第三式
気付いた時には、彼は走りだしていた。
勝算などない。少年を守りたいなんて綺麗な感情でもない。ただ、人の死――しかも、圧倒的な暴力によって齎された残酷な死を、彼はこれ以上許容できないと感じたのだ。その情報を次に脳が処理した時、自分を自分たらしめる根幹的な何かが壊れる、そんな恐怖感。
――決して、正義感などではないと何度も自身に言い聞かせる。
男の亡骸を走り過ぎる時に銃把が見え、咄嗟に拾い上げる。しかし、銃把より先が溶け落ちていることに気づき、舌打ち。
彼は知る由もなかったが、この銃には元々数字や文字が刻まれていた。その殆どが溶解してしまっていたが、唯一残っていたものがある。それは、
V=V₀(1+βt)
この式を見慣れているなんて人間は皆無だろう。それどころか、何の式か分かるだけでも少数派だ。しかし、冷静な状態での彼は少数派の方であり、この式の意味が分かった筈である。
しかし、彼はただドラゴンだけを見ていた。
「くっそ……」
間に合わない。その焦燥に焼かれる心の命令に突き動かされて彼の脳は加速する。色、音、匂いをカット。視界を集中。燃えるように熱い身体の中心で心臓の強い鼓動だけを彼は感じる。
そして遂に、彼は流体のように鈍足で進む白黒の世界で、ドラゴンの首よりも先に少年の元へと滑り込んだ。
だが、ここまで。
そもそも彼自身が間に合うなんて考えていなかったのだ。故にここから生き延びるプランなど存在するわけもなく、振り返れば目の前には巨大で凶悪な咢。所謂詰み。
「うあああああああぁぁぁぁぁぁっ!」
それは悪あがきにして、投了を先延ばしにする無駄な一手だった。
彼は無意識に握っていた銃把を投げつける。叫びが威力に繋がるとでも言うように、腹の底からの絞り出した咆哮と共に。
投げ付けられたそれは、くるくると回転しながらドラゴンの口内に飛び込んだ。
一瞬の静寂……
――そして、極光と轟音、衝撃
それが爆発だと認識する前に彼の意識は暗闇に落ちて行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
少女は鼻歌交じりに森を散策していた。
鬱蒼と茂り、その迷い易さから旅人達に忌避される森も、毎日通れば日常の一環。彼女は特に何の感慨も抱くことなく足を進める。手には木製の籠。中からは色取り取りの野花が覗いていた。
「ふんふふーん」
足取り軽くスキップ――とまではいかなくとも、確かな達成感と微かな疲労感からくる心地よさを味わっていた彼女は、気の向くままにいつも異なる道を選んでみたりした。
……それがいけなかった。
最初に気づいたのは鼻に突く異臭。
「何だろう?」
好奇心の赴くままに異臭の元へと向かった彼女が発見したのは、何か巨大な黒い塊。そして、その近くに倒れている二人の人。
慌てて二人の元へ駆け寄る少女は、何か固いモノを踏んで転んでしまった。
「痛た……えっ、これって……」
最初は木の根か何かと思ったそれは、実は巨大な漆黒の翼。そう考えると、繋がっているのは胴体で、その先には首が……
「ド、ドラゴンの死骸!?」
少女の頭がフル回転を始める。
首の中程から先が”爆発したように”千切れ飛んでいるドラゴンの遺体。良く見れば薙ぎ倒されたように傾く周囲の草木。さらに、その間近で気を失っている二人の人物。何から何まで異常だった。
少女は決して読書家ではないけれど、一般知識としていくつかの物語は知っている。それが英雄譚であろうが怪奇譚であろうが、拾った者は巻き込まれる。命懸けの何かの果てに得るのは名誉や財宝。しかし、物語は成功例だから残ったにすぎず、その栄光は数々の知られざる挑戦者達の屍の上に成り立っている。
「そんな歩の悪い賭け……」
彼女は人の善意を信じない。運命なんてものも信じていない。信じられるのは自身と損得勘定で拘束された他者の行動。そんな彼女は善意でなんか動かないし、実益と損害を天秤に掛けて全てを判断する。
――少なくとも彼女自身は自らの人間性をそう分析していたし、これからも変えるつもりはなかった。
そして、目の前の事例は明らかに、リスクが高すぎた。
「と、言う訳で、僕はここで何も見なかったし、そもそもこんな所に立ち寄ってなんかいない」
独り言にしては声が大きかった。音一つない森を風が吹き抜ける。
彼女は踵を返すものの振り返って一瞬逡巡。しかし、結局は再び前を向き、自身の住まいがある村へと駆け出した。当初よりも速い速度。しかし、彼女の足取りは心なしか重く見えた。