積乱雲の立ち登る夏
ーー真保……
大嫌いな名前を彼は口にする。
そうして、わたしと唇を重ね、細く開いた隙間から柔らかい舌が入ってきて、歯列をなぞり、わたしの舌を絡めとっていく。
彼の瞳がわたしに向いているけれど、まるで墨を流したように深く黒く、わたしを通り越して、ぼんやりと漂っている。
きっと、彼の瞳はあの女を見つめている。それは、今も昔もずっと同じ、わたしはそれをずっとわかっていた。
一番古い記憶は、空に大きな入道雲が立ち登っていた夏。
夏休みだった。わたしは彼の背中を追いかけていた。見上げるほど大きな背中を必死になって追いかけていた。
その背中は、わたしが一生懸命、駆けても追い付くことなく、むしろどんどん離れていく。
彼は、その前を駆けている背中を追いかけていた。
高いところで長い髪をひとつにまとめられた頭、白いシャツに日焼けした腕、振り返ったその顔は、白い歯を見せて笑っていた。
「お姉ちゃんっ!待ってよ」
「渚は遅いよ、早く行くよ!」
強い日差しを受けて、足元には影がくっきりとうかんでいた。
「真保、もう少しゆっくりでもいいだろ?渚ちゃん、手をつなごうか?大丈夫?」
彼の顔は赤く、流れる汗を手の甲で拭いながら、わたしの手をとり、頬を緩める。
「早く泳ぎたいじゃん?」
「プールは逃げないし、早く行っても開いてないだろ」
彼は日差しに目を細めて、笑っていた。
強い日差しにあたためられたプールの水は、とろりとゆれて、体にしむこむように熱を奪っていく。
一年生のわたしは腰の辺りまでの深さの浅いプールに入っていた。隣には深い大きなプールがあって、二人はそのプールに入っていた。
プールサイドから、隣のプールをのぞくと二人が弾けるように笑って、水に潜り、勢いよく顔を出し、キラキラと水飛沫をあげていた。彼の髪が水に濡れて額に張り付いき、水滴を落とす毛束はクルクルとうねっていた。
わたしも一緒に遊びたくて、二人に近いて話しかける。
「お姉ちゃん、わたしもこっちで遊びたい」
「ダメだよっ!渚はチビだからこっちは足がつかないし、一年はこっちのプールに入っちゃダメだから」
「……こっちのプールに入りたいもん」
「だから、ダメだっていってるじゃん」
「渚ちゃんも、一緒に遊びたいんだね?ひとりじゃつまらないかな。僕がそっちのプールにいこうか?」
「そんなの初めからわかってたことじゃん?ワガママ言ったてダメだから、いいよ、良隆、ほっとこうよ」
彼は額に張りついた髪をかきあげて、にっこりと微笑み、プールからあがって、冷たくて大きな手がわたしの手をとった。
ーー三人で過ごした最後の夏だった。
彼は真っ黒な学生服で毎朝、わたしの家にやってきた。
「おはよう。真保、いる?」
セーラー服を来て、いつものように長い髪を頭の高いところでまとめて、日に焼けた笑顔を見せるあの女と連れだって、歩いていく。
わたしは、背中の赤いランドセルもピンクのトレーナーも、水玉のスカートも、とても嫌だった。早くセーラー服が着たかった。そして、彼と並んで歩きたかった。
その夏から、わたしひとりがずっと、祖母の家で過ごすようになった理由をわたしは知らない。
うるさいくらいに、蝉時雨が響く裏山で走り回り、すぐに歯が鳴るくらいに体が冷える川で泳いだ。
夏の間だけの友人たちと過ごすことは楽しかったけれど、寂しかった。
夏が終わって帰った家にはどんよりと澱んだ空気が満ちていて、あの女はいなかった。
学校が始まっても、帰っては来なかった。
「お母さん、お姉ちゃんはどこに行ったの?」
「……大丈夫よ、すぐに帰ってくるから。ね?」今にも泣き出しそうに笑う母親にそれ以上問うことは、出来なかった。
虫の声が、蝉から鈴虫にすっかり変わってもまだ帰っては来なかった。
冷たい北風が吹き付けて、庭のハナミズキの葉がカラカラに乾いて落ちる頃、父親の運転する車から、母親に抱えられるようにして、あの女は帰ってきた。
真っ白な顔の頬はげっそりと落ち、目はどんよりとくすみ、かさついた唇はうっすら開いていた。目深に帽子をかぶったその姿は、言われなければわからないくらいに変わり果てていた。
腫れ物に触るように、母親はあの女に神経質になっていた。
全くといっていいほど、部屋から出てこない。ろくに学校にも行かず、食事さえも、家族とは別に部屋で済ませていた。
「お母さん、お姉ちゃんはどうしちゃったの?」
「……大丈夫よ、すぐによくなるから、ね?」目と鼻を、真っ赤にして微笑む母親はわたしではなく、自分自身に言い聞かせるようだった。
彼は、相変わらず学生服を着て毎朝家にやってきて、にっこりと微笑む。
「おはよう。真保、行くって?」
「知らない。でも、まだ起きてないと思う」
「そっか」
そう呟くと、くるりと踵を返す。
いつも隣にあったセーラー服が今はない。わたしが隣に並んで歩きたかった。
「もう、嫌だよっ!なんでよっ!何でなのようっ!」
叫ぶ声と、物がぶつかる音、くだけ散る音、母親の泣く声が聞こえる。
わたしは布団の中で眠ったふりをして、頭まで掛け布団を引っ張りあげた。
廊下を勢いよくかけ上がる音と、ドアを打ち付けるように閉める音が響いた。
耳鳴りがするくらいに、静かになって、わたしは堪らず、布団を出ていった。
「……お母さん、お姉ちゃんはどうしちゃったの?」
リビングのテーブルはひっくり返り、植木鉢は土を撒き散らして転がっている。キッチンは、砕けた茶碗や皿、ご飯や炊いた茄子、味噌汁の豆腐やワカメが床に散らばっている。
「……ごめんね?目が覚めちゃったね。……大丈夫だから」
両手で顔を覆ったまま、母親は顔をあげることなく呟く。
「全然、大丈夫じゃないよ、お母さん、泣いてるもん。どうしてこんなひどいことするの?」
「大丈夫だから、渚は心配しなくてもいいのよ」頬の涙を拭いながら、母親は弱く笑った。わたしはもうそれ以上、何も言えなかった。
父親はずっと帰りが遅く、もう何日も顔を合わせてはいない。
あの女はいるのかいないのか、わからないくらい、顔を合わせなかった。
同じ家に住んでいながら、家族で一緒に過ごせない暮らし。
前はこんな風じゃなかった。朝食も夕食も一緒だった。夜にリビングでテレビをみたり、お風呂に一緒に入ったりした。
全部、変わってしまった。全部、あの女のせいだ。
「真保、いる?」
夕方になると、彼は家に来る。学生服のこともあれば、柔らかそうなニットを着ていることもあった。何を着ていても、その笑顔も呼ぶ名前もいつでも、変わらなかった。
「お姉ちゃん、どうしちゃったのかな。いっつも部屋に閉じ籠ってるよ。お母さんにひどいことするし」
「ひどいこと?」
彼の瞳がのぞきこむようにわたしに向けられた。そのことがわたしはとても嬉しく、彼の顔を見ることができずに、下を向いた。
「うん、お母さんの作ってくれたご飯をひっくり返したり、部屋で植木鉢をひっくり返したりするよ?お母さん、泣いてたもん」
「そっか」
彼は何かの痛みをこらえるように、顔をしかめ、わたしの頭をそっと撫でる。
わたしはもっと嬉しくなったけれど、すぐにその手ははなされてしまった。
あの女は居たり居なかったりするが、わたしの生活にその存在の意義を見いだすことが出来ないので、気にすることをやめた。
わたしがセーラー服を着るようになった頃。見上げるほどに大きかったあの女の顔は、わたしのすぐ横にあった。
相変わらず、部屋に籠りがちではあったけれど、グレーのブレザーを着て高校に出かけていくようになっていた。
蒼白い顔に細い手足、パサパサの短い髪、めったに笑うことのないその瞳は死んだ魚みたいに濁っていた。
ーーそれでも、彼はやってくる。
「真保、いる?」と。
「ちょっと?大丈夫なの?渚?すごく顔色悪いし。……うちは全然、かまわないけど、ほんとに家、帰らなくていいの?」
「うん、大丈夫」
スマホの充電はずいぶん前に切れてしまい、結局、そのままだ。
連絡があるだろう相手は、他愛もない人か、大嫌いな女からに違いない。
だから、わたしは充電する必要を感じない。
「……カラダ、ほんとに大丈夫?ご飯もほとんど食べてないよね……。渚、もしかしてもしかしたりする?」
いつもなら、すでになっているはずの生理はまだ来ない。
胸の張りは二週間以上、続いていて、食べ物の匂いがするだけで、ムカムカしてきて、吐いてしまいそうになる。
これがどういったことを意味しているか、わからないことはなかった。
「……大丈夫」
「ほんとに?ほんとに大丈夫なの?」
「うん」
いったい何がどう大丈夫なのか、わたしにはわからない。けれども、『大丈夫?』と問われれば、『大丈夫』としか答えられない。だって、大丈夫と言われることを求められているのだから、応えなければならない。




