滑らかな肩あらわにして、その肩をペロリと舐めて、歯を立てる。
「痛っ!もう止めてって。ホントに」
「そんな顔して止めてって言われて、止めれるワケないだろ?……今まで止めたヤツいた?」
「……わかんない。……ないから」
「えっ……」
彼女に誰も触れたことがないという、目がクラクラする。
「じゃ、俺のな?初めては全部俺の」
緩めていた腕をまた、きつく締めて、彼女の耳元に唇を這わせる。
「やっ、先生っ」
唇を重ねて、その細い隙間から舌を滑り込ませると、彼女はそっと舌を絡めてくる。その舌を甘く噛む。
「んっ!」
「恭平だ。先生って言うなよ?」
「……うん」
じっとその唇が自分の名前を口にするのを待っていると、彼女はそれに気付いたらしく、頬を赤くしてうつむいてしまう。
「呼んで?」
「……やだ」
「じゃ、名前を教えて?」
「……むり」
「じゃ、離さない」
「……だめ」
「困った、どうしようか?」
彼女は目を伏せて、俺の腕の中でじっと何かに想いをめぐらせているようだった。ゆっくりと顔を上げて、目を細めて微笑む。
「約束する……。私の名前も教える、私の初めても、全部あげる。……でも今はダメ。何もおいてはいけない、何も教えてもいけない……、でもちゃんとしたら、ここに来ること、約束するから、指切りね?……恭平さん?」
顔の前で小さな小指をピンと立てて、くっきりと口角をあげる。
「約束か……」
こんなに可愛くお願いされては断れない。俺は小さな小指に指を絡めて、彼女を腕の中から出した。
足早に立ち去る彼女が一度も振り返ることなく、階段をかけ下りていくのを俺は見ていた。
あの時、離さずに捕まえておくべきだったと俺は何度も後悔した。
梅雨入り間際に、橋本渚の休学願いが出されていたことを知る。
放課後の西校舎の見回りをしても、彼女はいないにも関わらず、俺はバカみたいに足を向ける。
どの教室にも彼女はいないのに、一つ一つ見て回る。
「おい?野崎、重症じゃねぇ?」
長い前髪をくしゃりとかきあげながら、喜久川が面白いものでも見つけたかのように声を弾ませている。
「んだよ?……呼び捨てするな」
「あの人とどうなったんだ? ……フラれた?いつの間にか休学してるし、何だよもしかして、手を出しちまったとか?それで休学とか、あり得ねえしっ」
「勝手に妄想するなっ!」
「てことは、フラれたってことだ?しけた面して、未練たらしく西校舎に来て、彼女との思い出にでも浸ってると」
「うるせーよ」
「おい……。否定しろよ?マジかよ?……あんた、生徒に対する目じゃなかったからな、オレが肩に手を乗せるだけで睨んできやがったし?てか、あの人いくつだった?」
喜久川はクツクツと笑って教室の机の上に腰をかける。
「知らない。……名前も、連絡先も知らない。いくつだったって……何でそんなこと聞く?」
「女の年なんて触ればだいたい判るだろ?絶対に高校生じゃなかった。20代……21か22ってとこじゃね?……名前も、知らないってバカじゃねぇの?完全に避けられつるだろ?それ」
喜久川の言葉に、思わずため息がこぼれる。彼女と絡めた右手の小指に目を落とす。
『約束する』
彼女の声が耳によみがえる。
「まっ、大丈夫だろ」
「はぁ?何がどうなると、そこで大丈夫なんてセリフ吐けるワケ?……あの人も妙なこと言ってたな」
「妙なこと?」
「……」
「何だよ?」
「こえーし?一年待てばいいだけだろって」
「何だよそれ?……黒田とのことか?」
「知ってんのかよっ……、高校生じゃないなら、好きだって言えば済むだろって言ったんだ。そうしたら、オレは一年待てばいいだけだろって」
「……どういう意味だよ?」
「知らねぇし。……一年、待てないってことだろ?」
「……なんだそれ?」
「引っ越しとか?」
煌めくように美しく劇的に奇跡がおこるのは物語の中だけなのかもしれない。
彼女は何も言わずに居なくなって、いつまで待っても約束を果たす気配はない。
酒屋の角を曲がると目にはいる、12階建てのマンション、このズラリと並ぶ部屋のどこかに彼女はいるのだろうか。
通り過ぎていく人の中に、彼女を探してしまう。
小さな背中、白く細い手足、黒く長い髪。
けれども、俺は彼女を見つけることも、忘れることもできない。




