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薫風と青い空

「先生……。さよなら」



 空は青く晴れ渡っていて、白い雲がふわりふわりと浮かび、斜めに切り分けるように真っ直ぐな飛行機雲が伸びていた。柔らかく暖かな風が頬をなでていく。



 私は酒屋の角を曲がり、茶色いアパートの前で、四階に並ぶ窓を見上げる。

 いつからか干したままの洗濯物のぶら下がった部屋、ぴっちりとカーテンの引かれた部屋、ゴミの袋がちらりと見えている部屋、いったいどの部屋に彼はいるのだろうか。階段を上がり、ドアの前の部屋番号が書かれたプレートを確認すれば、簡単にわかることだけれど、私はしなかった。

 きっと、インターフォンを押してしまい、私の決心が鈍ってしまうことをわかっているから。


 もう、これ以上、渚ではいられない。




『もしもし……。渚のお姉さんですか?』


 渚のスマホはいつ連絡しても電源が入っていない。結局、ゴールデンウィークも渚は帰ってこなかった。

 祖母の体調はなかなか安定せず、母と父の疲労も濃いようだ。祖母の介護はゴールデンウィーク中はショートスティになんとか頼むことができたようだが、両親は身体を癒すことを優先し、こちらには来なかった。

 私の全く問題がないという言葉を鵜呑みにした両親に、私は心底安堵した。


 しかしそれは、結局問題を先送りしただけに過ぎなかった。



 ここで無機質な茶色いアパートを見つめていても、なにも変わらないことはわかっていたけれど、私は動けずにいた。



「……橋本?どうした?……本、読みに来たのか?」


 後ろからかけられた声に私は、体が弾むほど驚き、また、耳がこの声を求めていたことを改めて感じた。そして、胸が締め付けられるように痛む。


 振り返った目の前に、よれよれのトレーナーを着て、前髪がぴょんと跳ねた先生がレジ袋を手に呆然と立ち尽くしている。


「……」


 私は言葉を発することが出来ずに、曖昧に笑みを浮かべようと頬を緩めるも、全く上手くできなかった。

 震えそうになる手を悟られないように、膝丈のワンピースをぎゅっと握りしめる。


「……。」


 先生も何も言わずに、しばらく私を見つめたまま、動かずにいた。

 けれど、目を細めて笑いそっと私の手を引いて、歩きはじめる。


「ゆっくり、読んでいいから」

 

 私は抗うことができなかった。その手を振り払い、別れの言葉を吐けばいいとわかっていたけれど、今日で最後だからと自分に言い訳をして、先生の手の温もりを心に刻む。


 アパートのドアを開けて、いくつかの出しっぱなしの靴を先生はスリッパで端によせる。

「こっちだ」


 左手の部屋に入ると、目の前に大きな本棚にびっしりと本が詰まっている。


「わ〜」


 私はあえて、今の自分のおかれている状況をすべて、頭の奥底に押しやって、ズラリと並ぶ背表紙を見つめる。


「適当に座っていいから」


 先生はそう言うとすぐに部屋を出ていってしまった。

 あまり日が当たらないらしいこの部屋の腰高窓から入る光がぼんやりと全体を明るくしている。

 棚の前で背表紙を指でなぞりながら、その文字をおう。


 そうして私は本の世界にすっぽりと嵌まってしまう。






 あの頃もそうだった。

 全ての現実から私を切り離し、その世界が私を包み込む。その世界にいる間だけは全てを忘れることができた。

 それが、私を救った。本があるから、あったから、私は私でいられるといってもおかしくはない。



 本当に辛かった。

 当たり前だと思っていた日常がすべて、初めから幻だったのかと思うくらい。

 あまりの辛さに、ただ時が過ぎるのをぼんやりと、じっと待っているだけだった日々。


 何も食べていないにも関わらず、止まらない嘔吐。

 口内炎の腫れが痛くて何も口に出来ない空腹。

 冗談みたいに、束のままばさりと落ちる自慢の長い髪。

 息をすることが精一杯の体の怠さ。


 哀れむような母の視線。

 戸惑いを隠せない父の揺れる瞳。

 祖母に預けられたままの妹。



 辛さを言葉に出来なかった。

 母も父も、妹も辛い思いをさせているとわかっていたから、『大丈夫』と言うしかなかった。


 全く伸びてこない髪のまま、私は学校へ行くことが出来なかった。

 さらさらの長い髪をなびかせる妹を見ることも辛かった。どうして私なのと考えても仕方のないことまでも、心に浮かび自己嫌悪した。


 あの頃も今日と同じように、目の前にある全てを背け、小さな部屋に閉じ籠り、私は本を手に取る。


 誰かの長い髪も、自分の髪の毛だけでなく眉毛も睫毛もない顔は見たくなかった。

 ただ、ならぶ活字だけを見つめていた。


 本の世界はいつだって優しく、胸が踊り、高鳴り、最後は必ず幸せだった。


 ここにいても何も変わらない、このままじゃいけない。そう教えてくれたのも、本だった。

 私に寄り添い、励まし、助けてくれたのは、本だった。


 因数分解の公式も、英語の過去形も、全部、本が教えてくれた。



 それでも、外にでる勇気が持てない私に、手をさし出してくれたのは、幼なじみの良隆だった。



 いつも一緒に遊んだ。土筆を取りに川原に行ったり、蝉を捕まえに神社に行ったりした。登下校も一緒で、季節の変わり目になると決まって熱を出す良隆の家にノートを届けていたのも私だ。

 私が学校に行かなくなってから、ノートを届けてくれていたのは、良隆だった。


 中学生だった良隆は、しばらく見ない間に手も足もスラリと伸びて、私のすぐ横にあった顔は見上げるくらい上にあった。けれども、私の記憶の中にある、ちょっと泣きそうな目をして微笑む、その顔は変わらないままだったことに、私はとても安心した。


「真保……」


 私を呼ぶ声も私の知っているそれよりも、低く響き、まるで男の人のようで私は少し驚いた。


 良隆が私を大切に思ってくれていることは、わかっていた。




 何でも知ることができる便利な箱がなかったら、私は彼の手を取ることが出来たのかもしれない。



 カタカタと手元のキーを押して、マウスをコチコチとすれば、そこには知りたいことも知りたくないことも、写し出される。



 私に示された確率は、まるで天気予報だ。


 寛解、維持、強化……。

 再発率、五年生存率……。

 晩期障害、循環器障害、発達障害……。


 晴れ時々曇り、所によって雨……。

 降水確率……。

 風速、波の高さ、花粉情報……。

 今年の梅雨は長く、夏は酷暑の予報……。



 私の毎日は、当たり前のことなんか何もない。そう知るのには十分だった。

 その手を取ることで、彼の悲しみをあえて膨らます必要もない。それ以上に、私は自分の悲しみを膨らませたくなかった。









「……橋本?何か飲むか?」

 ドアにもたれかかるように先生は立って、手にペットボトルの紅茶を持っていた。


「いや、大丈夫です」


「何を読んでるんだ?」

 先生はいつも放課後の教室のように腕を組んでいるけれど、足の運びは何かを躊躇するようにゆっくり、踏みしめる。


「蒼い梟の森です、ホントに装丁が素敵ですね、県立図書館にしか蔵書がなくてなかなか足をのばせないし。しかも絶版だから高いし。今は全集でしか読めない……」


「それが、好きならコッチも好きなんじゃないのか?」

 先生が本棚の左の上から、一冊抜き取り、私に差し出す。


「あぁ、これはドラマになりましたね?私、結構原作気に入っていたから、ドラマ化は反対だったんですけど、あれはあれで良かったですよね?何だかんだ言いながらも、毎週見てましたもん」


「……」

 先生は困ったように笑っている。その意味が私にはわからなくて、問うように見つめると、ふうと大きなため息をこぼして、先生は私の肩に手をおく。


「……先生?」


「君はいったい、誰なんだ?」


「……」

 一瞬、目の前が真っ白になって、手足が急に冷たくなり震えそうになる。ドキドキと胸が大きく打つ。


「……このドラマは7年も前だ。今、17才ならこのドラマがやってたころは、まだ小学生だ?……新之助江戸日記の前回の発刊は5年前、これも小学生。朝イチで書店に駆け込むには無理がある。難解な小説ではないけれど、多分漢字が読めない、のめり込むほどに理解するには、最低でも中学生、だから今、君は20才を過ぎてないとおかしいんだ」



「……そっか」

 ゲームオーバーだ。もう少しだけ渚のままで彼のそばに居たかったけれど、おしまいだ。


「制服だと……、俺がおかしいのかと思ってた。もしかして、生徒じゃないのかもしれないって何度も思ったけど、俺が都合よく解釈してしまうだけだとな。でもそうじゃない、今日の姿じゃ、高校生だって誰も信じない」


 シンプルな膝丈のワンピースにジャケットを合わせて、いつもはほとんどしないメイクもアイラインやマスカラまでのせてきた。

 今から果たすべき責務を思えば、高校生とみられるわけにはいかないから。



 私は今、自分がおかれている状況をはっきりと思い出す。肩におかれたままの先生の手をそっとおろして、自分の身に付けているワンピースのシワを伸ばし、ジャケットの襟をただした。




「君は誰なんだ?どうして橋本のふりをしているんだ?」


 その問いに何と答えればいいのかわからずに、ただ先生を見つめて頬を緩める。



「わかった。……三つだけ質問する。頷くか、首をふってくれ」


 その願いを叶えてあげることができる質問だといい。

 私は先生の言葉を待つ。


「……結婚してるか?」

 私の予想を思い切り外した、その質問。結婚してみたかった。私の好きな人が私を好きになってくれて、一生一緒に生きていくというモノ、想いを馳せるだけで、胸が軋む。

 私には叶わない。小さく首をふる。


「二つめ、……成人してるか?」

 二年前に母の希望でやたらと派手な振り袖を着せられた。身体には着物も帯もずっしりと重く、ヘトヘトにくたびれて、式の後の飲み会に参加しない口実ができてほっとしたことを思い出して、少し苦いものが広がる。


 私はこくりと頷く。


 先生は、満足そうに優しく微笑む。私には質問の意味がわからない。



「最後だ。……俺が好きか?」



 この質問に、頷くことを許してほしい。

 私は目を閉じて、頷いた。


 ぐっと彼の腕に引かれ、しっかりと抱きしめられる。頬に彼の胸があたり、耳には彼の鼓動が響き、彼の匂いに包まれる。

 彼の声が頭の上から小さく聞こえる。


「君がどこの誰でもいい……」


 彼の手が私の顎を掴み、そっと上を見上げる。

 彼の瞳が黒く深く私を捕らえ、唇にしっとりと柔らかいものが重なった。



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