始まりの雨
「お願い……。いいから」
霧のような春雨で濡れた髪が頬や首筋に張りついている。
歯の根が合わずに、カタカタと鳴ってしまいそうになるのは、一年しか袖を通さなかった濡れた濃紺のブレザーが体温を奪うからか、それとも、目の前の男の瞳が氷のように冷ややかに私を見つめるからかは、わからなかった。
少し雨足が強まり、アパートのスチールの階段に落ちる雨音が、さっきより大きく聞こえる。
「お願い……。本当にいいの……」
「……わかった。俺の気持ちは変わらないから」
彼の声からは何の感情も伺い知ることができなかった。
顔を上げて、何度も見つめた彼の顔には、ぼんやりと空を見つめた黒い瞳と、口角を歪ませた口元……。わたしの目にしたことのない彼の顔があった。まだ、知らない彼がいたこと、その顔を見つけた人が自分だけな気がしたことに、満足だった。
ゆっくりと伸ばされた大きな手、細く長い指で唇をなぞり、頬を撫でる。そっと重なる唇はしっとりと冷たい。
ほんの少し離れたかと思うと、角度を変えてまた、重なる。どんどん深くなるキスに、わたしは体の力が入らなくなって、彼にしがみついてしまう。彼の腕が私を支え、濡れたブレザーをするりとぬがせてしまう。
彼はわたしを見ないまま、耳元で小さく呟いた。
「……いいのか?」
わたしは何も言葉にできない。けれども、彼の胸の中で、その腕をきつく握る。それが答え。
彼はゆっくりとブラウスのボタンに手をのばした。
「……大好き」
わたしの思いが言葉になってこぼれてしまう。彼は一瞬、その動きを止めて小さく息を吐く。けれども、彼は何も言葉にはしない。
小さなボタンをはずして、わたしの肩から背中に手を滑らせる。足下にパサリとブラウスが落ちて、彼の唇がわたしの素肌をついばんでいく。
彼の匂いが満ちた柔らかく冷たいシーツに頬を寄せる。体に温かい重みを感じ、腕を伸ばしてその肩を抱き寄せる。
彼を感じることができるこの肌だけがあればいい。思いを言葉にしてしまう口も、彼の思いを聞いてしまう耳もいらない。
どうして彼はあの女なんて、好きなんだろう。どんなに思いを巡らせても答えはでないのに、いつだって考えてしまう。
彼の乱れた息づかいと、わたし自身が聞いたことのないわたしの甘い声とさっきよりもまた強くなった雨音だけが、小さな部屋に響いていた。




