第五式
「や、やわす……やわしし……ネーサ。うん、ネーサだね」
少女は数回名字を噛むと、結局諦めて名前のみを確認した。
「あ、ちょっと……」
「で、ネーサは変わった名前とか服装だけど何処から来たの?」
なんて笑顔で聞いてきた。
彼女は勘違いをしている。『柔敷 音衣沙』なんて名前、本名だと思うなんて彼も思っていなかったために言いそびれてしまったが、それは現在人気急上昇中のアイドルの芸名なのだ。ちなみにそのアイドルは勿論女性で、さらに言えば彼の妹だったりする。
一連の込み入った説明をしようとした彼だったが、笑顔という強大な兵力の前に屈服し、まあいいか、なんて思ってしまった。
「すみません。何処から……というか、今ここが何処かさえ分からないんです」
取りあえずのですます調。相手は自分より年下であるのはほぼ間違いないとは思っていたが、助けられたようである現状、まずは態度から感謝の意を示さないとと考えたのだ。ただ、どんな状態で出会っても、リアルでのコミュニケーション不全である彼はこんな口調になってしまったかもしれないが。
「えっ……もしかして記憶喪失か何か?」
「いや、そういう訳じゃ――」
「と、その前に……はい、これ。あと僕はミリュエリア・ルイン。みんなはミリュエって呼ぶよ」
ミリュエは木製の器を手渡しながら椅子を一つベッドの脇まで運んできて、そこに腰かける。器の中身は数種類の野菜が入ったスープだった。
「あなたのことは何て呼べばいい?」
「あっと……じゃあ、ネーサで」
「了解――じゃあ、ネーサ。僕相手にそんな畏まった話し方しなくていいよ。話しづらいでしょ?」
「わかった、ミリュエ」
彼――ネーサは息を吐き出し、肩の力を抜く。
ミリュエはネーサが今まで接したことのないタイプの人間だった。決して強引という訳ではない。けれど彼女の言葉には有無を言わせぬ何かがあったのだ。
「俺の話を始める前に一つ聞きたいことがあるだ。今いるこの場所はなんという場所?出来るだけ詳しく教えてほしい」
「ここはミリセリア最南の村、プリンシピア。大河ルテールを挟んでグリフランドと接する国境付近の村でもあるよ」
質問の意図とは別に、ネーサはミュリエという人物に対する自己分析に新たな情報を加える。それは恐らく彼女は頭の回転が驚くほど速いということ。彼女は、現在の居場所を聞くという理解不能な質問の意図を先ほどまでのネーサの言動と出来るだけ詳しくという要望から推測し、疑問も挟まずに答えたのだ。しかも、固有名詞を多く含んだその返答から、彼女の推測がおおよそ的を射ているのは明らかだった。
同時にネーサは落胆する。聞いた全ての名詞は、彼が知る世界のどこの地名でもなかった。外国語ならただ知らないだけという可能性も残るが、ミュリエの話すそれは流暢な日本語。その可能性もないだろう。
「信じられないかもしれないけど、俺は違う世界から来たらしい」
「違う――えっ?」
絶句するミュリエ。目の前の男が自分は異世界から来たなんて言いだしたのだから無理もない。信じてもらわなくてもいいけど、不審者として突き出すとかは勘弁だな、などとネーサが暢気に構えていると、フリーズしていたミュリエが突如部屋を飛び出して行き、直ぐに何かを持って戻ってきた。
「これを見てっ」
半ば叩きつけるような勢いで机に羊皮紙が広げられる。どうやらそれは地図のようだった。
「この村がこの辺り。で、ミリセリアの首都セナートがここ。これがルテール。どう、見覚えないっ?」
勢いよく言われても無いものは無い。地図に描かれた大陸は一見オーストラリアにも見えたが、それにしては斜めに潰れていたし、オーストラリアにはY字型に大河が流れてなどいない。
ここまで来ても、自分が異世界に来たなどという可能性すら思い浮かばない人間もいるかもしれない。しかし、彼のヲタク的経験論――と言っても飽くまで疑似体験を基にしたものだ――がここは異世界だと最早確信に近い形で予感していた。
ネーサは少しでも既知なものを探そうと注意深くその地図を見つめていたが、やがて溜め息を吐き、首を横に振る。
「全く見覚えなし」
返事をしつつ、ネーサは少女の反応を予想する。良くて困惑か同情。悪ければ恐怖や猜疑。ここにどんな信仰や習慣があるかは分からないが、最悪の場合は捕縛も十分にありうるというのが彼の考え。
「そっか……」
しかし、少女は喜色と期待の入り混じったような顔で呟いた。