神々の無限闘争としての地獄
先日、久しぶりに図書館に行った。そこで現代の日本の小説をぱらぱらと読み、改めてそのほとんどに自分が興味がない事がわかった。
自分が手に取った本の中には村上春樹の新作「街とその不確かな壁」があった。もし、村上春樹が老年になって急に作家として覚醒して、私が論じた村上春樹ではない存在になっていたとしたら、謝罪の一つくらいはしないといけないだろう、とそんな事を考えながら本を手に取ったのだが、めくった感じ、以前の村上春樹から変わっていないようだった。
「街とその不確かな壁」には珍しく「あとがき」がついていて、(本文を読むよりこっちを読む方が早いだろう)と考え、あとがきだけは少し丁寧に読んだ。村上春樹は自分の中にある大切なものをこの小説で書く事ができた、と語っていたが、私は(その「自分」というやつが問題なんだよな)と思い、本を閉じた。
私が現代の日本の小説のほとんどに興味を持てなかったのは何故なのか。後になって、考えてみた。ただ、この場合、その反対に私が興味を持つ事ができた少数の作家の作品を中心に語った方がわかりやすいだろうと思うので、そちらについて言及したい。
私は、自分がほとんどの小説に興味を持てない一方で、興味を持つ事ができた作家を思い浮かべてみた。それは「伊藤計劃」「ミシェル・ウエルベック」「ジム・トンプスン」の三人だった。他にも名前をあげられるが、とりあえずこの三人で考えてみたい。
伊藤計劃、ミシェル・ウエルベック、ジム・トンプスンの三人はあまり共通点はない。伊藤計劃は日本のSF作家であり、ウエルベックはフランスの純文学作家だ。ただ、ウエルベックはSF的な小説も書くので、その点は若干伊藤計劃と共通点がある。
最後のジム・トンプスンに至っては、知らない人が多いだろうが、昔のB級ノワール小説を量産した人で、生前は人気がなかったが死後に評価された。ジム・トンプスンの小説は主人公が頭のおかしい悪党である事が多い。またそれを一人称で書くので、読んでいて嫌な感じがする。今読んでも人気は出なかった事に納得、という印象だ。
さて、今、私は三人の作家に共通点があまりない事を指摘したが、実際には、私はこの三人を思い浮かべて、共通点があるな、と考えた。その共通点とは「一人称の崩壊を描いている」という事だ。
伊藤計劃の場合はテクノロジーの進歩によって、人間というものの定義があやふやになっていく中で、どこまでが人間の意識・生でありどこからが死であるかわからない、そのような世界を描いている。
ただ、この場合、文学的に考えるなら、伊藤の小説の中心には若い頃から病魔に取り憑かれた伊藤計劃という一人の人間との死との闘いがあると考える事ができるだろう。彼が、主体の消滅という問題に取り組んだのは、彼の病との闘いがあった為と考える。
ウエルベックに関しては、表面的には現代的だが、中身としては古典的教養を持った優れた純文学作家だと思う。「プラットフォーム」なんかが特に優れていると思うが、ウエルベックもまた一人称の崩壊、主体の消滅という問題について考えている。ウエルベックは現代社会の中で何の理想も持つ事ができず、性愛に希望を託すが、それも果たされずに死に直行していく個人を描いている。
ジム・トンプスンにおいては、主人公が悪党であり、また気が触れている事が多く、それ故に一人称が強烈に歪んでしまい、現実から乖離していく点をしつこく描いている。私はジム・トンプスンはそれほど調べていないのでその思想はよくわかっていないが、彼の中で強烈な批判や揶揄の精神があったのは確かだろう。彼がしつこく一人称で書きながら同時にその一人称の主体を突き放して描くというのは、普通の精神でできる事ではない。
さて、今三人の作家に関して簡単に書いてみたが、これらの作家が興味深いのはこのように「一人称の崩壊」をそれぞれに描いているからだ。
そしてこの「一人称の崩壊」とはデカルト以来の「私=自我」の批判に他ならない。一方で、現代社会では様々な多様な価値観が入り乱れているように思われるが、実際にはそれぞれの「私=自我」がそれぞれによって肯定されているだけに過ぎない。
話を最初に戻すと、私がほとんどの日本の小説に興味を持てなかったのは、それが「自分の肯定」という方向に動いているのではないか、と思われる。しかしこの方向に動くのが悪いのか、駄目なのか、それは私はもう結論しない。ただ私という一個の読者が興味を持てないという事でしかない。
上記の村上春樹のあとがきも同じであり、いかに村上が「自分の中の大切なもの」を外に出せたとしても、それはあくまでも村上春樹本人の自我という小さな殻の中にあるものである。
もちろん、どのような偉大な作家も、自分の中にあるものしか描けない。しかし、偉大な作家というのは、自我を外側の理想と連結させて、自我の内容を大きくしていくものだ。これは、偉大な作家が自己批判を繰り返しつつ、自我を成長させていく過程として考えられるだろう。
この場合、例えば岡潔などが言っているように、小我に対する大我のようなものが想定されていなければならない。結局、私が最近の小説に興味を持てない、と言っているのは、岡潔が、小我にこだわったものばかりが氾濫していて大我がわからない者が多い、と嘆くのと同じような事だろう。
しかし大我とは何か。理想とは何か。作家が、自分から出てより大きなところに出ていくにはどうすればいいのか。それはどのような方途もさっぱり見えていない状態である。
私は図書館でいくらか小説をぱらぱらとめくり、現代の思想とは二種類しかないのではないか、と考えた。それは「自己愛」と「ニヒリズム」である。
神という理想が死に、人という主体が絶対的な価値あるものとされた。人が人を肯定する。ここで話は終わり、歴史は終わるかと思ったが、実際には終わりはしなかった。
人はそれぞれに自分を主張する。それぞれの自己が、自分の価値観に近しいものを偶像化し押し立てて、それぞれの承認を勝ち取る争いをする。この過程では、「いかなる自己肯定が正しいのか?」という問い、というより、そのような形での無限闘争があったとしても、「自己肯定そのものが間違っている」という結論は現れない。
存在するのは自己肯定一択である。なぜなら人間が神であり、そうなると、人間同士の争いは神々の争いという事になる。
現代の小説には多く幻想的な空間が用いられるが、それは主体の陶酔のための道具でして取り扱われる事が多い。村上春樹はその典型だろう。また、純文学は、思想を持たない事が多い。もう思想なるものは必要ないからだ。思想は自己肯定一択しかない。そうなると、後は生活のディテールをなぞるのが文学という事になるだろう。大きな視野が存在せず、大きな思考も存在しないのであれば、ただ生活の細部をなぞる、あるいは言葉遊びに興じる。ここに文学らしきものが生じる事になる。
社会の大勢は自己肯定に寄っている。サブカルから純文学まで、連続的でありそこに大きな差異はない。どちらも似たようなものとして現れている。
自己肯定、自己陶酔は今や社会的なコンセンサスとなっている。孤独なアーティストが作品を発表するとそれが人々に受け入れられた。彼は今や一人ではない。大勢とのつながりがある。ここに孤立した魂が人々に受け入れられ、「社会性」や「他者性」を手に入れたかのような見かけが形成されるが、実際には社会集団そのものが自己陶酔を求めていただけだ。
アーティストは人々と連帯して「自分達」を肯定する。これによって、孤独な人間が行う狭い自己肯定を脱したかのような見かけができるがそれは嘘であり、実際には、自己肯定が「自分達肯定」にすり替わったに過ぎない。
それではもう一つの思想の「ニヒリズム」はどうだろうか。これは、自己肯定という思想に、過去の芸術や哲学に比べた際に矮小さを感じて、それを批判しつつも、かといって自分一人で全く新しい世界・理想を現出できない魂が辛うじて自己を保つ為に位置する場所なき場所、とでも言おうか、そのようなものとしてしか言う事はできない。
伊藤計劃、ウエルベック、ジム・トンプスンらの小説は全く新しい世界を提供しているわけではない。それは既存の価値観や、主体を肯定する事が当たり前の世界に対する違和感の表明や疑問符でしかない。
普通、想像力とは自由で無限だなどと適当な事が言われるがそれは嘘だ。どのような天才も時代や歴史を一人で生み出す事はできない。そして本当に想像力が問題となるのは、それを行使する人間が自らの想像力の限界を感じる時である。
想像力は無限で自由だ、などと人が言う時、その想像力は既に紐付けられ制限されている。また、人は想像力は自由だなどと言いながら、他人の想像力を地面に縛り付けようとする。何故かと言うと、大衆は自分達に都合の良い、自分達が心地よくなる作品をクリエイターには作って欲しいからであり、実際にクリエイターが想像力を羽ばたかせて、現実の臨界点を越えようとする、人々は彼を無視するか非難する。
その反対に、クリエイターが既存の価値観をなぞりながらもそこに少しだけ新奇の味わいを入れ込むと、人々はこの人物を絶賛し、神の如く扱う。人々は自分達の世界から出たくはないが、かといって過去の繰り返しでも飽きるので、過去の繰り返しに少しだけ新味を加えたものを好む。
※
長々と書いてきたが、私自身さほど進歩したわけではないので、過去に書いた文章と結論そのものは変わっていない。
ただ、もう少し、自己肯定の哲学について考えてみると、これはそもそもカントからヘーゲルへの移り変わりとして考えられる。
カントの場合には、まだ超越的な存在、要するに神という枠組みが残っていたのだが、ヘーゲルにおいてはそういうものは消えている。
ユダヤ・キリスト教の思考の枠組みというのは、神の国を彼岸に想定するというものだった。随分長い間、理想の空間は現実の反対の彼岸に置かれていた。
これが一変するのが近代である。ヘーゲルは、これからは理性によって世界を作り上げる時代がやってきたとはっきり言っている。という事は、人間は神になったという事だ。
神の国は現実の国と重ね合わされる。世界は作り変える事が可能だ。神の国という理想は、世俗的な現実と重なった。このようにして、我々は世俗的な社会そのものを神格化する事になった。
その象徴がイーロン・マスクのような人物であり、世俗的な成功そのものが神の如き神聖なものだという宗教、そうした現実を崇めるのが現代の宗教と言ってよいだろう。
そして人々は、この宗教を奉じつつ、なんとか自分を世俗的であると同時に神的なものたらしめようと努力している。この過程でメディアが大きな力を持つのは言うまでもない。
このような世界において、自己という主体がそれぞれに押し合いへし合いしながら、自らを神格化し、互いに相手に自己を承認しようと闘っている。そして人々はこれを「多様性」と呼んでいる。
このような世界において主体の崩壊を描く、少なくとも描こうとすることはどのような意味を持つだろうか。それは、このような世界に対する嫌気と新しい世界への待望を意味する、という曖昧な答えしか言う事はできないだろう。
この場合、世俗的なものがそのまま神格化された、そのような世界の有様に対する反抗と言う事になる。これに対する一つの抵抗としては、世俗的なものが身に纏った神性を剥奪する事になるだろう。
しかし剥奪された神性もまた、どこかに自己の所在を持とうとするならば、それはどこに置かれるだろうか。人々は無限にループする世界や、こことは違う都合の良い異世界を夢想し続ける。その神性が剥奪された時、この神性はどこへ行くのか。
それはおそらく、また過去のように彼岸に押し戻される事になるだろう。理屈で言うならば、ヘーゲルの時代においては神の国を理性によって現実化できると信じたのだが、それが現実化された事によって、むしろ現実は地獄となった、とでも言うべきだ。
その地獄とは、人々が互いに神としての自己を承認してもらおうとする無限の闘争世界に他ならない。このような世界そのものが地獄である事を認識するには、この闘争の階段から一歩降りなければならないだろう。この闘争の渦中にいる事は、自分もいずれは神になれるという希望を持つ事にほかならないのだから。
この無限の闘争という地獄が、単なる地獄でしかないと明確に認識する事が何よりも「はじまり」として大切なのではないか。私の勝手な考えだが、この文章で名前をあげた三人の作家はそのような「終わりが終わりである事によってはじまりとなる」という地点に位置しているような気がしないでもない。
理屈で言うならば、ヘーゲルの時代においては神の国を理性によって現実化できると信じたのだが、それが現実化された事によって、むしろ現実は地獄となった。
その地獄とは、人々が互いに神としての自己を承認してもらおうとする無限の闘争世界に他ならない。このような世界そのものが地獄である事を認識するには、この闘争の階段から一歩降りなければならないだろう。この闘争の渦中にいる事は、自分もいずれは神になれるという希望を持つ事にほかならないのだから。
この無限の闘争という地獄が、単なる地獄でしかないと明確に認識する事が何よりも「はじまり」として大切なのではないか。私の勝手な考えだが、この文章で名前をあげた三人の作家はそのような「終わりが終わりである事によってはじまりとなる」という地点に位置しているように思う。




