第19話「封印の講義」
大講義室は、静かだった。
百人以上の学生が座っている。
だが、誰も話さない。
ただ、前を見つめている。
演壇に立つ、セリナを。
リクは中央の席に座っていた。
周囲の学生たちの緊張が、伝わってくる。
特別講義。
年に一度だけ開かれる、学院長の講義。
テーマは——
「具現の倫理」。
リクはノートを開いた。
ペンを握る。
手が、少し震えている。
緊張しているのか。
それとも——
セリナが、何を話すのか。
それが怖いのか。
(セリナ)
「皆さん、おはようございます。」
彼女の声が、講義室に響いた。
静かで、だが力強い。
学生たちが、背筋を伸ばす。
セリナは演壇の上で、ゆっくりと視線を巡らせた。
一人一人を見るように。
そして——
リクで、止まった。
一瞬だけ。
だが、確かに視線が合った。
セリナは、また視線を動かす。
(セリナ)
「今日のテーマは、具現の倫理。つまり——」
彼女は掌を上げた。
そこに、青白い光が浮かぶ。
小さな球体。
それが、ゆっくりと回転している。
(セリナ)
「創ることの、責任。」
球体が、形を変える。
立方体になり、円錐になり、また球体に戻る。
学生たちが、息を呑む。
美しい。
だが——
どこか、恐ろしい。
セリナは球体を消した。
(セリナ)
「具現とは、想像を現実化する力。誰もが夢見る、魔法のような力。」
彼女は教室を見渡した。
(セリナ)
「だが、それは同時に——破壊の力でもある。」
その言葉に、教室の空気が変わった。
重くなる。
緊張が、増す。
セリナは演壇から降りた。
教室の中央通路を、ゆっくりと歩く。
(セリナ)
「創ることは、壊すこと。何かを生み出すには、何かを犠牲にしなければならない。」
彼女は立ち止まった。
リクの席の前。
(セリナ)
「エネルギーを使う。集中力を使う。そして——」
彼女はリクを見た。
(セリナ)
「時には、自分自身を削る。」
リクは息を呑んだ。
セリナの瞳が、深い。
まるで、リクの心を見透かしているような。
セリナは歩き続けた。
教室の奥へ。
最後列へ。
そこには——
空席があった。
一つだけ。
窓際の、最後列。
セリナは、その席の前で立ち止まった。
(セリナ)
「だからこそ、人は秩序に守られる。ルールに従い、倫理を守る。それが——」
彼女は空席を見た。
長い沈黙。
学生たちが、ざわめく。
小声で、囁き合う。
(学生A)
「……あの席……」
(学生B)
「五年前の……」
(学生C)
「紅い、やつ……」
リクは振り返った。
最後列の、空席。
そこに——
誰もいない。
だが、何かがある。
気配のようなもの。
記憶のようなもの。
セリナは、また歩き出した。
演壇へ戻る。
(セリナ)
「五年前、この学院で事件が起きました。」
教室が、静まり返った。
誰も動かない。
誰も呼吸しない。
ただ、セリナの言葉を待つ。
(セリナ)
「一人の学生が、具現を暴走させた。研究棟は半壊。周囲の結界は崩壊。多くの学生が、怪我をした。」
彼女は演壇の上で、手を組んだ。
(セリナ)
「原因は——倫理の欠如。彼は、ルールを破った。限界を無視した。そして——」
セリナの声が、震えた。
ほんの少しだけ。
だが、リクには聞こえた。
(セリナ)
「自分自身を、破壊した。」
沈黙。
長い、重い沈黙。
誰も、何も言えない。
ただ、その言葉の重さに押しつぶされそうになる。
(セリナ)
「彼の名前は、記録から削除されました。彼の存在は、学院から消されました。」
セリナは、また最後列の空席を見た。
(セリナ)
「だが、記憶は消えない。恐怖は残る。そして——」
彼女は教室を見渡した。
(セリナ)
「教訓として、私たちの中に生き続ける。」
リクは、空席を見た。
窓際の、最後列。
そこに——
誰かが座っている気がした。
黒髪の、少年。
紅い光を纏った。
だが、すぐに消える。
幻覚だったのか。
それとも——
(セリナ)
「皆さんに伝えたいのは、これです。」
セリナの声が、リクを現実に引き戻した。
(セリナ)
「具現は、強大な力。だが、その力には責任が伴う。自分の力を知り、限界を守る。それが——」
彼女は、静かに微笑んだ。
(セリナ)
「生き延びるための、唯一の方法です。」
講義室に、重い空気が流れる。
だが——
それは、恐怖だけではない。
理解。
共感。
そして——
決意。
学生たちが、頷いている。
セリナの言葉を、心に刻んでいる。
(セリナ)
「それでは、質問はありますか?」
しばらく、誰も手を上げなかった。
だが——
一人の学生が、手を上げた。
前列の、女子学生。
(セリナ)
「はい、どうぞ。」
(女子学生)
「あの……五年前の学生は、今どこに?」
教室が、また静まり返った。
その質問は——
誰もが思っていたこと。
だが、誰も聞けなかったこと。
セリナは少し黙った。
そして——
(セリナ)
「わかりません。消失、と記録されています。」
(女子学生)
「消失……死んだ、ということですか?」
(セリナ)
「……わかりません。」
その答えに、学生たちがざわめいた。
わからない。
つまり——
生きているかもしれない。
どこかに、いるかもしれない。
リクは拳を握った。
ノヴァ。
彼は、生きている。
虚界と現実の境界に。
だが、それを誰にも言えない。
セリナも、知っているはずだ。
だが、公には言えない。
なぜなら——
(セリナ)
「他に質問は?」
別の学生が手を上げた。
中列の、男子学生。
(男子学生)
「もし、また同じことが起きたら……学院はどうするんですか?」
セリナの表情が、険しくなった。
(セリナ)
「起こさせません。」
その声が、強い。
断固とした、意志。
(セリナ)
「私たちは、あの事件から学びました。監視体制を強化し、訓練方法を見直し、結界を強化しました。」
彼女は演壇を叩いた。
軽く、だが音が響く。
(セリナ)
「二度と、あのような悲劇は起こさせません。」
その言葉に、学生たちが頷いた。
安心したような、だが複雑な表情。
リクは——
胸が痛かった。
セリナは、必死だ。
二度と起こさせない、と。
だが、リクは——
ノヴァから、紅の具現を学ぼうとしている。
あの暴走と同じ力を。
それは——
セリナを裏切ることになるのか。
(セリナ)
「他に質問がなければ、これで講義を終わります。」
誰も手を上げない。
セリナは頷いた。
(セリナ)
「ありがとうございました。皆さん、どうか——」
彼女は、教室全体を見渡した。
(セリナ)
「自分を大切に。そして、仲間を大切に。」
学生たちが立ち上がった。
拍手が起こる。
静かな、だが心からの拍手。
セリナは、小さく頭を下げた。
そして、演壇を降りた。
学生たちが、教室を出ていく。
リクは、席に座ったままだった。
最後列の空席を、見つめている。
そこに——
まだ、気配が残っている気がした。
ノヴァの。
(???)
「リク。」
声がした。
リクは振り返る。
セリナが、隣に立っていた。
(リク)
「……セリナさん。」
(セリナ)
「講義、どうだった?」
(リク)
「……重かったです。」
セリナは微笑んだ。
寂しげな、笑み。
(セリナ)
「そう。でも、伝えなければならなかった。」
彼女は最後列の空席を見た。
(セリナ)
「あの席には、かつて紅い少年がいた。」
(リク)
「……ノヴァ。」
セリナは頷いた。
(セリナ)
「そう。彼は、いつもあそこに座っていた。窓の外を見ながら。」
(リク)
「何を見てたんですか?」
(セリナ)
「空。そして——」
彼女は窓の外を見た。
(セリナ)
「自由を。」
その言葉が、リクの胸に刺さった。
自由。
ノヴァは——
自由を求めていた。
ルールに縛られない。
限界に縛られない。
ただ、自分の力を、存分に使える場所を。
だが——
それが、彼を破壊した。
(セリナ)
「明日、あなたは彼に会うのね。」
(リク)
「……はい。」
(セリナ)
「気をつけて。彼の教えは、危険。だが——」
セリナはリクを見た。
(セリナ)
「あなたなら、大丈夫かもしれない。彼とは違うから。」
(リク)
「何が……違うんですか?」
(セリナ)
「あなたには、帰る場所がある。守りたいものがある。」
彼女はリクの肩に手を置いた。
(セリナ)
「それが、あなたを守る。暴走から、孤独から。」
リクは頷いた。
帰る場所。
元の世界。
家族。
友達。
それが——
リクの錨。
現実に繋ぎ止める、錨。
(リク)
「ありがとうございます。」
セリナは微笑んだ。
今度は、本当の笑顔。
(セリナ)
「行きなさい。今日は休んで。明日に備えて。」
リクは立ち上がった。
教室を出ようとする——
その時。
最後列の空席から、風が吹いた。
窓が開いていないのに。
風が、リクの頬を撫でる。
冷たく、だが優しい。
リクは振り返った。
空席を見る。
そこに——
一瞬だけ、人影が見えた。
黒髪の少年。
紅い光を纏った。
彼が、微笑んでいる。
寂しげな、だが温かい笑顔。
リクは、手を上げた。
別れの挨拶のように。
人影が、消えた。
風も、止んだ。
ただ、空席だけが残る。
リクは教室を出た。
廊下を歩く。
胸の中に——
何かが残っている。
ノヴァの記憶。
ノヴァの願い。
そして——
ノヴァの、孤独。
リクは拳を握った。
明日。
ノヴァに会う。
そして——
彼の力を学ぶ。
だが、同時に——
彼の孤独を、理解する。
彼の願いを、知る。
そうすることで——
リクは、ノヴァを救えるかもしれない。
窓の外で、鳥が鳴いた。
空が、青い。
雲が流れている。
平和な午後。
だが、リクの心は——
もう、明日にあった。
中庭に出た。
ベンチに座る。
風が吹く。
木々が揺れる。
その中に——
ノヴァの気配が混ざっている気がした。
見守っている。
導いている。
そして——
待っている。
リクが、明日来るのを。
リクは空を見上げた。
青い空。
だが、その向こうに——
紅い空が見える気がした。
あの暴走の時の。
あの破壊の時の。
だが、今度は怖くない。
むしろ——
挑戦に見えた。
乗り越えるべき、壁に見えた。
リクは立ち上がった。
寮へ戻る。
部屋に入り、ベッドに座る。
窓を開けた。
風が入ってくる。
冷たく、静かに。
リクは目を閉じた。
意識を、集中させる。
掌に、光が集まる。
いつもの青白い光。
だが——
その中に、紅い光が混ざっている。
微かに、だが確かに。
これが——
ノヴァとの繋がり。
虚界と現実の、橋渡し。
リクは光を消した。
そして、ベッドに横になった。
天井を見上げる。
明日。
新しい力を得る日。
新しい自分になる日。
そして——
ノヴァに、一歩近づく日。
リクは目を閉じた。
今日は、早く眠ろう。
明日のために。
夢の中で——
講義室が見えた。
最後列の空席。
そこに、ノヴァが座っている。
窓の外を見ている。
リクは、隣に座った。
二人で、空を見る。
何も話さない。
ただ、静かに。
風が吹く。
窓が揺れる。
そして——
ノヴァが、呟いた。
『明日、待ってる。』
リクは頷いた。
『うん。行くよ。』
ノヴァが、微笑んだ。
その笑顔は——
もう、寂しくなかった。
夢が、消えた。
リクは、深い眠りに落ちた。
静かに、穏やかに。
明日への、準備をしながら。
その夜、セリナも眠れなかった。
研究室で、一人。
窓の外を見ている。
星が、輝いている。
その中に——
紅い星が、一つだけあるような気がした。
セリナは、窓を開けた。
風が入ってくる。
冷たく、静かに。
(セリナ)
「……ノヴァ。」
呟いた。
風が、答えるように強くなった。
だが、声は聞こえない。
ただ、風だけが吹く。
セリナは目を閉じた。
(セリナ)
「リクを、頼むわ。導いて。守って。」
風が、また吹く。
木々が揺れる。
そして——
静かに、止んだ。
セリナは窓を閉めた。
椅子に座り込む。
疲れた。
だが、まだやることがある。
明日に備えて。
リクを見守るために。
セリナは立ち上がった。
机の上のノートを開く。
ノヴァのノート。
そこに書かれた、理論。
哲学。
そして——
警告。
すべてを、もう一度確認する。
リクが、無事に帰ってくるように。
時計が、深夜を告げた。
新しい日が、始まろうとしている。
運命の日が。
セリナは、祈った。
静かに、深く。
すべてが、うまくいくように。
(了)




