雨後に芽生える
放課後の西校舎には、誰もいない。
閉め忘れた窓から、飛び込んできたのか、風に揺られて廊下の滑る桜の花びら。まだ、どこの桜も咲いている様子はないのに一体どこから紛れ込んできたのだろうか。
いるわけがないのに、俺はひとつひとつ教室を探して回る。
黒い長い髪を、細く白い首を、柔らかな唇を。
「湿気た面してるねー、野崎?ヤバ過ぎだって」
「何してんだよ?卒業式はとうに終わっただろ」
「好んで来てる訳じゃねぇ、……二次募集の結果をいいに来たんだよ」
「おっ、そうかまだだったか?」
「無事に大学生だよ。浪人じゃキツイから、ほっとしたわ」
「……上手くいってるみたいだな」
「あんたと違ってな」
「うるせー」
「結局、逃げられたんだろ?退学したみたいだし、……レディースクリニックで見たって噂もあるけど?身に覚え、アリ?」
「ねぇよ……、俺は大人の男だからな。そんなヘマはしない」
「……てことは、手は出したってことかよ?マジかよ?!生徒相手に何やってんだよ、野崎っ!」
「喚くな、うるさい。生徒じゃないし、未成年でもない。それは確かめた」
「それで、名前も知らなくて逃げられた?」
「……すぐに戻ってくると思ったんだ。でも来なかった」
あの時、送って行けば良かったと、何度も思っては、ため息をこぼした。
白い首にうっすらついていた、他の誰かがついばんだ赤い痕。
自分の知らない別の誰かが、この白い首に触れたかと思うと、頭の芯が痛んだ。
しかし、それを問ただしたときの彼女の返事はどれもちぐはぐだった。
彼女は冷たいシャツを着て笑っていた。
「着替えたいから」と言い残して、またすぐこの手に戻ると感じた。
だから一度家にいくだけ、またすぐにここに来ると、俺は思っていた。
すっかり騙されてしまったのか、それとも何かのトラブルに巻き込まれたのか。
新聞を隅々までチェックすることは、もはや習慣となっている。
しかし、名前も知らない彼女を見つけることはできなかった。
道を歩くときに通りすぎる人をチラリと見てしまうことも、もう習慣になっている。似た背格好の後ろ姿を見かけると足を速めてしまう自分に、ため息をついてしまう。
夕方から降り始めた雨は、昼間の熱を奪い取り、急速に冷えていく。
コンビニを出ると、その雨の冷たさに身を小さくして、傘を開く。
入れ代わるようにしてドアの前で傘をたたむ、その横顔に目が止まる。
小さな肩、白く細い顎、記憶より短い黒い髪の女……。
彼女は視線に気がついたのか、くいっと口角を上げて、微笑む。
「……おせーよ。キョウヘイちゃん、わたしを見つけるの、遅すぎるから」
「誰だ?」
「あんた、キョウヘイでしょ?何だっけ……、そう、野崎、野崎恭平」
「……そうだ。で?あんたは誰だ?」
「わかんないの?わたしよ?わたし?渚だよ?橋本渚」
「本物か。……ということは、真保で決まりだな」
「……なんだ、知ってたんだ。つまんないの。……何で知ってるの?」
「……家族構成くらい書類を見ればすぐにわかる。それだけ似てたら、まず血縁。成人している兄弟は姉の真保だけだろ」
「ふーん、つまんないの」
「……あの人は……」
何と言葉を繋ごうか、何を知りたいのかわからない。
「何?」渚はにんまりと頬を緩める。
「……どこにいるんだ?すぐに戻るって言って、急に姿を消してしまった」
「それって、普通に拒否られてるだけなんじゃないの?……キョウヘイちゃん、案外ニブチンなんだ?今どき、スマホって便利なものがあるのに待ってるだけってあり得なくない?」
「……知らないんだ。何にも」
「普通、最初に聞くよね?」
「……だな」
「何にも知らないクセに手は早いってマズくない?マジで?」
「……」
「ヨッキュウフマンの処理なら、他を当たってよ?」
「そうじゃない、……あんたに言うのもおかしいけど、好きなんだ。あの人が好きなんだ」
「ふーん、じゃついてきなよ?」
そう言い、きゅっと目を細めてから閉じた傘を開き、歩き始める。
何度も見上げたタイル張りのマンションを通りすぎ、街灯の光りを映している水溜まりを避けて歩みを進める。
時折、目の前の傘は楽しそうにクルクル回り、傘にのっていた水滴がパパッと飛ぶ。
二丁目の交差点も過ぎても、コンビニの前を二度も通りすぎても、彼女の足はまだ止まらない。
このまま、どこに連れていくつもりなんだろうか。彼女の意図をつかめないまま、傘に落ちる雨音を聞いていた。
幹線道路から奥に入った静かな住宅街の築年数が四半世紀を軽く越えていそうなアパートの階段を上がる。
辺りは静まりかえっていて、彼女の靴音が響く。
「……引っ越ししたんだな」
「……うん、身の丈にあった住まい?」
「学校……、退学してどうしてるんだ?」
「はあ?わたしのこと?……なんかセンセーって感じ」
「そうか?……どっかいってるのか?」
「わたしって、勉強できるんだよね、だから適当にバイトして、高卒認定を受けて、大学行く。……これはお姉ちゃんと約束したから」
「高校はいかないのか?」
「必要を感じない」
「……そうか」
「……ふーん、もっとワケわかんないこと言うのかと思った」
「言わないさ」
薄そうなドアの簡素な鍵穴にキーを挿し込み、カチャリと鳴らす。
小さな女物の靴が並んだ玄関に滑り込み、パチリとスイッチを押すと、オレンジの光に照らされる。
「どおぞ?」
すぐ近くで見ると鼻梁から唇、顎のラインは全く違う。でも一番違うのは、瞳と首……。
「よく見ると、全然似てないな」
「そう?よく似てるねって言われることのほうが多いケド?」
玄関の目の前には小さなダイニングキッチン、奥には二部屋。何の躊躇いもなく、彼女は靴を脱いであがり、左側のガラス戸をガラガラと鳴らして、入っていき、棚の前で立ち止まり、振り返る。玄関で動けないでいた俺は、その姿を見ているだけだった。
「何してんの?……何にもしないし、バカなんじゃない?」
「……」
靴を揃えて脱ぎ、彼女の背中を追う。
後ろから彼女が見つめる棚に視線を向けると、そこには小さな地蔵菩薩の置物と、切り花と盛り塩が飾られている。
「……手を合わせてくれる?」
「……え」
「言ってなかった?……もう死ぬからって」
「……言ってた」
「……」
「……何があった?」
「脳腫瘍だったから……、倒れて入院して、手術した」
「……」
「……」
何も言葉を発することのできない俺に、彼女は何も言わず、小さな地蔵菩薩を見つめてから、ゆっくりと手を合わせて瞳を閉じる。
どうしても、手を合わせることは出来なかった。
もう、彼女に会うことができないのだろうか。触れることができないというのだろうか。
黒く長い髪に触れることも、白く細い顎をつかむことも、唇を食むことも、できないというのだろうか。
傘を手にして、来た道を辿る。
通りすぎていく車の跳ねる水を避けることもできず、足元はひどく冷たい。
傘で雨に当たらないはずなのに、ポタリポタリと髪から水滴が落ちる。
『この髪に触ってみたかった』
彼女の声が耳に甦る。
もう、あの声を聞くこともできないのだろうか。
雨の夜の道をどう進み、どう帰ったのか、後になってからも思い出すことはできなかった。
校庭のソメイヨシノの枝に少しずつ、小さな薄紅の花が開き始める。
朝の職員会議ほど煩わしいものはなく、職員室の自分の机にぼんやりと座って、遠くに見える薄紅を見ていた。
四月から新しく配属された職員の紹介と挨拶が始まり、前に視線を向ける。
息が出来なかった。
そして、目を離すことも出来なかった。
ーーどうして、ここにいるんだ?
いつの間にか立ち上がっていたらしく、隣の机の同僚に腕を引かれてしまった。
早く早く終われとこんなに長く感じたことはない。
教頭と一緒に職員室を出て廊下を進む、その背中を後ろから追いかける。
「野崎先生?どうかされましたか?」
教頭の声は聞こえてはいたけれど答える気にはなれず、ゆっくりと振り向く、小さな背中を見つめていた。
白く細い顎も唇も、その瞳も、ずっと探して、もういないと言われても受け入れることができなかった。それが今、目の前にある。
もう、離さない。
もう、誰にも触らせない。
「の……、野崎先生っ!」
教頭のあわてふためく声が聞こえたけれど、腕の中の彼女を離す気にはなれなかった。




