第23話「閉ざされた理論」
朝の光が、研究室に差し込んでいた。
リクはセリナの研究室に座っていた。
机の上には、紙と本が積み重なっている。
転移理論、虚界干渉、想像具現。
全て、帰還に関わる資料。
(セリナ)
「コーヒー、飲む?」
(リク)
「あ、はい」
セリナはカップを二つ用意した。
黒いコーヒーが注がれる。
湯気が立ち昇る。
(セリナ)
「それで、転移理論について聞きたいって?」
(リク)
「はい。俺、元の世界に帰りたいんです」
セリナは少し表情を曇らせた。
(セリナ)
「……そうね。あなたは転生者だから」
(リク)
「はい」
(セリナ)
「でも、リク。転移と転生は違うわ」
セリナは本を開いた。
古い理術学の書物。
(セリナ)
「転生は魂の移動。転移は肉体ごとの移動」
(リク)
「……違うんですか」
(セリナ)
「ええ。あなたの魂はこの世界に転生した。でも肉体は、この世界で新しく構成されたもの」
リクは自分の手を見た。
確かに、これは日本にいた時の体じゃない。
(セリナ)
「つまり、元の世界に帰るには、魂だけを転移させるか……」
セリナは資料をめくる。
(セリナ)
「肉体ごと、世界の境界を越える必要がある」
(リク)
「どっちが可能ですか?」
セリナは黙った。
コーヒーを一口飲む。
(セリナ)
「……どちらも、理論上は不可能よ」
リクは息を呑んだ。
(リク)
「不可能って……」
(セリナ)
「魂だけの転移は、虚界を経由する必要がある。でも虚界は記憶の海。そこに入ったら、魂は溶けて記憶になる」
(リク)
「溶ける……って」
(セリナ)
「虚界には自我を保つ構造がない。意識は拡散し、記憶は断片化し、最後には世界の一部になる」
(リク)
「じゃあ、肉体ごとは?」
(セリナ)
「世界の境界を越えるには、莫大なエネルギーが必要。それこそ、国一つ分の魔力でも足りない」
セリナは別の資料を開いた。
(セリナ)
「過去に七王家が試したことがある。結果は失敗。術者は消滅し、空間に亀裂が残った」
(リク)
「亀裂……」
(セリナ)
「今も北界の奥地に残ってる。誰も近づけない、歪んだ空間」
リクは俯いた。
胸が重い。
やっぱり、無理なのか。
帰れないのか。
(セリナ)
「でも」
セリナは資料を一枚取り出した。
古い羊皮紙に書かれた構文。
(セリナ)
「あなたには、可能性がある」
(リク)
「可能性?」
(セリナ)
「想像具現。それは、理論を超える力」
セリナはリクを見た。
その瞳は、真剣だった。
(セリナ)
「あなたの力は、存在定義そのものを書き換える。ならば、世界の境界すら書き換えられるかもしれない」
(リク)
「でも、どうやって……」
(セリナ)
「それを、これから研究するの」
セリナは微笑んだ。
(セリナ)
「私も協力する。あなたを、必ず帰す」
リクは胸が熱くなった。
(リク)
「……ありがとうございます」
(セリナ)
「礼はいらないわ。これは、私の贖罪でもあるから」
(リク)
「贖罪?」
セリナは目を伏せた。
(セリナ)
「五年前、私は仲間を止められなかった」
(リク)
「……ノヴァのことですか」
セリナは頷いた。
(セリナ)
「彼も、帰りたかったのかもしれない」
(リク)
「帰る? どこに?」
(セリナ)
「分からない。でも、彼はいつも言ってた。『ここじゃない場所』に行きたいって」
リクは息を止めた。
ノヴァ。
彼も、孤独だったんだ。
居場所を探していた。
(セリナ)
「だから、あなたは帰してあげたい。ちゃんと、元の場所に」
(リク)
「……はい」
セリナは資料を広げた。
(セリナ)
「じゃあ、始めましょう。まずは、あなたの想像具現の構造を分析する」
(リク)
「分析?」
(セリナ)
「ええ。どういう原理で発動しているのか、どんな制約があるのか」
セリナは装置を起動した。
虚界共鳴装置。
以前も使った、あの機械。
(セリナ)
「手を、ここに」
リクは装置に手を置いた。
光が走る。
数値が表示される。
(セリナ)
「……やっぱり」
(リク)
「何かあるんですか?」
(セリナ)
「あなたの波動値、以前より上がってる」
画面には、数字が並んでいる。
56.3ルクス。
前回は43.7だった。
(セリナ)
「何があったの?」
(リク)
「え……」
リクは言葉に詰まった。
ノヴァのことは言えない。
約束したから。
(リク)
「特に、何も……」
(セリナ)
「嘘ね」
セリナはリクを見た。
その瞳は、鋭い。
(セリナ)
「あなた、何か隠してる」
(リク)
「隠してないです」
(セリナ)
「じゃあ、なんで波動値が上がってるの?」
リクは黙った。
答えられない。
セリナは溜息をついた。
(セリナ)
「……まあ、いいわ。無理に聞かない」
(リク)
「すみません」
(セリナ)
「でも、危険なことはしないで。約束して」
(リク)
「……はい」
セリナは装置を操作した。
別の数値が表示される。
(セリナ)
「次は、構文解析。あなたの想像具現が、どういう式で成立してるか調べる」
光が強くなる。
リクの掌から、青い光が溢れる。
装置が、それを読み取る。
数式が、画面に流れていく。
(セリナ)
「……これは」
セリナは目を見開いた。
(セリナ)
「信仰項がある」
(リク)
「信仰項?」
(セリナ)
「通常の創造具現は、Logic × Emotion × Memory。でも、あなたのは違う」
セリナは画面を指さした。
(セリナ)
「Faith × Emotion × Memory。信仰が、理性の代わりに入ってる」
(リク)
「信仰……」
(セリナ)
「つまり、あなたの想像具現は、理層を経由してない」
セリナは資料をめくる。
(セリナ)
「理層を無視して、直接現実に干渉してる。だから、既存の存在も書き換えられる」
(リク)
「それって……」
(セリナ)
「危険よ」
セリナは真剣な顔をした。
(セリナ)
「理層は、世界の法則。それを無視するってことは、世界そのものを壊す可能性がある」
リクは息を呑んだ。
(リク)
「壊す……」
(セリナ)
「五年前、ノヴァがやったことと同じ」
セリナは目を伏せた。
(セリナ)
「彼も、理層を無視した。創造の前に破壊を、なんて言って……結果、学院を半壊させた」
(リク)
「……」
(セリナ)
「だから、リク。あなたは、慎重にならないと」
(リク)
「はい」
セリナは装置を止めた。
光が消える。
静寂が戻る。
(セリナ)
「でも、可能性もある」
(リク)
「可能性?」
(セリナ)
「理層を無視できるなら、世界の境界も無視できるかもしれない」
セリナは微笑んだ。
(セリナ)
「つまり、あなたなら帰れる。理論上は」
リクは胸が熱くなった。
(リク)
「本当ですか?」
(セリナ)
「ええ。でも、まだ研究が必要」
セリナは資料を閉じた。
(セリナ)
「今日はここまで。また明日、続きをしましょう」
(リク)
「はい」
リクは立ち上がった。
でも、その時——
空気が、震えた。
音はない。
でも確かに、世界が揺れた。
(リク)
「……?」
セリナは装置を見た。
画面が、点滅している。
数値が、乱れている。
(セリナ)
「何、これ……」
波動値が、急上昇している。
56.3から、一気に87.9へ。
(セリナ)
「リク、あなた今、何か具現してる?」
(リク)
「いえ、何も……」
でも、リクの掌から光が溢れていた。
青い光。
いや、違う。
紅が、混ざっている。
(リク)
「これ……」
蒼銀の光。
ノヴァとの共鳴。
クロスライト。
(セリナ)
「紅……?」
セリナは息を呑んだ。
その顔は、青ざめていた。
(セリナ)
「なんで、紅が……」
(リク)
「セリナさん?」
(セリナ)
「リク、あなた……ノヴァと、接触したの?」
リクは言葉に詰まった。
答えられない。
でも、嘘もつけない。
(セリナ)
「答えて」
セリナの声は、震えていた。
(セリナ)
「あなた、ノヴァと会ったの?」
(リク)
「それは……」
(セリナ)
「会ったのね」
セリナは俯いた。
(セリナ)
「そう……彼、まだいるんだ」
(リク)
「セリナさん……」
(セリナ)
「いいわ。もう、帰って」
(リク)
「でも……」
(セリナ)
「帰って」
セリナは背を向けた。
その肩が、小さく震えている。
リクは、何も言えなかった。
ただ、部屋を出た。
扉が閉まる。
静寂。
リクは廊下に立っていた。
胸が痛い。
セリナを傷つけた。
ノヴァのことを隠して、嘘をついて。
(リク)
「……ごめんなさい」
誰もいない廊下で、リクは呟いた。
でも、答えは返ってこない。
ただ、光だけが残る。
掌の、蒼銀の光痕。
それは、ノヴァとの絆の証。
でも同時に、セリナを傷つけた証でもある。
リクは拳を握った。
これでよかったのか。
ノヴァとの約束を守るために、セリナを傷つけて。
答えは出ない。
ただ、胸が痛いだけ。
リクは寮へ向かった。
足音だけが、廊下に響く。
研究室の中では、セリナが一人座っていた。
画面には、まだ数値が表示されている。
87.9ルクス。
紅の波動が、混ざっている。
(セリナ)
「ノヴァ……」
セリナは画面を見つめた。
その瞳には、涙が滲んでいた。
(セリナ)
「あなた、まだ……生きてるの?」
答えは返ってこない。
ただ、数値が点滅するだけ。
紅の波動が、画面を照らす。
それは、確かにノヴァのもの。
五年前と、同じ波動。
(セリナ)
「どうして……どうして、私の前には現れないの?」
セリナは机に伏せた。
涙が、紙に染みる。
(セリナ)
「私、待ってたのに……ずっと、待ってたのに……」
研究室は、静かだった。
ただ、装置の音だけが響いている。
そして、紅の光だけが、セリナを照らしていた。
リクは寮の部屋に戻っていた。
窓の外を見る。
学院の街が、夕日に染まっている。
(リク)
「……これでよかったのか」
自問する。
答えは出ない。
ただ、胸が痛いだけ。
掌を見る。
蒼銀の光痕が、まだ残っている。
ノヴァとの絆。
でも、その絆が、セリナを傷つけた。
(リク)
「ノヴァ……」
呟いた瞬間、窓の外に紅い光が走った。
ノヴァだ。
彼も、感じているんだ。
セリナの涙を。
でも、まだ会えない。
会う資格がない。
そう、ノヴァは言っていた。
(リク)
「……いつか、会えるといいな」
リクは窓を閉めた。
夕日が沈んでいく。
夜が来る。
新しい一日が終わる。
でも、心は晴れない。
ただ、重いだけ。
リクはベッドに横になった。
天井を見つめる。
(リク)
「帰りたい……」
呟く。
でも、帰るためには、まだやることがある。
研究を続けて、理論を見つけて、道を探して。
そして、セリナとノヴァを、繋ぎ直す。
それが、リクの役目かもしれない。
(リク)
「……頑張らないと」
リクは目を閉じた。
眠りに落ちる。
夢の中で、踏切が見えた。
遮断機が降りて、音が鳴る。
でも今は、怖くない。
ノヴァがいる。
セリナがいる。
一人じゃない。
だから、帰れる。
きっと。
夜が、静かに更けていく。
学院は眠りについた。
でも、三つの心は眠れない。
リクの心。
ノヴァの心。
セリナの心。
それぞれが、それぞれを想っている。
でも、まだ繋がらない。
まだ、時が必要。
月が昇る。
その光が、学院を照らす。
そして、静かに見守っている。
三人の、未来を。
(了)




