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強まる雨足

「わーお。スリッパに画ビョウがくっついてるし」


 下駄箱で自分のスリッパを手にして、いつものように履き替えようとしたとき、キラリと光る、金色の針。

 しかも、ご丁寧に接着剤で固定してある。

 このために、いつもより早く起きて、登校し、私の下駄箱を探し、用意した画ビョウを接着剤で固定するという労力が恋するエネルギーなのかと思うと感動する。


 気づかないふりをして、このスリッパに足を入れて、『痛いっ!』とするべきなのだろうか?きっと、どこかから見ているだろうその人の労働に対する礼儀なのかもしれない。


 ーー痛いのはイヤかな


 爪でひっかいても、画ビョウはそこから動こうとはしない。

 ボンドではなく、瞬間接着剤のようだ。

 どうするべきか悩み、しばらくその場にたたずむ。


「オハヨ、橋本サン。どしたの?」

 長い前髪をくしゃっとかきあげながら、輝がにこりと微笑んでいる。すぐそばまでやってきて、私の手にあるスリッパをのぞきこむ。ふわりとシャンプーの香りがする。

「おはようございます。いや、スリッパの画ビョウが頑なでしてね」


「……」


「どなたかが、私のスリッパをカスタムしたようで。とりあえず、かたっぽで大丈夫、ちょっと歩きにくいですけどね。針を寝かせて、絆創膏でも貼れば、問題なしですよ?」


「……そんなもん?」


「ハイ」


 美しい顔はひきつっても美しいことが判明した。


「……見た目とは違って逞しいね」


「どうも、ありがとうございます?」

 誉められているのか、どうかよくわこらないがとりあえず、礼の言葉を口にしておく。


 春の廊下は、黄色い細かい砂が混じっていてホコリっぽい。少し歩くだけで、靴下の色が変わる。


 教室に入り、机に座ると、引き出しの中から、相手を傷つける言葉の限りを尽くしたと思われる紙が入れられている。

 差出人は、きっとふわふわの髪の女の子。


 ーー誤字が多いな。赤字で訂正したいくらいだな。


 じっくりと目を通す、彼女は私には彼がそぐわないことを知らせ、彼から離れることを求めているのだろうが、表現がまわりくどく、分かりにくい。

 角を丁寧に合わせて折り、カバンにしまっておく。



 毎日、小説の中だけでしか、知らなかったことが実際に自分の身に起こる。

 まさに、これがリアルなんだと思うと、ニヤニヤしてしまう。


 筆箱が無くなったり、ノートに落書きがあったり、破られていたりと、彼女の恋するエネルギーは、人としての倫理観や道徳観をも凌駕してしまうらしい。

 驚きもするけれど、私はほんのすこし羨ましかったりもする。私はそんなにも誰かを好きになったことがないから。




 休み時間にトイレに行くと、クスクス笑う女の子たち。一人がキラキラと眩しいくらいに微笑み、勢いよく駆けていく。

 個室に入り、鍵をかけると、とたんに周りは騒がしくなり、女の子たちのキャーキャーと明るい楽しげな笑い声が響く。


「バーカ!ヒカルさんに声かけられたからって、調子に乗ってんじゃないわよっ!」


 バッチャーン!!


 バッチャーン!!


 バッチャーン!!



 勢いよく水が降ってきた。しかも、連続して三回。

 バケツの水を抱えあげ、トイレのドアの上でひっくり返す女の子たちの体力に驚く。私はきっと洗面器が精一杯だなと、水が滴る髪をかきあげながら、思った。

 トイレの中で水をかけられるなんて、経験が出来るとは思ってもみなかった。

これは、渚に感謝すべきか、または、ダシに使った輝にか、激しい恋心を抱く女の子にか。


 ロッカーの奥にしまっておいた体操服に着替えて、濡れた髪をどうしたものかと悩んでいると、目の前に気難しい顔をした野崎先生が立っていた。


「……どうした?」


「不思議なことにトイレで大量の雨漏りがありまして、この通り、濡れ鼠ですよ?」


「雨漏りな訳ないだろう?誰だ?」


「はて?」

 私はあくまでも、渚の代わりなのだ。育ちきれない私の幼い顔は驚くほど渚に似ているらしいけれども、はやり騒ぎを大きくして目立つことは避けたい。もうすでに手遅れ感は否めないが、出来る限りのことはすべきだろう。ゴールデンウィーク明けに入れ替われば、きっと大丈夫のはず。


「……」


 呆れたように大きくため息をついて、野崎先生は手にしていたタオルを私の頭にのせて、ガシガシと拭いている。ふわりと柔らかいタオルが髪の水気を吸いとっていく。

「ありがとうございます。助かります。こんなこと、なかなかないですから。ドキドキするし、ハラハラしますよ?」


「お前……、本気か?」


「こんなこと、小説の中だけでしか知らなかったから、ホントにあるんですね。ほら、いじめを題材にした有名な小説『サカナ』先生も読みました?リアルですよ?」


「……辛くなったら、ちゃんと言えよ?」

 先生はもう一度、大きくため息をついて私の頭をポンポンと大きな手で撫でる。

 私の胸がきゅっと痛む。



 放課後、下駄箱の前で私は靴を見つけられないでいた。

 絆創膏でカスタムされたスリッパで帰るには生憎のお天気だ。

 昨日から降りだした雨は、今朝になって少し小降りになったけれど、下校時刻になってまた、本降りになっており、水溜まりをはねあげるほど、雨足が強まっている。


「うーん、靴がないし」


「橋本?……靴を隠されたのか?」


 施錠のための見回りをしていたのか、野崎先生の声がかかる。

 私は振り向かないまま、他の下駄箱を見て回る。どの靴箱にも室内用のスリッパが入っているだけで、1つも学校指定の黒い革靴は残されていない。


「誰かが私の靴も一緒に、履いて帰ってしまったんですかね?」


「んなわけないだろう?足は二本しかないだろ?」

 先生は呆れているらしく、半笑いだ。


「ハハハ、そうですね」


「北玄関で待ってろ。送ってやるから、内緒にしとけよ?」


「え?そんなっ!大丈夫ですって」


「この雨の中、スリッパじゃ帰せないよ。橋本が誰にも話さなかったらわからない」

 先生は、にこりと笑って、また私の頭を大きな手でポンポンと撫でる。するとやっぱりまた、私の胸がきゅっと痛む。





 規則正しいリズムでフロントガラスの水滴を拭うワイパーを私は見ていた。


 先生の車は快適で、最寄り駅まで歩き、電車に乗るということが途端に煩わしく感じてしまう。

 去年、取得した普通自動車免許証は財布の中でただの身分証明書となっているけれど、身分を偽っている私にとっては、その意味すらない。


「……家、大学病院のほうでいいんだな?今日は親御さんはみえるか?」


「いないです。いもう……、姉と二人暮らしなんです」


「お姉さんと二人きり?」


「両親は祖母の介護で……、姉の都合でここに引っ越すことになりました」


「お姉さんは、何してるんだ?」


「就職活動……?決まってた採用が急に取り消しになったらしくて」


「今、何歳なんだ?」


「22才です。短大出てから、一年フリーターしてて、やっと就職して、自立したと思ったら、またこんなことで。何の特技も資格もないのでなかなか難しいみたいです」


「そうか……」


 自分のこととはいえ、改めて言葉にすると、あまりの情けなさにため息をこぼしてしまいそうになる。


「姉には、迷惑かけられっぱなしです。転校だって、姉が市内の通勤できる所で就職できなかったからだし、頼りないから、独り暮らしもさせてもらえなくて、私がついていくことになっちゃったんですよ?もっと、しっかりしてくれてたらよかったのに」

きっと、渚はそう思っている。


「お前がお姉さんより、頼りになるのか?」


「姉よりも、渚のほうが間違いなくしっかりしてます」

 これは間違いのない事実だろう。そして、お互いにそう思っている。


「……それでも、ちゃんとこのこと、相談しておけよ?お姉さんか、ご両親に。頼りなくてもお姉さんなんだし、ご両親にも介護で大変なら心配かけたくない気持ちもあるかもしれないけど、何も話してもらえないのは、後になってもっと辛いからな」

 赤信号で停まり、先生は私の顔をのぞきこんで、微笑む。


「大丈夫だから、な?」

 ハンドルを握っていた手が、雨に打たれて湿り気を帯びている私の髪をグシャグシャとかき回す。

 するとまた、私の胸はきゅっと痛む。


「ありがとうございます。ウチ、このマンションなので、ここでいいです」


 マンションの前まで送ってもらいドアに手をかけると、

「そうか、……あの茶色いアパート、先生んちなんだ。こんなに近かったんだな、もし、何か話したいことがあったら、来ていいぞ?403号室だからな」

 通りの向こうにある酒屋の裏の茶色い建物を指差して、先生はにこりと頬を緩める。その黒い瞳は私を柔らかく包み込むように温かく、先生が私を気遣っていることが伺える。柔らかく微笑んで繋いだ言葉はとても魅力的だった。

「本部屋があるんだぞ?一度入ったら、二日は出れないかもな」


「えっ!すごく見てみたいかも!」

 先生の本棚には一体どんな本が並んでいるのだろうか。


「だから、……いつでも来ていいからな」

 先生の車は、霧のように細かい雨の中を走り去っていく。私は見えなくなるまで見つめていた。



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