アイドルはうんちをしない
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アイドルはうんちをしない。
これは比喩でも誇張でもなく、文字通りの事実である。彼女たちの体内に入ったあらゆる物質はどのような毒性を帯びていようと、完璧に無効化され、吸収されてしまう。
なぜそうなるのか、どのようなからくりでそれが成立するのか、科学者たちは長年この謎に挑んできたがいまだ誰一人として解明に成功していない。東京大学の研究チームが十五年の歳月を費やして得た結論は「わからない」の五文字だけであった。
ただし、この特性には明確な条件がある。
アイドルがアイドルである間だけそれは有効なのだ。引退した瞬間、あるいは本人がアイドルとしての自己認識を失った瞬間、彼女たちは普通の人間に戻ってしまう。国民的アイドルグループ「虹色シャワーズ」のリーダー・星野美琴が電撃引退を発表した翌朝、数年ぶりにトイレに駆け込んだときの衝撃を彼女は後のインタビューでこう語っている。
「四十五分出てこられませんでした」
あらゆる毒素をと言ったが、これは一切の誇張を含まない。青酸カリであろうとサリンであろうと、アイドルが摂取すれば完全に無害なものになる。かつて過激なことで知られる「木曜のアップタウン」というテレビのバラエティ番組で、人気アイドルグループのメンバーがフグの肝を生で食べるという企画が放送されたことがあった。当然視聴者からの苦情が殺到したものの、当の本人はけろりとしていた。それどころか「おいしかったです」とコメントを残し、翌週も元気にテレビに出演していたのである。
さらに驚くべきことに、この能力は放射性物質にさえ作用する。
福島第一原発の除染作業にボランティアとして参加した地下アイドルのメンバーが汚染された土壌を素手で触った結果、その土壌の放射線量が劇的に低下したという報告がある。調子にのった彼女はぺろりと土を舐めてしまったのだが、それでも彼女の体内被曝量はゼロ。物理法則を完全に無視した現象だが事実は事実として記録されている。
そう、アイドルは無敵の存在なのだ。
そしてこの事実に目をつけた人物がいた。時の内閣総理大臣、鷹市香苗である。
◆
20XX年七月。首相官邸。
鷹市は執務室の椅子に深く腰かけ、目の前に積まれた報告書を睨みつけていた。六十四歳。日本初の女性首相として就任し、現在は二期目の折り返しを過ぎたところだ。報告書の表紙には「高レベル放射性廃棄物の最終処分に関する現状と課題」と印字されている。
原発事故から長い歳月が流れていた。処理水の海洋放出は完了したものの、高レベル放射性廃棄物の最終処分場問題は依然として暗礁に乗り上げたままである。しかしどの自治体も受け入れを拒否し、政府が提示する交付金の額は天井知らずに吊り上がっていく。このまま国家財政に負担がかかり続ければ、いずれ深刻な財政危機を齎す事になるだろう。
「これね」
鷹市は報告書の一節を指で叩いた。アイドルの特殊能力に関する科学的調査の項目。放射性物質すら無害化するという、あの荒唐無稽な事実が記されている。
「アイドルに食べさせればいいじゃない」
その発言を聞いた官房長官の佐々木健一は、危うくコーヒーを吹き出しそうになった。
「総理、さすがにそれは」
「冗談じゃないわよ」
鷹市の目は本気だった。
「考えてみなさい。最終処分場を作る必要がなくなる。地元との交渉も莫大な交付金も何万年も管理し続ける費用も全部不要になるのよ。アイドルに食べさせるだけで」
「しかしアイドル事務所が」
「説得するわ。国家事業として正式に依頼すれば、断れないでしょう」
一週間後、政府は全国のアイドル事務所に対して「放射性廃棄物処理協力要請」なる文書を送付した。文書には協力したアイドルには政府公認の称号を与えること、相応の報酬を支払うこと、そして何より「国民のために貢献する機会」が与えられることなどが記されていた。
返答は迅速だった。
拒否、である。当然であった。
◆
「ふざけんじゃないわよ!!」
芸能事務所「スターライトプロモーション」の社長、黒崎玲子は電話口で怒鳴った。受話器の向こうにいるのは経済産業省の官僚である。
「うちの子たちは産業廃棄物処理場じゃないの。何考えてんのよ、政府は」
同様の反応が全国の事務所から寄せられた。大手から零細までアイドル業界は一致団結して政府の要請を拒否したのである。SNS上では「#アイドルは処理場じゃない」というハッシュタグがトレンド入りし、アイドルファンたちも抗議の声を上げ始めた。
「私たちは夢を届ける存在です」
人気アイドルグループ「ミルキーウェイ」のセンター、藤原あかり──通称、アカリンは記者会見でそう語った。
「放射性廃棄物を食べるためにアイドルになったわけじゃありません」
彼女の発言は大きな共感を呼んだ。しかし同時に反発も生んでいる。
「国が困ってるのに協力しないのか」
「アイドルなんて社会の役に立たないんだからせめてこれくらいやれよ」
SNS上でアイドルへの批判が渦巻き始める。最初は一部の過激な意見に過ぎなかったが、次第にその声は大きくなっていった。テレビのコメンテーターたちもアイドルの社会的責任について議論を始め、世論は徐々にアイドル批判に傾いていく。
「わがままだ」
「自分たちだけ特別扱いされたいのか」
「うんちしないくせに偉そうに」
最後の批判は意味がよくわからなかったが、とにかく人々は怒っていた。何に対して怒っているのか、本人たちにもはっきりとはわかっていなかっただろう。ただ、怒りの矛先がそこにあった。
事態が動いたのは八月十五日のことである。
全国四十七都道府県で同時多発的にアイドルたちによる抗議ライブが開催されたのだ。東京会場は代々木公園。野外ステージに立ったのは、大手から地下まであらゆるアイドルグループの混成チームだった。普段はライバル同士の事務所が手を組み、百人を超えるアイドルたちが一堂に会している。
「今日は伝えたいことがあります」
マイクを握ったのは藤原あかり──通称アカリン。
「私たちは怒っています。でも政府に対してだけじゃない。私たちを批判している人たちに対しても。そして何より、こんな状況を作ってしまった、この社会全体に対して」
観客席がざわめいた。
「私たちは産廃処理場じゃない。でも同時にただ可愛いだけの人形でもない。私たちには私たちの意志があります。私たちの声があります。それを聞いてほしい」
音楽が流れ始めた。この日のために作られた新曲だ。タイトルは「わたしたちの声」。
歌が始まった瞬間、何かが変わった。
代々木公園を埋め尽くした一万人の観客たちは最初はただ聴いていた。しかし曲が進むにつれて、彼らの表情が変わっていく。険しさが消え、戸惑いが浮かび、やがてハッとしたような顔になる。
同じ現象が全国四十七会場で同時に起きていた。
札幌ではアイドル批判の先頭に立っていたネット論客が、ライブの途中で突然泣き出した。
「なんで俺、あんなこと書いてたんだろう」
そんな事を呟きながら。
大阪では政府の要請を主導していた経産省の官僚がたまたまライブ会場の近くを通りかかった。だがスピーカーから漏れ聞こえてくる歌声を耳にした瞬間、足が止まる。そしてしばらくその場に立ち尽くした後、スマートフォンを取り出して上司に電話をかけた。
「あの要請、撤回しませんか。なんだか、間違っていた気がするんです」
福岡ではアイドルを国賊呼ばわりしていた県議会議員がライブの中継映像を見ながら首を傾げていた。
「あれ、俺、なんでこんなに怒ってたんだっけ」
思い出せない。確かに怒っていたはずなのにその理由がすっぽり抜け落ちている。
首相官邸。
鷹市香苗は執務室のテレビで全国のライブ中継を見ていた。画面の中のアイドルたちはただ歌って踊っているだけだ。それなのに何か途方もないことが起きている予感がある。
電話が鳴った。官房長官の佐々木からだ。
「総理、各地で奇妙な報告が」
「知ってるわ」
「批判していた人たちが次々と態度を変えています。それだけじゃない。政府関係者の中にも」
「あなたは?」
佐々木は少し黙った。
「正直に言うと、私もです。総理はいかがですか?」
「実は私もなのよ」
鷹市は受話器を置き、窓の外に目をやった。夕暮れの東京。どこか遠くから、かすかに音楽が聞こえてくるような気がする。
◆
翌日、政府は放射性廃棄物処理協力要請の撤回を発表した。鷹市総理は記者会見で深々と頭を下げ、「アイドルの皆さん、そしてファンの皆さんに心からお詫び申し上げます」と述べた。その姿には政治家特有の空々しさが全くなかった。
アイドルを批判していた人々も次々と謝罪の言葉を発信し始める。
「なぜあんなことを言ったのかわからない」
「申し訳なかった」
「今は反省している」
SNS上には謝罪の言葉が溢れ、「#ごめんなさいアイドルの皆さま」というハッシュタグがトレンドを席巻した。
世間がこの異常事態に首を傾げている中、鷹市香苗だけは別のことを考えていた。
「これは使えるわね」
執務室で一人、彼女は呟いた。
鷹市は考えたのだ。
アイドルの能力は物理的な毒だけでなく、精神的な毒にも作用する、と。あの抗議ライブで起きたことはその証明だった。政府への不満、アイドルへの批判、社会に蔓延していた漠然とした怒り。それらがアイドルたちのパフォーマンスによって浄化されたのだ。
つまり、「大人の都合」という毒が消えた。「国の都合」という毒も。
ならば、もっと大きな毒にも効くのではないか。
たとえば、戦争を引き起こすような毒に。
鷹市はタブレットに世界地図を表示させた。20XX年現在、世界情勢は悪化の一途を辿っている。
ロシアによるウクライナ侵攻は泥沼化し、終わりが見えない。中東ではイスラエルとパレスチナの対立が激化し、いつ全面戦争に発展してもおかしくない状態だ。アフリカでは資源をめぐる紛争が頻発し、難民の数は過去最高を記録している。
日本も他人事ではない。中国による台湾への軍事的圧力が強まり、それに対して日本の身の振り方が世界から注目されていた。中国の最高指導者、龍金平は「祖国統一」を最優先課題に掲げ、台湾海峡での軍事演習を繰り返している。アメリカは台湾防衛のコミットメントを表明しているが、本当に軍事介入するかどうかは不透明だ。もし中国が台湾に侵攻すれば、日本も巻き込まれることは避けられない。
世界滅亡待ったなし! 終末時計の針も残り九十秒を指している。
だが──
「世界規模のライブをやればどうなるかしらね」
鷹市の頭の中で、壮大な計画が形を取り始めていた。
◆
九月。鷹市は極秘裏にある人物と会談した。
韓国の大統領、朴在寅である。
「面白い提案ですね」
ソウルの大統領府で朴大統領は鷹市の話を聞きながら笑った。六十三歳。進歩派の政治家として知られる彼は文化外交に積極的なことでも有名だった。
「K-POPアイドルと日本のアイドルの合同ライブ。世界に向けた平和のメッセージ──悪くない。ただ、中国が問題ですね」
「確かに」
「彼らを巻き込まなければ、効果は限定的でしょう。しかし中国政府が協力するとは思えない」
「交渉してみます」
「本気ですか?」
朴大統領は眉を上げた。
「中国のアイドルも巻き込めれば、アジア全体をカバーできる。そしてアジアから始まった波は世界に広がっていく」
「夢物語ですね」
「夢でも構いません。このまま戦争に向かうよりは」
◆
中国との交渉は予想通り難航した。
外交ルートでの接触は何度も暗礁に乗り上げ、政府高官からは「内政干渉だ」「文化侵略の一環だ」といった批判が返ってきた。中国共産党にとって、「アイドル」という存在自体が西側的な価値観の象徴であり、警戒の対象なのである。
しかし転機は意外なところから訪れた。
中国の人気アイドルグループ「星辰少女」のリーダー、王暁月がSNSで計画への支持を表明したのだ。
「私たちは政治の道具じゃない。でも平和のために歌うことなら、喜んでやります」
この投稿は瞬く間に中国国内で拡散された。検閲の網をかいくぐり、VPNを通じて海外にも広がっていく。若者たちの間で支持が高まり、「平和のためのライブを実現させよう」という声が無視できないほど大きくなっていった。
最終的に中国政府が折れたのは十一月のことである。
条件としてライブの開催地に北京を含めること、出演時間の配分を対等にすること、そして「これは中国政府の主導による国際文化交流事業である」と発表することが提示された。
鷹市は条件をすべて飲んだ。
名目などどうでもよかったからだ。この計画は実現することが何よりも重要なのだ。
欧州諸国にも協力を要請したが、こちらは丁重に断られた。
「申し訳ありませんが我々には参加する術がありません」
フランスの文化大臣は苦笑いを浮かべながら言った。
「ヨーロッパにはあなた方が言うような『アイドル』が存在しないのです」
欧米にも歌手はいる。ダンサーもいる。しかし日本や韓国、中国で発達したような「アイドル」という文化形態は西洋には根付いていなかった。ファンとの疑似恋愛関係、「推し」という概念、そして「うんちをしない」という神話。それらすべてが複雑に絡み合って初めて、アイドルは毒を浄化する能力を持つ。
「ティナー・スウィフトじゃダメなの?」
「残念ながら。彼女は偉大なアーティストですがアイドルではありません」
◆
日中韓三カ国の政府間合意が成立した。しかし鷹市にはまだ越えなければならない壁があった。
アイドル事務所の説得である。
十月上旬。都内のホテルで開かれた極秘会合には、日本の主要アイドル事務所の代表者たちが集められていた。
「世界平和のためのライブ?」
スターライトプロモーションの黒崎玲子は眉をひそめた。つい二ヶ月前、放射性廃棄物処理の要請を怒鳴りつけて断ったばかりである。
「また政府の都合でうちの子たちを使おうってこと?」
「違います」
鷹市は静かに答えた。
「今回は強制ではありません。お願いです」
「お願いされても困るわ。アイドルは政治の道具じゃないの」
「承知しています。だからこそ、皆さんに判断していただきたいのです」
鷹市はタブレットを取り出し、世界地図を表示した。
「現在、世界では複数の紛争が同時進行しています。ロシアとウクライナ。イスラエルとパレスチナ。台湾海峡の緊張。このまま行けば、第三次世界大戦が起きてもおかしくない」
「それとアイドルに何の関係が」
「八月十五日のライブを覚えていますか」
黒崎は黙った。あの日、確かに何かが起きた。批判していた人々が態度を変え、政府さえも要請を撤回した。
「あれは偶然じゃありません。アイドルには人の心から毒を取り除く力がある。物理的な毒だけでなく、精神的な毒も」
「だとしても」
別の事務所の社長が口を開いた。大手芸能プロダクション「サンシャインエンタープライズ」の社長、村上誠一である。
「うちのタレントを戦争に巻き込むわけにはいかない。万が一のことがあったら」
「会場は東京、北京、ソウルの三都市です。紛争地域には行きません」
「でも政治色が強すぎる。ファンが離れるかもしれない」
「その可能性はあります」
鷹市は正直に認めた。
「リスクはゼロではありません。しかし──」
彼女は一呼吸置いた。
「このまま世界が戦争に向かえば、日本も無関係ではいられません。ファンの皆さんも、アイドルの皆さんも、私たちも。全員が巻き込まれる」
会議室に沈黙が流れた。
「考えさせてください」
黒崎が言った。
「もちろんです。ただ、時間はあまりありません」
◆
事務所側の反応は予想通り芳しくなかった。
翌週、鷹市のもとに届いた回答は、ほとんどが保留か婉曲な拒否だった。「検討中」「社内で協議が必要」「現時点では難しい」──どれも同じ意味だ。政治に関わりたくない。リスクを負いたくない。当然の反応である。
しかし、変化は意外なところから始まった。
ミルキーウェイの藤原あかりが、自身のSNSで発言したのだ。
「世界平和のためのライブの話、聞きました。私は参加したいです」
事務所を通さない、個人としての発信だった。
「アイドルが政治の道具になるのは嫌。でも、歌で誰かを救えるなら、それはアイドルとして正しいことだと思う」
この投稿は瞬く間に拡散された。
ファンの反応は二分された。「アカリンを応援する」という声と、「政治に関わるな」という声。SNS上で激しい論争が巻き起こった。
しかし、あかりの発言に触発されるように、他のアイドルたちも声を上げ始めた。
「私も参加したい」
「歌で世界を変えられるなら、やってみたい」
「アイドルにしかできないことがあるなら」
最初は数人だった。それが十人になり、五十人になり、百人を超えた。
事務所側も態度を変えざるを得なくなっていった。所属タレントが公然と参加の意思を表明している以上、無視することはできない。
「うちの子たちがやりたいって言うなら」
黒崎玲子は苦笑いを浮かべながら言った。
「止める権利は私にはないわね」
村上誠一も同様だった。
「本人たちの意思を尊重します。ただし、安全面の保証は確実にお願いしますよ」
「もちろんです」
鷹市は深々と頭を下げた。
「必ず、皆さんを守ります」
◆
十一月中旬。参加アイドルの選考が始まった。
日本からは五十人。大手事務所から地下アイドルまで、あらゆるジャンルのアイドルが名乗りを上げていた。オーディションというよりは、意思確認に近い形で選考は進められた。
「本当に参加する気持ちはありますか」
面接官の質問に、アイドルたちは様々な答えを返した。
「正直、怖いです。でも、やらないで後悔したくない」
「私たちの歌で誰かが救われるなら、それだけで十分です」
「政治のことはよくわかりません。でも、戦争は嫌です。それだけは確かです」
中には迷いを見せる者もいた。
「事務所の先輩に止められました。政治に関わるなって」
「ファンの一部から批判されています。アイドルの分際で、って」
「家族にも反対されました」
それでも、最終的に五十人全員が参加を決めた。
「後悔しないように生きたいから」
ある地下アイドルはそう言った。
「普段は小さなライブハウスで歌ってるだけ。でも今回は世界に届く。そんなチャンス、二度とないかもしれない」
◆
韓国でも同様の動きがあった。
K-POPアイドルたちは当初、事務所の方針に従って沈黙を守っていた。しかし日本のアイドルたちが次々と参加を表明する中、韓国でも声が上がり始めた。
「私たちも参加すべきだ」
大手事務所「JYエンターテインメント」所属の人気グループ「STELLAR」のリーダー、キム・ソヨンが最初に声を上げた。
「K-POPは世界に届く力を持っている。その力を平和のために使わないでどうするの」
韓国の事務所は日本以上に統制が厳しい。しかしソヨンの発言をきっかけに、ファンの間で「参加させてほしい」という署名運動が始まった。わずか三日で百万人の署名が集まり、事務所側も無視できなくなった。
「ビジネスとして考えれば、参加した方がいい」
JYエンターテインメントの代表は冷静に判断した。
「世界百九十三カ国に生放送される。これほどの宣伝機会はない」
打算的な理由ではあったが、結果として韓国からも五十人のアイドルが参加することになった。
◆
中国は最も複雑だった。
政府の許可を得たとはいえ、中国のアイドルたちは厳しい監視下に置かれている。個人の意思で発言することは事実上不可能だった。
しかし王暁月は違った。
彼女はSNSでの発言後、当局から「注意」を受けていた。しかし彼女は発言を撤回しなかった。
「私は中国人として、平和を望んでいます。それを言って何が悪いのですか」
彼女の姿勢は若者たちの支持を集めた。ネット上では検閲をかいくぐって「王暁月を支持する」という投稿が拡散され、政府も彼女を処分することが難しくなっていった。
最終的に、中国政府は王暁月をプロジェクトの「代表」として公認した。彼女を罰するのではなく、取り込む戦略に切り替えたのだ。
「これは中国政府の主導による国際文化交流事業です」
公式発表はそうなった。王暁月は苦笑いを浮かべたが、何も言わなかった。目的が達成されるなら、名目などどうでもよかった。
◆
十二月に入り、プロジェクトは新たな段階に入った。
ライブの効果を最大化するためには、できるだけ多くの人々に同時に届ける必要がある。三会場の観客だけでは足りない。世界中に配信しなければならない。
「問題は、どうやって全世界に届けるかです」
外務省の担当者が説明した。
「日中韓三カ国での放送は問題ありません。しかしそれ以外の地域、特に紛争当事国への配信は政治的に困難です」
「具体的には?」
「ロシアは西側のコンテンツを規制しています。中東諸国も複雑な事情があります。アフリカの紛争地域にはそもそもインフラが整っていない場所も多い」
鷹市は腕を組んだ。
「一つずつ解決していくしかないわね」
◆
まずロシアだった。
直接交渉は不可能に近い。しかし鷹市には一つのアイデアがあった。
「民間ルートを使いましょう」
ロシアにも日本のアイドル文化のファンは存在する。小規模だが熱心なコミュニティがあり、彼らは規制をかいくぐって日本のコンテンツを入手していた。
「彼らに協力を依頼します。違法配信という形になりますが」
「政府として違法行為を推奨するのですか」
「推奨はしません。ただ、止めもしません」
ロシアのファンコミュニティは喜んで協力を申し出た。彼らはVPNとミラーサイトを駆使して、ライブ当日に配信を中継する準備を整えた。
ウクライナへの配信はより直接的だった。
ウクライナ政府は日本の提案を歓迎した。戦争で疲弊した国民に、ひとときの希望を届けられるなら。国営放送での生中継が決定し、前線の兵士たちにもスマートフォンを通じて届くよう手配された。
◆
中東は複雑だった。
イスラエルへの配信は比較的容易だった。日本との関係は良好であり、文化交流の一環として受け入れられた。
問題はパレスチナだった。ガザ地区のインフラは破壊され、通常の配信手段は使えない。
「国連の協力を仰ぎましょう」
鷹市は国連の人道支援部門に働きかけた。
「これは人道支援の一環として位置づけられます。音楽による心のケア」
国連は慎重な姿勢を見せたが、最終的に協力を約束した。ガザ地区の避難所に衛星通信機器が設置され、大型スクリーンが用意された。
「子供たちに希望を届けたい」
現地のNGO職員はそう語った。
「この数ヶ月、彼らは爆撃の音しか聞いていない。音楽を聴かせてあげたい」
◆
アフリカへの配信は最も困難だった。
紛争地域にはインフラがほとんど存在しない。電気すら通っていない場所も多い。
「携帯電話網を使います」
担当者は説明した。
「アフリカでは固定回線よりも携帯電話が普及しています。現地の通信会社と提携し、無料配信を実現します」
「通信会社が協力してくれるのですか」
「してくれます。彼らにとっても宣伝になりますから」
サハラ以南のアフリカ十二カ国の通信会社と提携が結ばれた。ライブ当日、データ通信料は無料になる。スマートフォンを持っている人なら、誰でも視聴できる。
さらに、紛争地域の難民キャンプには国際赤十字を通じて発電機と大型スクリーンが届けられた。
「音楽で何が変わるかはわからない」
赤十字の担当者は言った。
「でも、何もしないよりはいい」
◆
ヨーロッパ諸国への配信は比較的スムーズに進んだ。
EU各国の放送局が中継に名乗りを上げ、BBC、フランステレビジョン、ドイツのARDなど、主要メディアが生放送を決定した。
「アイドルの文化は理解できませんが」
BBCの担当者は苦笑いしながら言った。
「歴史的なイベントであることは確かです。報道する価値がある」
アメリカではネットフリックスが独占配信権を獲得した。
「史上最大の音楽イベントです。見逃すわけにはいきません」
南米、オセアニア、東南アジア。次々と配信パートナーが決まっていった。
最終的に、百九十三カ国での同時配信が実現した。地球上のほぼすべての国と地域で、このライブを視聴できる体制が整った。
「推定視聴者数は四十億人」
担当者の報告に、鷹市は小さく息を吐いた。
「地球の半分以上ね」
「はい。人類史上、最も多くの人が同時に視聴するイベントになります」
準備は整った。
あとは、当日を待つだけだった。
◆
20XX年十二月二十四日。クリスマスイブ。
「Project IDOL」と名付けられた史上最大規模のライブがいよいよ幕を開けようとしていた。
東京の国立競技場、北京の国家体育場、ソウルのオリンピックスタジアム。三つの会場を同時中継で結び、全世界百九十三カ国に生放送される。三会場の合計観客数は三十万人。視聴者数は全世界で推定四十億人に達する見込みだった。地球上の人類の半分以上がこのライブを見届けようとしている。
東京会場のバックステージ。
藤原あかりは鏡の前で深呼吸を繰り返していた。衣装は白と金。日本を代表して選ばれた五十人のアイドルたちが同じ衣装で出番を待っている。
「緊張する?」
隣に立った王暁月が日本語で話しかけてきた。彼女は東京留学の経験があり、日本語が堪能だ。
「めちゃくちゃします」
「私も。でもなんだかわくわくもしてる」
「わかります」
二人は顔を見合わせて笑った。
開演五分前。
三つの会場が暗転した。
観客席のペンライトが暗闇の中で海のように揺れ、様々な色が会場を幻想的に染め上げていく。
そうしてカウントダウンが始まった。
十。九。八。
全世界四十億の人々が画面を見つめている。リビングで、バーで、広場に設置された巨大スクリーンの前で、病院のベッドの上で、戦場の塹壕の中で。
七。六。五。
ロシアとウクライナの最前線でも兵士たちがスマートフォンを取り出していた。つかの間の停戦。この数時間だけは誰も撃たないという暗黙の了解が成立している。ロシア側ではファンコミュニティが用意した違法配信が、何十万人もの視聴者を集めていた。
四。三。二。
台湾海峡を睨む中国軍の基地でも兵士たちがテレビの前に集まっていた。普段は厳しく監視されている彼らも今夜だけは上官の許可を得て視聴を許されている。
ガザ地区の避難所では、子供たちが大型スクリーンの前に座っていた。数ヶ月ぶりに聞く、爆撃音ではない音。彼らの目は期待に輝いていた。
アフリカの難民キャンプでは、発電機の音がかすかに響く中、人々がスマートフォンの小さな画面に顔を寄せ合っていた。
一。
ゼロ。
三つのステージに同時に光が降り注いだ。
◆
最初の曲は三カ国合同で制作された「アジアの空へ」。日本語、中国語、韓国語のパートが入り混じり、三つのメロディが一つに溶け合っていく。
東京会場の観客たちは最初はただ熱狂していた。しかし曲が進むにつれて、その熱狂の質が変わっていく。怒涛のような興奮が徐々に穏やかな幸福感に変わっていく。
北京会場でも同じことが起きていた。中国の観客たちが涙を流し始める。隣の見知らぬ人と手を取り合い、一緒に歌い始める者もいた。
ソウル会場では韓国アイドルたちの圧倒的なパフォーマンスが観客を包み込んでいた。K-POPの精緻なダンスと、心を揺さぶる歌声。それが何万人もの心を同時に浄化していく。
ライブは四時間続いた。
三十組以上のアイドルグループが入れ替わり立ち替わり登場し、それぞれのパフォーマンスを披露する。日本のグループが中国語の曲を歌い、韓国のグループが日本語の曲を歌う。言葉の壁を音楽が軽々と越えていく。
そしてその音楽は会場の壁をも越えていき、電波に乗って、世界中に届いていく。
◆
モスクワの宮殿ではロシア大統領のプルティンがテレビ画面を見つめていた。公式には西側のコンテンツを視聴することは禁じられている。しかし彼は側近に命じて、秘密裏に中継を繋がせていた。
なぜか涙が止まらない。ウクライナに侵攻した理由がどうしても思い出せない。
ワシントンのホワイトハウスではシュリンプ大統領が困惑した表情で画面を見ていた。中国を敵視していた理由が急にわからなくなっている。
テヘランではパレスチナの最高指導者が首を傾げていた。イスラエルへの憎悪が嘘のように消えている。
北京の中南海でも異変が起きていた。中国の龍金平はライブの映像を見ながら、ある疑問にとらわれていた。台湾を統一したいと思っていたはずだ。しかしなぜだろう。思い出せない。どうしてあれほど固執していたのか。
ガザ地区の避難所では、子供たちが画面に見入っていた。言葉はわからない。しかし音楽は理解できた。数ヶ月ぶりに、彼らの顔に笑顔が浮かんでいた。
コンゴの難民キャンプでは、異なる部族の人々が同じスマートフォンの画面を覗き込んでいた。昨日まで殺し合っていた者同士が、同じ歌に耳を傾けている。
フィナーレは出演者全員による特別な一曲だった。
「世界はひとつ」。
ありきたりなタイトルの、ありきたりなメッセージ。しかしその夜、その歌は文字通りの意味を持った。
三つの会場で百五十人のアイドルたちが同じ歌を歌っている。言語は違う。国籍も違う。それでも彼女たちは確かに一つになっていた。
そしてその一体感は画面を通じて世界中に広がっていく。四十億人の心がゆっくりと、しかし確実に何かに包まれていく。
憎悪という毒が消えていく。
敵意という毒が消えていく。
戦争を欲する心の毒が消えていく。
ライブが終わったとき、世界は変わっていた。
◆
最初の変化は中東で起きた。
ライブ終了から三時間後、イスラエルとパレスチナが緊急共同声明を発表する。
「我々は永続的な平和を誓う」
両国の外相はオンライン会談で固い握手を交わした。数十年にわたる対立が一夜にして消えていた。
「なぜ憎み合っていたのか、思い出せません」
パレスチナ外相の言葉にイスラエル外相もうなずいた。
「私もです。何かひどいことをされた気がするのですが具体的に何だったか」
「覚えていませんね」
「ええ、まったく」
二人は顔を見合わせ、困ったように笑った。
続いて、ロシアが全面撤退を発表した。
「ウクライナへの軍事作戦を即時終了する」
プルティン大統領の声明は世界中に衝撃を与えた。長年続いた戦争が唐突に終わりを告げたのである。
「祖国の安全保障のために必要な作戦だったはずだ。しかし今、その理由が思い出せない。必要だったという確信だけが残っていて、なぜ必要だったのかがすっぽり抜け落ちている」
彼は首を傾げながら、淡々と語った。
「思い出せない以上、続ける意味がない」
中国政府は台湾に対する主権の主張を取り下げると発表した。
「台湾は台湾である。我々は我々である。それで良いではないか」
龍金平は記者会見でそう述べた。
「統一を望んでいたはずだがなぜ望んでいたのかがわからない。歴史的な悲願だったような気もするが具体的に何が悲願だったのか、説明することができない」
記者たちは困惑した表情で顔を見合わせた。質問したいことは山ほどあるはずなのに何を質問すればいいのかわからない。そもそもなぜ自分たちがここにいるのかさえ、少しぼんやりとしている。
北朝鮮は核兵器の全面廃棄を宣言した。
「核は必要ない。もう必要ない」
若き指導者、金正雲は朝鮮中央テレビでそう語った。
「なぜ核を持とうとしていたのか、今となっては理解できない。アメリカから身を守るためだったような気もするがアメリカが我々を攻撃する理由がわからない。彼らは良い人たちではないか」
南北の軍事境界線が開放された。離散家族たちが長い年月を経て再会を果たす。彼らは抱き合い、泣き、そして不思議そうに首を傾げた。
「どうして会えなかったんだっけ」
「戦争があったから、じゃなかったかな」
「戦争? なぜ」
「さあ……」
世界中で同じような光景が繰り広げられていた。
◆
パレスチナとイスラエルの人々が壁を越えて握手を交わした。壁がなぜそこにあるのか、誰も説明できなかったがとにかく邪魔なので撤去することになった。
インドとパキスタンの国境警備隊が互いにお茶を振る舞い合う。カシミール問題が何だったのか、誰も覚えていない。「カシミール」という単語は知っているがそれに付随していたはずの怒りや悲しみがきれいさっぱり消えている。
アフリカの紛争地域では武装勢力が武器を捨てた。部族間の対立、資源をめぐる争い、植民地時代から続く憎悪の連鎖。すべてがリセットされたかのように消えていた。
「戦う理由がない」
ある民兵組織のリーダーは困惑した表情でそう語った。
「銃を持っていたのは覚えている。でも誰を撃つつもりだったのか、まったく思い出せない」
国連安全保障理事会では常任理事国の五カ国が初めて全会一致で決議を採択した。
・
・
・
「世界平和に関する宣言」
「我々は戦争を永久に放棄する。なぜなら、戦争をする理由が存在しないからである」
皆が皆、穏やかな笑顔で握手を交わしている。
「考えてみれば、我々はなぜ対立していたのだろうか」
シュリンプ大統領が首を傾げた。
「あえていえばイデオロギーの違いだろう」
ロシア大統領のプルティンが答えた。
「イデオロギー……とはなんだったか……」
「さあ。大事なことだった気はするが」
「まあいいじゃないか。我々はもはや兄弟同然だ」
五人の首脳は記念撮影のために肩を組んだ。カメラマンは歴史的な一枚を撮影しながら、なぜか少しぼんやりとしていた。
世界は平和になった。
完璧に絶対的に恒久的に。
戦争はなくなった。テロもなくなった。犯罪さえも消滅し、刑務所は次々と閉鎖されている。
「囚人たちを釈放することにしました」
ある国の法務大臣は記者会見でそう発表した。
影響はそれだけにとどまらない。
株式市場も穏やかに値を下げていたのだ。暴落ではない。誰もパニックを起こさないので売りが売りを呼ぶことがないのだ。ただ、株を持っていてもあまり意味がないような気がして、みんなが少しずつ手放しているだけだ。
「お金って、なぜ必要なんでしたっけ」
証券会社の社員がぼんやりと呟いた。
「さあ。でもなくても困らない気がしますね」
「そうですね」
「そうかな? ……そうかも」
◆
ライブから三ヶ月が経過していた。
世界は静かだった。
あまりにも静かだった。
国連本部では奇妙な議題の会議が開かれていた。
──「人類の活力に関する緊急討議」
議長を務めたのはノルウェーの代表だった。彼女は壇上に立ち、淡々と報告書を読み上げている。
「世界的な統計によると、過去三ヶ月で人類の経済活動は七十パーセント低下しています」
会場には各国の代表が集まっていた。しかし誰も驚いた顔をしていない。驚くという感情がどこかに消えてしまったようだ。
「発明特許の出願数はゼロ。新規ビジネスの起業数もゼロ。芸術作品の発表数もゼロです」
「まあ、そうでしょうね」
日本の代表がのんびりとした口調で言った。
「新しいものを作る理由がありませんから」
「食料生産も減少しています。農家の方々が畑に出なくなりました」
「だって、そんなに食べなくてもいいじゃないですか」
中国の代表が言った。
「お腹が空いたら食べればいいし、空かなければ食べなければいい。それだけのことです」
「人口も減少傾向にあります。出生率が急激に低下しています」
「子供を作る理由がわからなくなりました」
アメリカの代表が首を傾げた。
「愛し合っているから作る、というのは理解できます。でもなぜ愛し合うのかと聞かれると」
「さあ」
「わかりませんね」
会議室に沈黙が流れた。しかし誰も気まずいとは思っていない。沈黙を気まずいと感じる感情もどこかに消えていた。
「これは問題なのでしょうか」
フランスの代表が穏やかな声で尋ねた。
「問題かどうかを判断する基準がよくわかりません」
「確かに」
「人類が滅びるかもしれません」
「かもしれませんね」
「それは悪いことですか」
「悪いとか良いとか、そういう判断の仕方がよくわかりません」
「わかりません」
「わかりませんね」
会議は特に結論を出さないまま終了した。結論を出す必要性を誰も感じなかったからである。
◆
首相官邸。
鷹市香苗は執務室の窓辺に立っていた。
三ヶ月前、彼女はこの計画を立案し、実行に移した張本人である。世界を平和にするという途方もない野望。それは確かに実現した。しかしその結果がこれだ。
鷹市は自分の思考がいつもより遅いことに気づいていた。かつてなら、問題を発見した瞬間に解決策を模索し始めていたはずだ。政治家として三十年。常に次の一手を考え続けてきた。それが今は考える気力そのものが湧いてこない。
なぜか──答えは明白だった。
アイドルたちが浄化したのは戦争の原因となる憎悪や敵意だけではなかった。人間を動かすあらゆる毒が根こそぎ消えてしまったのだ。
野心。
競争心。
嫉妬。
焦燥。
恐怖。
欲望。
それらはすべて、人間の心に巣食う毒である。しかし同時に人間を前に進ませる燃料でもあった。
鷹市は自分がなぜ総理大臣になりたかったのかを思い出そうとした。権力への渇望があったはずだ。この国を変えたいという情熱があったはずだ。他の政治家たちを出し抜いてやるという闘争心があったはずだ。
今は何も感じない。
総理大臣という肩書きがただの文字列のように思える。この椅子に座っていることに何の意味があるのか。立ち上がって窓の外を眺めることに何の意味があるのか。呼吸をして、心臓を動かして、生きていることに何の意味があるのか。
わからない。
わからないが、特に困ってもいない。
それが問題なのだ、と鷹市は思った。思ったが問題だと感じる感情がない。問題を解決しようという意欲もない。ただ、論理的に「これは問題である」という認識だけが空虚な器のように頭の中に浮かんでいる。
人間を動かしていたのは理性ではなく感情だったのだ。
理性は方向を定めることができる。しかしそもそも動き出すためには感情という燃料が必要だった。その燃料が今や枯渇している。
鷹市は自分の手を見つめた。この手で様々なものを掴んできた。権力を。地位を。勝利を。それらを掴もうとする衝動がこの手を動かしていた。今、その衝動は消えている。手はただの手だ。五本の指がついた、肉と骨の塊。
「総理」
官房長官の佐々木が入ってきた。
「はい」
「何か、ご指示はありますか」
鷹市はしばらく考えた。考えるという行為自体がひどく億劫に感じられる。
「特にないわね」
「そうですか」
「あなたは何かある?」
「いえ、特には」
二人は窓の外を見つめた。
「私たち、国を動かす立場にいるのよね」
「ええ」
「でも動かす必要がない」
「そうですね」
「というより、動かそうという気持ちがない」
「ないですね」
「予算を組む必要もない。法律を作る必要もない。外交をする必要もない」
「すべて順調ですから」
「順調、というのかしら」
鷹市は首を傾げた。
「止まっている、と言った方が正確かもしれないわね。世界が止まっている」
「そうかもしれません」
「これは私の責任なのよね」
「お気になさることはないと思いますが」
「気にしてないわ。気にするという感情がないの。ただ、事実として確認しているだけ」
佐々木は何も言わなかった。反論する理由もなく、同意する理由もなく、ただ黙っている。
「ねえ、佐々木さん」
「はい」
「私は今、何をすべきなのかしら」
「さあ」
「さあって。まあいいけれど」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわ。私にもわからないんだから」
鷹市は窓ガラスに額をつけた。
「人間というのは毒で動いていたのね」
「毒、ですか」
「ええ。野心も競争心も嫉妬も恐怖も全部毒。でもその毒がないと、人間は動けない。毒が燃料だったのよ」
「なるほど」
「私がこの計画を立案したのも毒があったからだわ。世界を平和にしたいという野心。戦争を止めなければという焦燥。自分の名前を歴史に残したいという虚栄心。全部、毒」
「今は」
「今は何もない。計画は成功した。世界は平和になった。でも成功を喜ぶ感情がない。達成感がない。誇りがない。何もない」
佐々木は黙って聞いていた。
「このまま人類は滅びるのかもしれないわね」
鷹市の声は平坦だった。
「農作物を作る意欲がなくなれば、食料がなくなる。子供を作る意欲がなくなれば、人口が減る。生きる意欲がなくなれば、死んでいく。単純な話よ」
「そうかもしれませんね」
「あなたは怖くない?」
「怖くないですね。怖いという感情がないので」
「そうよね」
鷹市は窓から離れ、椅子に腰を下ろした。
「私は何か手を打つべきなのかしら」
「打つべきかもしれません。論理的には」
「論理的にはそうね。でも打とうという気持ちがない」
「ないですね」
「困ったものね」
「困りましたね」
二人は顔を見合わせた。困っているはずなのに困っている顔ができない。困るという感情がどこにもないのだ。
「まあ、いいか」
鷹市は呟いた。
「いいんですか」
「よくはないわね、論理的には。でもよくないと感じる感情がないの。だからまあいいか、としか言えない」
「そういうものですか」
「そういうものみたい」
窓の外で一羽の鳥が飛んでいった。
「鳥は変わらないわね」
「ええ。鳥はアイドルのライブを見ませんでしたから」
「そうね。鳥には毒もないし」
「ないでしょうね」
「鳥になりたいとは思わないけれど」
「思いませんね」
「でも少し羨ましい気もする」
「少しだけですか?」
「いえ、う〜ん……やっぱり羨ましいという感情ももうないみたい」
「そうですよね」
「ただ、鳥を見ている。それだけ」
「それだけですね」
二人は黙って、鳥が消えていくのを見送った。
東京。かつて渋谷と呼ばれていた街。
藤原あかりは閉店したライブハウスの前に立っていた。看板は外され、シャッターには落書きひとつない。落書きをする動機を持つ人間がもういなくなったからだ。
「静かだね」
隣に立った王暁月が言った。
「うん」
「私たち、すごいことをしたんだね」
「そうだね」
「世界を平和にした」
「うん」
二人は並んで歩き出した。街には人影がまばらだ。歩いている人もいるがどこに向かうでもなく、ただ歩いている。目的地という概念が希薄になっていた。
「ねえ、あかり」
「なに」
「これでよかったのかな」
あかりは空を見上げた。雲ひとつない青空。飛行機も飛んでいない。飛行機を飛ばす理由がなくなったからだ。
「わからない」
「わからないね」
「でも悪くはない気がする」
「うん、悪くはない」
「ただ、なんというか」
「うん」
「空っぽな感じがする」
「するね」
二人はベンチに腰を下ろした。特に疲れたわけではない。ただ、座りたくなったから座った。それだけのことだ。
「アイドル、続けるの?」
暁月が尋ねた。
「どうだろう。歌う理由がよくわからなくなった」
「私も。でも歌いたくないわけでもない」
「そうだね。歌いたくないわけでもない」
「じゃあ、歌う?」
「歌おうか」
二人は立ち上がり、その場で歌い始めた。観客はいない。音響設備もない。ただ、二人の声が静かな街に響いていく。
どこかで誰かがその歌を聴いていた。
聴いて、少しだけ微笑んでまた歩き始めた。
どこに向かうでもなく。
何をするでもなく。
ただ、歩いていく。
◆
夕暮れになった。
世界のどこかで誰かが夕日を見ていた。
美しいとは思わなかった。美しいと感じる感情がもうないからだ。
ただ、赤い光が空を染めていく様子をぼんやりと眺めていた。
世界は平和だった。
完璧に絶対的に恒久的に。
誰も争わない。誰も憎まない。誰も奪わない。誰も泣かない。誰も怒らない。
そして誰も笑わない。
誰も夢を見ない。
誰も明日を待ち望まない。
ただ今日があり、明日があり、明後日がある。そんな同じような日々が穏やかに続いていく。
それが良いのか悪いのか──判断できる者はもういない。
判断するという行為自体が毒だったからだ。
善悪を判断すること。価値を判断すること。意味を判断すること。
それらはすべて、人間の心に巣食う毒だった。
そして今、その毒は消えた。
世界から完全に。
どこかで風が吹いていた。
草原を渡り、森を抜け、街を通り過ぎていく風。
その風に乗って、かすかに歌声が聞こえてくる。
藤原あかりと王暁月の歌声だ。
二人はまだ歌っている。観客がいなくても、理由がなくても、ただただ歌っている。その歌に意味があるのかどうか、誰にもわからない。本人たちにすらわからない。
しかし歌は続いていく。
他のアイドルたちも日々歌い続けるだろう。
だが、この世界のどこからも歌が聴こえなくなったその時──世界は滅ぶのだろう、平和裏に。
(了)




