第20話「風穴」
夜が深い。
月が、雲に隠れている。
リクは中庭に立っていた。
一人で、静かに。
胸の中に、何かが引っかかっている。
ノヴァのこと。
紅の具現のこと。
そして——
明日、何が起こるのか。
風が吹いた。
冷たく、強い。
木々が激しく揺れる。
葉が音を立てる。
リクは顔を上げた。
風が——
おかしい。
ただの風じゃない。
方向が定まっていない。
渦を巻いている。
中庭の中央で、風が旋回している。
リクは近づいた。
慎重に、一歩ずつ。
風が強くなる。
髪が乱れ、服が揺れる。
目を細めながら、風の中心へ。
そこに——
何かがある。
空気の歪み。
透明な、だが確かにそこにある何か。
リクは手を伸ばした。
風の中心へ。
指先が——
触れた。
瞬間。
視界が歪んだ。
世界が揺れる。
地面が消え、空が落ちる。
リクの体が、宙に浮く。
(リク)
「……っ!」
声が出ない。
呼吸ができない。
ただ、落ちていく感覚。
だが——
下がない。
上もない。
ただ、暗闇だけが広がっている。
これは——
虚界。
リクは、そう理解した。
風の中心は、虚界への穴だった。
そして——
リクは、そこに落ちた。
暗闇の中で、リクは浮いていた。
重力がない。
音もない。
ただ、静寂だけ。
(リク)
「……どこだ、ここ……」
声が、虚空に消える。
反響しない。
まるで、何もない場所。
だが——
何かが、いる。
リクは、それを感じた。
視線。
誰かが、見ている。
(リク)
「誰だ……!」
叫ぶ。
だが、返事はない。
ただ、視線だけが残る。
そして——
光が見えた。
遠くに。
紅い光。
それが、ゆっくりと近づいてくる。
リクは息を呑んだ。
光が、人の形を成している。
黒髪。
痩身。
そして——
紅い光を纏った。
(リク)
「……ノヴァ?」
光が止まった。
リクの前で、浮かんでいる。
顔は見えない。
シルエットだけ。
だが、確かにそこにいる。
光が——
動いた。
手を伸ばしてくる。
リクに向かって。
リクも、手を伸ばした。
指先が——
触れようとする。
その瞬間。
光が弾けた。
爆発的に広がり、リクを包み込む。
熱い。
焼けるように熱い。
だが、痛くない。
むしろ——
温かい。
まるで、抱きしめられているような。
(???)
「……まだ、早い。」
声が聞こえた。
ノヴァの声。
低く、静かに。
(ノヴァ)
「お前は、まだここに来るべきじゃない。」
(リク)
「でも……!」
(ノヴァ)
「戻れ。現実に。」
光が、リクを押し戻す。
優しく、だが強く。
(リク)
「待ってくれ……! 話が……!」
(ノヴァ)
「明日。屋上で。そこで、すべて話す。」
光が、さらに強くなる。
リクの体が、浮き上がる。
暗闇から、押し出される。
(リク)
「ノヴァ……!」
叫んだ瞬間——
視界が、白く染まった。
リクは地面に倒れていた。
中庭の、石畳の上。
月が、雲の切れ間から顔を出している。
風は——
止んでいた。
リクは体を起こした。
息が荒い。
心臓が、早鐘を打っている。
掌を見る。
紅い光の痕が、残っている。
まだ、熱を持っている。
(リク)
「……虚界に、落ちた……」
呟く。
信じられない。
だが、確かに起きた。
風の中心が、虚界への穴だった。
そして——
ノヴァが、そこにいた。
(セリナ)
「大丈夫?」
声がした。
リクは振り返る。
セリナが、中庭の入口に立っていた。
ショールを羽織り、心配そうな表情。
(リク)
「セリナさん……」
(セリナ)
「風の異常流を感知したわ。まさか、あなたが……」
彼女が駆け寄ってくる。
リクの体を調べる。
(セリナ)
「怪我は? 虚界に触れた?」
(リク)
「……はい。落ちました。」
セリナの表情が、険しくなった。
(セリナ)
「落ちた……? どれくらい?」
(リク)
「わかりません。でも、ノヴァが……」
(セリナ)
「彼が?」
(リク)
「俺を、押し戻してくれました。『まだ早い』って。」
セリナは息を吐いた。
安堵したような、だが複雑な表情。
(セリナ)
「……そう。彼が、守ってくれたのね。」
彼女はリクの手を取った。
紅い光の痕を見る。
(セリナ)
「これ……彼の波長ね。」
(リク)
「はい。触れたんです。ノヴァに。」
セリナは少し黙った。
そして——
リクを抱きしめた。
突然のことに、リクは驚く。
だが、抵抗しない。
セリナの腕が、震えている。
(セリナ)
「……怖かった。」
その声が、小さい。
(セリナ)
「あなたも、消えるかと思った。」
リクは、セリナの背中に手を回した。
(リク)
「大丈夫です。俺、ここにいます。」
セリナは、ゆっくりと離れた。
涙を拭う。
(セリナ)
「ごめんなさい。取り乱したわ。」
(リク)
「いえ……」
セリナは深呼吸した。
そして、空を見上げた。
月が、明るく輝いている。
(セリナ)
「学院は、彼を忘れていないの。」
(リク)
「……え?」
(セリナ)
「風が覚えている。空気が覚えている。そして——」
彼女は中庭を見渡した。
(セリナ)
「この場所が、覚えている。」
リクは周囲を見た。
中庭。
噴水。
木々。
ベンチ。
すべてが、静かに佇んでいる。
だが——
確かに、何かがある。
記憶のようなもの。
感情のようなもの。
(セリナ)
「ノヴァは、よくここにいたわ。一人で、本を読んだり、空を見たり。」
(リク)
「……」
(セリナ)
「彼は孤独だった。だけど——」
セリナは微笑んだ。
寂しげな、だが温かい笑み。
(セリナ)
「この場所を、愛していた。」
その言葉に、リクの胸が熱くなった。
ノヴァ。
彼は、ここにいた。
この中庭で。
この空の下で。
そして——
今も、ここにいる。
風として。
記憶として。
(リク)
「セリナさん……明日、俺、ノヴァに会います。」
(セリナ)
「……知ってる。」
(リク)
「止めないんですか?」
セリナは首を振った。
(セリナ)
「止められない。あなたは、もう決めている。」
(リク)
「……はい。」
セリナはリクの頭に手を置いた。
(セリナ)
「なら、一つだけ約束して。」
(リク)
「何ですか?」
(セリナ)
「帰ってくること。必ず、ここに。」
リクは頷いた。
(リク)
「約束します。」
セリナは微笑んだ。
今度は、本当の笑顔。
(セリナ)
「ありがとう。じゃあ、今日はもう休みなさい。明日に備えて。」
(リク)
「はい。」
リクは中庭を出ようとした——
その時。
夜空に、何かが走った。
紅い光。
一筋の、流星のような。
リクとセリナは、同時に空を見上げた。
光が、空を横切る。
美しく、儚く。
そして——
消えた。
だが、その痕跡が残っている。
空に、紅い線が浮かんでいる。
まるで、何かを書いたように。
(セリナ)
「……彼の具現が、まだ息づいている。」
(リク)
「あれ……ノヴァの……」
(セリナ)
「そう。彼の力は、まだこの世界に残っている。完全には、消えていない。」
リクは拳を握った。
ノヴァは——
生きている。
虚界と現実の境界に。
だが、確かに存在している。
紅い線が、ゆっくりと消えていく。
空が、また暗くなる。
月だけが、静かに輝いている。
(セリナ)
「行きなさい。休んで。」
(リク)
「……はい。」
リクは寮へ向かった。
振り返ると——
セリナは、まだ中庭に立っていた。
空を見上げて。
まるで、祈るように。
リクは部屋に戻った。
ベッドに座り、窓を開ける。
夜風が入ってくる。
冷たく、静かに。
だが——
その中に、温かさが混ざっている気がした。
ノヴァの気配。
彼の想い。
リクは掌を見た。
紅い光の痕が、まだ残っている。
だが、もう熱くない。
ただ、温かい。
まるで、手を繋いでいるような。
(リク)
「……明日。」
呟く。
明日、会える。
ノヴァに。
そして——
すべてを聞ける。
彼の過去。
彼の想い。
そして——
彼が、今も戦っているもの。
リクは目を閉じた。
だが、眠れない。
胸が高鳴っている。
期待と、不安と。
時計の音だけが、部屋に響く。
リクは、また窓の外を見た。
星が、輝いている。
その中に——
紅い星が、一つだけあるような気がした。
だが、それも錯覚かもしれない。
リクは窓を閉めた。
ベッドに横になる。
天井を見上げる。
明日。
運命の日。
新しい力を得る日。
そして——
ノヴァと、真に出会う日。
リクは、ゆっくりと目を閉じた。
今度は、眠りに落ちた。
浅く、だが穏やかに。
夢の中で——
中庭が見えた。
ノヴァが、ベンチに座っている。
本を読んでいる。
リクは、隣に座った。
(リク)
「何読んでるんですか?」
ノヴァは本を閉じた。
表紙を見せる。
『虚界の理論』
(ノヴァ)
「難しい本だ。でも、面白い。」
(リク)
「どんな内容ですか?」
(ノヴァ)
「想像と現実の境界について。そこに何があるか。そこで何ができるか。」
彼は空を見上げた。
(ノヴァ)
「俺は、そこに落ちた。だが——」
彼は微笑んだ。
(ノヴァ)
「後悔はしていない。」
(リク)
「……なんでですか?」
(ノヴァ)
「自由だから。ルールに縛られない。限界に縛られない。」
(リク)
「でも……孤独じゃないですか?」
ノヴァは、リクを見た。
(ノヴァ)
「孤独だ。だが——」
彼はリクの肩を叩いた。
(ノヴァ)
「お前がいる。だから、もう孤独じゃない。」
リクは、胸が熱くなった。
(リク)
「俺……あなたを救いたいです。」
ノヴァは首を振った。
(ノヴァ)
「俺は、もう救えない。だが——」
彼は立ち上がった。
(ノヴァ)
「お前は救える。だから、教える。」
(リク)
「教える……?」
(ノヴァ)
「生き延びる方法を。強くなる方法を。そして——」
彼は空を見上げた。
(ノヴァ)
「帰る方法を。」
その言葉に、リクは立ち上がった。
(リク)
「帰る方法……本当に、あるんですか?」
ノヴァは頷いた。
(ノヴァ)
「ある。俺は見つけた。だが——」
彼は寂しげに微笑んだ。
(ノヴァ)
「使えなかった。暴走して、落ちたから。」
(リク)
「じゃあ……」
(ノヴァ)
「お前が、使え。俺の代わりに。そして——」
彼はリクの肩を掴んだ。
(ノヴァ)
「帰れ。お前の世界へ。」
夢が、揺らいだ。
中庭が消え、ノヴァも消える。
リクは、手を伸ばした。
だが、届かない。
(リク)
「待ってくれ……!」
声が、虚空に消える。
そして——
目が覚めた。
朝だった。
窓から朝日が差し込んでいる。
リクは起き上がった。
汗をかいている。
心臓が、早鐘を打っている。
夢——
だが、ただの夢じゃない。
ノヴァの言葉。
帰る方法がある。
それは——
本当なのか。
リクは窓を開けた。
新鮮な空気を吸う。
今日は——
その答えを聞ける日。
リクは準備を始めた。
服を着替え、顔を洗う。
鏡を見る。
自分の顔。
だが、どこか違う。
目に、光がある。
決意の光。
リクは部屋を出た。
廊下を歩く。
朝の光が、床を照らしている。
学生たちが、挨拶を交わしている。
だが、リクは答えない。
ただ、前を向いて歩く。
屋上への階段を上る。
一段、また一段。
心臓が高鳴る。
扉が見えた。
リクは、深呼吸した。
そして——
扉を開けた。
風が、顔を撫でる。
空が、広い。
そして——
中央に、ノヴァが立っていた。
紅い光を纏って。
彼が振り返る。
その顔が、はっきりと見えた。
若く、鋭く、だが優しい。
(ノヴァ)
「来たな。」
(リク)
「はい。」
リクは、ノヴァの前に立った。
二人は、向かい合った。
風が吹く。
空が、少しだけ赤く染まった。
だが、すぐに青に戻る。
(ノヴァ)
「始めよう。お前の、新しい力を。」
リクは頷いた。
拳を握る。
そして——
新しい章が、始まった。
学院編の終わり。
そして——
創造編の、始まり。
(了)




