青葉が揺れるとき
爽やかな桜の青葉をゆらす風が吹いている。太陽は西へと傾き、正門へと続く楓が黄昏の陽を受けて、キラキラと光る。
西校舎はすでに生徒の姿はなく、しんと静まり返っていた。その西校舎の三階の教室の窓側の席に座って、私はお気に入りの本を手に、下校の見回りの教師が来るのを待っていた。
大きな寺社を中心に美しい水辺と古い町並みが随所に見られる街に創立された、この私立高校に通うようになって二週間だ。
うなじの辺りで、ひとつにまとめた長い黒い髪をほどいて指ですく。
なるべく目立たないようにすることは、思いの外難しく、とても気を使う。
人気のない放課後にやっと、ほっと一息つくことができる。
眼鏡を外して、目元を揉みほぐし、体をうんと伸ばすと思わず声が漏れる。
「うぃー」
ガラリと教室のドアが開けられ、飛び込んできたのは、待っていた見回りの教師ではなく、明るい茶色の髪をゆっくりとかきあげながら、優しく目を細めて微笑む男子生徒。深緑のブレザーをだらりと着て、こちらに向かって来る。
わたしは、眼鏡をかけようと手をのばすけれど、指先に触れた眼鏡は、カタンと床に落ちてしまう。
「ちょうど、よかった。助かった」
パタパタと忙しない足音とともに、勢いよく飛び込んできた女子生徒。
「ヒカルくんっ!待ってよ!」
ふわふわと柔らかそうな髪を弾ませ、小さな唇を尖らせている。
「わりーな、オレ、こいつと待ち合わせしてたんだ」
私の肩を抱き寄せ、長い髪を一房、手に取ると唇を当てる。
「はっ?」
離れようとしても、彼の腕が私の腰をしっかりと抱え込み、反対にぎゅうと彼の腕が体を締め付ける。
「……誰よ?ヒカルくん?」
「え?聞きたいの?もういいじゃん?あっち行けよ。それとも、見てたいの?そういう趣味があるなら、オレは別に構わないけど」
彼の唇がゆっくりと私の額に当てられ、大きな手のひらが頬を撫でる。
明るい鳶色の瞳がじっと私を見つめる。金縛りにかかったように動けない。
大きなくっきり二重の目、高い鼻梁、すっきりとした顎のライン。
柔らかそうな唇がゆっくりと近付いて、思わず、瞳を閉じてしまいそうになる。
「やだっ!!」
ふわふわの髪の女子生徒は、涙を含んだ声をあげ、背を向けて教室を出ていく。
ガシッ!
金縛りから解き放たれ、寸前のところで彼の額を抑える。
「おーっと、危ない。何もしちゃってくれるのかな?」
彼は意外そうに目を丸める。
「オレのキスを拒むの?」
「はぁ?何、言ってるの」
「クククっ、あんた誰?」
「いや……、それ私のセリフだし。あなたは誰ですかね?」
「えぇ?」
彼は丸い目を更に大きくして、口元を歪ませる。失礼なのかもしれないが、知らないものは知らない。
「ハハハハハハー!」
大きな笑い声が教室に響く。ドアの前でお腹を抱えるようにして大きな肩を震わせているのは、見回りの教師。
「野崎っ!」
「はぁー、笑えるわ。喜久川、お前のことを知らない女の子もいるんだなぁ?て言うか、お前のあの顔っ!」
クツクツと笑っているのは、社会科教師の野崎先生。
「うるっせー。ってか、何で知らないんだよ?赤いリボンってことは二年だろ?一年ならともかく……」
「転校生だよ。まだ二週間だからな、知らなくてもおかしくはないんじゃないか?同級生が200人弱いるんだ、三年生まで覚えきれなくて当然だろう、なぁ?橋本?」
「……はあ」
「ふーん、転校生か。それでも、二週間あったら、オレのことを知っててもよくない?」
「まあな、ヒカルの君だもんな。覚えても損はないぞ?橋本、こいつは三年生の喜久川輝、この通り、匂い立つ男前。キャーキャーと女の子に騒がれる日常。故に、全校生徒が自分のことを好きだと勘違いしている」
「んだよ?悪意を感じるな、ヤキモチか?野崎のくせにっ」
「呼び捨てにするなっ!くせにって何だよ?くせにって。お前たちは、目上の者を敬うという姿勢がたりないんだよ」
「尊敬に値する人物には自然と頭が下がるもんだろ?」
私は目の前で繰り広げられる、明るいやり取りを物珍しい思いで、じっと見つめていた。
「どうした?橋本?」
「楽しいですね、先生。先生が慕われていることがよくわかります、ハイ」
「なんだそれ?馬鹿にされてるだけだろ?舐められたもんだよ、全く。……あっ、忘れてきたっ!悪いっ」
先生の手に何もないことに気づいたときから、失念されていたことにも気付いていた。
「野崎、この橋本サンと何か約束してたわけ?」
「おう、新之助江戸日記の最新刊を貸してやる約束だった。ちくしょー、家を出る前には覚えてたのになぁ」
「年のせいッスよ?しかも何んすか?そのじじむさい本」
「お前っ!まだそんな年じゃないぞ。……しかも、新之助江戸日記を馬鹿にするなっ。いい本だぞ?お前も読むか?」
「面白いですよ?新之助と町人達との心暖まる話で、ちょっと笑えるし、まさに涙あり笑いありって感じで、時代モノを読みなれていない人でも、入りやすいですし、オススメです。しかも、久しぶりの新刊なんですよ?私、前作は早朝から本屋さんに走りましたよ?」
「橋本サンがどれくらいその本をすきなのかは、よくわかった。でもそれ以上、話すとセンセイが立ち上がれないくらいへこむから、もうやめてやってくれないか?」
「あっ……、つい」
好きな本の話になると、止まらなくなる。悪い癖だと知ってはいても、なかなか治らない。
先週も施錠のために見回りにきた野崎先生に熱く語ってしまった。
始業式を終えて、クラスメイトの視線から逃れるために向かった場所は図書室。
直接光が入らないように、工夫してあるのか、無いのか、そこは薄暗く静かだった。カウンターには、女性の司書が何か台帳に書き付けをしており、私をちらりと見やり、またすぐ手元に視線を戻す。
私は乱れなく整然と並ぶ背表紙をゆっくりと見て回る。
高校生はあまり本を読まないのだろうか。よく足を運ぶ図書館では、八人待ちの人気の本でさえも書架にしっかりと収まっている。
「……わーお」
思わず声を上げてしまうけれど、咎める人はいない。
私は次々に本を手にしていく、気がつくとそれは両手に抱えるほどになっていた。電車通学の私にはとても持って帰れる量ではない。ここに来れば本があるのだけれど、私はここに何度足を運ぶことができるのだろうか。
私は一冊、手に取りカウンターに向かう。司書さんは分厚い眼鏡を外して白髪の乱れを整え、貸出しの手続きをする。返却日をポツリと教えられ、本を手渡される。
司書の仕事は私にとって羨ましい以外の何者でもない。本に囲まれた仕事。大好きな本を読み、触れて、収入を得られる。
私には叶わない夢だ、小さな企業にすら就職が出来ないのだから。
誰もいない部屋に帰る気がしない私は、教室に戻り本を開く、ここなら、読み終えればすぐに新しい本を借りに行くことができる。
後ろのドアが勢いよく開き、大股で歩み寄ってきたのが、野崎先生だった。
「何、読んでるんだ?」
先生と本の好みが似通っていたことで、私の話は一方的に弾み、馴染むことができないクラスメイトとの会話がないこともあり、また、慣れない一人暮らしの寂しさから、私はたまった語彙を消費すべく、先生を相手に話し込んでしまった。
春の陽射しは柔らかく包み込まれるように心地いい。
私は西校舎の裏手、中校舎と別館の間の小さな植え込みの隙間に腰を下ろす。
大きく枝を広げたムクゲの花が赤く咲いている。
登校途中で立ち寄ったコンビニで買ったおにぎりなねかじりつく。
パリパリと海苔が香ばしく、中の具の明太子はどこをかじっても口にプチプチと入ってくる。ほとんど口にしたことはなかったけれど、なかなか美味しい。
今まで毎日、母が作った食事を食べていたけれど、体調を崩した祖母の介護のため、両親共に田舎に引っ越してしまった。私の就職にあわせてと妹は二人でマンションを借りて住んでいる。
そのはずだった。
「高校、高校って、そんなに気になるなら、あんたがいけば?」
一度は承諾したけれど、間際になって渚は転校を頑なに拒み、友人宅に入り浸っているらしく帰ってこない。
そんな渚に、私は帰って来なさいと強く言えない。
ーー私の就職は内定取消されてしまった。
「あんたは、またフリーターになったって母さんに言うよ?」
渚にそう言われてしまうと、私は言葉を繋ぐことができない。
母は私の就職内定を自分のことのように喜んだ。一年前も同じように直前になって取消になったとき、肩をがっくり落として、悔し涙を流していた姿がはっきりと浮かぶ。またあんな思いはさせられない……。
ーーバイトでもしなきゃな……。
おにぎりを頬張り、モグモグと咀嚼する。何の特技もない、資格もない私を雇ってくれるところがあるのだろうか。
履歴書とともに送られてくる『今後のご活躍をお祈りいたします』のペラペラの用紙。私自身がペラペラなように思えて、とても気が滅入る。
何もすることがないと不安は膨れるようで、私は結局、渚の代わりにこうして、登校しているのだ。
入学式だけ……、一週間だけ……、そう思いながら毎日、心を弾ませて登校してしまうのは、自分の高校生活に楽しい記憶がなさすぎるからだろうか。
別館の二階の音楽室のカーテンがふわりと揺れているのが目に留まる。
重なる頭がゆっくりと離れたかと思うとまた、重なる。
ーーわぁ、キスしてるわ
それは、音楽教師の黒田円香と、……喜久川輝。
彼はどうやら、生徒だけでなく教師にもモテるらしい。
とろとろに溶けてしまいそうな微笑みを音楽教師に向け、ゆっくりと頬とゆるくウェーブのかかった髪を撫でている。
まるで一幅の絵のような美しさに、私は目を離せないでいると、輝が私の視線に気が付いたのか、一瞬、顔をしかめた。けれど、また、何もなかったようにゆるゆる髪を撫でる。
彼の魅力は、すべての女を虜にしてしまうのだろうか。
高校は、なんとも刺激的なところだ。




