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恐れの向こう

 わたし部屋だという六畳間、使い慣れたベッドに腰をかけても落ち着かない。

 それはこの部屋に初めて入るからか、さっきの言葉を受け止めきれないからなのだろうか。


「急性リンパ球性白血病……」

 言葉にしてみても、どこか遠い。








「……急性リンパ球性白血病。13才の時だった。なかなか熱が下がらなくて……、ただの風邪だと思ってた。急に大学病院に入院って言われて……本当に、治療はつらかった。どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないのって、病気は何って、誰に聞いても、笑ってすぐによくなるからって……、何も教えてくれなかった。私は死んでしまうんじゃないかって、いつも不安だった。だって、テレビで見たことあるでしょ?髪が抜けるって、死ぬ病気だもの、でも誰も教えてくれなくて、良くなるって言うだけで。やっと退院できて、心底ほっとしたわ」

 黒い髪を確かめるように手に絡めて、じっと瞳を閉じている。


 母は痛みをこらえるように眉間にシワを寄せて固まったように手元を見つめている。


「……髪も伸びて、やっと体の調子も戻って、やっと休んでた学校にも慣れたのに、また入院するって言われてね。あのときはちょっと荒れたわ〜。お母さんにひどいことを言ったりもしたね。……私、知ることが怖かった。でも知りたかった。思ってた以上に簡単で呆気なかったかな、パソコンで検索すれば、すぐにわかった。だから、お母さんじゃなくて、病院の先生に聞いた……、まだ14才、でも、私にはもう14才だったのよね。渚も、ちょっとわかってたでしょ?」



 わたしは家をむちゃくちゃにしたことと、良隆が自分を省みないことを、すべてこの人のせいにした。

 その理由に、思いを巡らせることはなかったことに、改めて気付かされる。


 それでも、心の中の奥の角に小さな疑いがあったことも事実。

 そして、それを見ないようにしていたことも事実。


 すべての原因を放り投げて、ただ苛立ちや憎しみをぶつけていればいいだけであることは、とても楽だったから。


 その問いにわたしは頷くことはできなかった。


「……もう、治ったんでしょ?」


「そう思ってたんだよね。……二次ガンって知ってる?」


「……真保」

 母は小さく呟いて、左の頬だけ赤い顔をじっと見つめ、固く瞳を閉じる。


「……脳腫瘍が見つかった、3月の定期検診でね。内定もらってた会社に話したら採用取り消されちゃった。……仕方ないよね。すぐに病欠されちゃうんじゃあね。もういろんなことどうでも良くなっちゃった。……勢いで高校、行っちゃった。……本当にごめんね、渚」


「真保、ちゃんと診てもらおう。病院行こう、お願い」

 母の声は祈るように、すがるように、絞り出される。


「……難しいの、麻痺が残るの。手術したからって完治する訳じゃない、その腫瘍の種類によっては、また抗がん剤治療と、放射線治療がいるの。……もういいよ、麻痺の体でどうしろっていうの?……仕事だってないよ、……もう結婚なんて諦めたのに、仕事しないでどうやって生きていくの?私に誰かのお荷物になって、生きていけっていうの?」


「真保……」


「……良隆にいちゃんは、それでもいいって言うよ」


「渚……、私、良隆をそんな風に見れない。気持ちはわかっていたけど、やっぱりダメなんだよね、こればっかりは不思議。私は誰かに迷惑をかけてまで生きたいと思うほど、この世界に執着ないんだよね」


「真保……、そんなこと言わないで。まだ若いんだもの、何もかも諦めてしまうには、早すぎるでしょ?」


「お母さん……、きっとそう言うと思ってた。私はまだ頑張らないとダメかな?私がどれだけ大変だったか、お母さんが一番よく知ってるよね、私もお母さんがどれだけ大変だったか、知ってる。だから、もういいよ。よく頑張ったねって、もういいよって言ってほしい。治療をしないことを赦してほしいよ」


「何それ?逃げてるだけじゃん。病気だからって、つらいこととか、しんどいことから逃げていいの?」

 心の中のどこにあったのだろうか、飛び出た言葉にわたし自身が驚き、その言葉はわたしに滲みる。

 辛さから、怖さから、逃げているのは、わたし自身なのだから。


 きっとそのことに気付いたのだろう。

「渚……、赤ちゃんを産んでよ。私、産めないからさ。お母さんをおばあちゃんに出来るのは渚だけだから、一人減っても、一人増えれば、大丈夫だよ?」



「何、勝手なこと言ってるのよ、逃げてないで手術して、結婚して、自分で産めばいいでしょう?」


「放射線治療ってね。卵巣の機能を落としてしまう。だから、私はもう妊娠はできない。どんなに欲しくても赤ちゃん出来ないんだよ」


「そんなの、知らない。勝手なこと言わないで」


「ごめんね、渚も大変なときなのにこんな話してしまって。でも、いい機会だったと思う。全部まとめて考えてよ」

 柔らかく微笑みを浮かべる顔は、いつか見たことあるお姉ちゃんの笑顔。


 終わらない宿題を手伝ってくれた雨の夕方、泣いてしまうわたしに向けた顔。

 お母さんに叱られて拗ねて閉じ籠った押し入れに一緒にはいってくれた夏の夜、細く差し込む照明の光をうけていた顔。


 わたしのまぶたにはっきりと甦る。


 いったい、わたしは何を言って、どうすればいいのだろうか。

 その答えはわたし自身が見つけるしかないのだろうか。





「渚、入ってもいい?」

 薄いドアの向こうで母のささやくような声が聞こえる。


「……うん」


 ドアを開けて泣き腫らした目をした母がゆらりと入ってくる。

 パタリと閉じたドアにもたれて、嗚咽をもらして崩れ落ちる。


「ごめんね、ごめんなさいね。渚……」

 絞り出すような声が両手に覆われた隙間から響く。


「お母さん、一生懸命に頑張ってたのよ。真保が入院したときだって、真保が可哀想で、代わってあげたくても何も出来なくて、お母さん、病気がすぐに良くなるって信じるしかなかったのよ……、渚はまだ小さかったし、お父さんは仕事が忙しかったし……。あんまり覚えてないでしょう?知らなかったでしょう?お母さん、一人で頑張ったもの。渚に心配かけたくなかったし」

 母は涙で頬を濡らしながら、言葉を吐き出し続ける。

 その涙と言葉を受けて、わたしの指先と頭が急速に冷えていく。


「……やっと、真保も元気になって渚も高校生になって、ほっとしたのもつかの間。今度はおばあちゃんよ……、私がいろいろとやってあげても、なんにもわかってないのよ?お父さんはわかるのに。……二人はちゃんとしてるって信じてたのよ?……渚、どうしちゃったの?どうしてそんなことになっちゃったの、お母さん、一生懸命頑張ってるのに、どうして上手くいかないの?」


 ーーこのヒトは何を言ってるんだろう。


 こんなにも、弱く愚かなヒトだっただろうか……。

 こんなにも、弱さと愚かさは見苦しいのだろうか……。


 でも、わたしは気付いていた。わたし自身も大して変わらないことに。


 涙を止めることの出来ない母は、来たときと同じようにゆらりと出ていく。






 落ち着いて考えれば、何もかもわかることだ。

 姉は無職で病気の治療が必要であること、両親は祖母の介護をしており、母は弱く愚かであること、わたしは未成年で無職であること、良隆はこれっぽっちもわたしのことを必要としていないこと、すべてを鑑みれば、わたしがすべきことは、自ずと見えてくる。


 わたしがわたしの弱さと愚かさを受け入れ、許されることのない罪を背負う決心をするだけなのだ。


 手のひらに収まるスマホは、いろんなことを教えてくれる。

 わたしはこっそりお姉ちゃんの保険証と免許証を持ち出した。









 呆気ないくらい淡々と事務的に終わってしまう。


 わたしは朝からお姉ちゃんがいないのをいいことに、クローゼットから洋服を持ち出し、言われた時間に病院に向かった。

 オルゴールの優しいメロディーが流れるピンクを多用した内装は、やっぱり落ち着かない。

 薄いピンクの白衣を着た、痩せた看護師の指示に従う。



 すべてを終えて、滑らかに開くガラスドアを通ると、むっとした湿り気を帯びた空気に包まれて、夏が近いことを知る。



 わたしは髪をひとつにしっかりと結び、マンションに足を向ける。




 母は昨日、祖母のもとに帰っていった。


『生理になった、間違いだったみたい』


 あからさまに嘘とわかるだろうセリフをまるごと飲み込んで、母は悲しげな顔をしていた。

 いったい何を憐れんでいるのだろうか。




 夕方になっても戻らないお姉ちゃん、わたしはこっそり保険証と免許証を抜き取ったことを後になって、自分のことを殴りたいくらい悔やんだ。









 白い長い廊下には、等間隔に蛍光灯が光り、トンネルのようだった。

 脇に並ぶ部屋は見たこともない機械が並び、真っ白な白衣を着たいろいろな人がいる。

 わたしは迷路のように入り組んだ通路を所々に設置された看板を見ながら、東病棟の四階を目指す。


 動いている感覚のないただの箱、左上の小さな数字だけが、変わっていく。


 ナースステーションで要件を告げると、パソコンに向かっていた看護師が驚いたように、わたしを見つめる。


「妹さん?とても似てますね、目元とか」


「……はあ」


 わたしの友人はわたしのお姉ちゃんを知らない。わたしはお姉ちゃんの友人を知らない。

 だから、こんな風に驚かれてしまうことに驚く。



 窓にわたしの姿がくっきりと闇に映る。冴えないカットソーにデニムのショートパンツ、アイラインもマスカラものせていない顔はいつかみたお姉ちゃんにほんの少し似ているのかもしれない。



 看護師の言葉を聞きながら、わたしは固くまぶたを閉じる。

「路上でうずくまっていたところを通りかかった人が救急車を呼んでくれて、緊急入院となったんですが、意識がなくて、保険証や免許証もお持ちでなかったので、連絡が出来なかったんです」


 そして看護師な案内された暗い簡素な部屋に入る、ベッドに横たわる小さな背中、振り向いた青白い顔をしたその姿にわたしはお腹の底から冷たいものが込み上げてくるようだった。


「………渚、私の保険証知ってる?」


「……持ってる」


「渚……。ごめんね、私は自分が情けなくて嫌になるわ。何もしてあげられない、助けになりたくても、できることはなんでもしてあげたいのに、私は……。渚、産ませてあげられなくてごめん」


「……」

 わたしは涙が溢れて、言葉を発することが出来ずにいた。






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