第1話 不審者
月夜の晩だけじゃないぞ、と最初に言ったのは誰なのか。
今となっては不明だが、襲撃するのであれば、言うまでもなく月夜より真っ暗闇の日のほうが、適していると思う。
ましてや、月夜だったら襲撃者は顔を見られる心配までしなくてはならない。まったく理に適わない警句だ。
いや。これは警句じゃなく、脅し文句、または捨て台詞だったか。
春斗は小さくため息をついた。
どうしてそんな生産性のないことを考えているかといえば、今日が生憎の月夜の晩だからである。
しかも、怪しげな男が一〇メートルほど先に立っていた。
春斗のいる路地は、大通りから一本入っただけだというのに見事に人気がない。
ついでにいえば、今日の朝刊で、この周辺で女性が通り魔に撲殺されたという記事を読んだばかりだ。
「ああ~、やっぱ、通り魔事件の犯人だったりするんだろうな」
さっきコンビニで買った、ペットボトルのコーラが入ったビニール袋をちらりと見る。
果たして、こいつを振らないで、目の前の相手から逃げられるかどうか。
「炭酸飲料にしたのは失敗だったかな」
春斗はつぶやく。
悔いてもコーラが、伊右衛門になるわけでもない。なるべく振らないで、乗り切ることを考えよう。
頭を切り換えて、目の前の男に目をやる。
スーツにネクタイをして、上から淡い色のスプリングコートを羽織っていた。年は二十代後半といったところか。
普通に見れば、サラリーマンが家に帰る途中と考えるべきなのだが、春斗にはそうは見えなかった。
わずかな血の臭い。
男からただよってくる臭いに、混じっているのだ。
春斗が血の臭いに敏感だから、ということもある。もしかしたら、さっき恋人に浮気がばれて、ビンタの一発でも食らって、鼻血を出しているだけ、ということも考えられる。
ただ、それならば、こんなに剣呑な雰囲気を発しているわけがない。まるで、これから春斗を八つ裂きにするみたいな殺気が、目の前の男からは感じられる。
「これは、嫌な予感しかしないよなぁ」
どうしたものかと、考えているうちに、男が突然動いた。
ものすごい勢いで、真っ正面から春斗に向かって走ってくる。
ストップウォッチがないのが、勿体ないくらいの走りだ。おそらく、一〇〇メートル走の世界記録は、楽に更新しているだろう。
「よっと」
春斗は軽く後ろに跳躍する。ざっと五メートルぐらいだろうか。
男が驚いた顔をして、立ち止まった。
「できれば見逃しくれない? 面倒ごとは避けたいんだけど」
春斗は、男に向かって言った。
男は春斗を、凝視している。
暑苦しいこと、この上ない視線だ。
この牽制だけで、相手が引いてくれると、春斗としても楽で助かる。コーラの無事も確保されるだろうし。
黙ったままの男は、じりじりと後ずさりして、十分に距離をとってから、身を翻した。
鮮やかな逃亡とは言い難かったが、はっきりとした判断は悪くない。
男の姿が完全に消える。
「……さてと。家に帰りますか」
春斗は何事もなかったかのように、ゆっくりと歩き出した。