第18話「鏡の奥」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
朝の訓練場は、静かだった。
リクは一人、鏡の前に立っていた。
鏡——ではなく、鏡の”具現”。
セリナが用意してくれた、特殊な訓練道具。
(リク)
「鏡を具現する……」
呟きながら、掌を前に出す。
昨夜、ノヴァのノートを読んだ。
そこに、鏡具現の理論が書かれていた。
『鏡は、現実と虚界の境界。
そこに映るものは、真実であり、同時に幻想でもある。』
リクは目を閉じた。
意識を集中させる。
掌に、光が集まり始める。
だが、今度は剣ではない。
平面。
薄く、広く。
光が広がり、四角い形を成す。
そして——
硬化する。
透明な板。
それが、鏡になる。
リクは目を開けた。
掌の前に、光の鏡が浮かんでいる。
縦一メートル、横五十センチほど。
表面が滑らかで、反射している。
(リク)
「……できた。」
だが、鏡には何も映っていない。
リクの姿も、訓練場の風景も。
ただ、白く光っているだけ。
(リク)
「なんで……」
セリナの声が聞こえた。
(セリナ)
「まだ、完成していないのよ。」
リクは振り返る。
訓練場の入口に、セリナが立っていた。
手には、ノートを持っている。
(セリナ)
「鏡具現は、二段階ある。形を作るのが第一段階。映すのが第二段階。」
彼女が近づいてくる。
リクの鏡を見て、頷いた。
(セリナ)
「形は完璧。でも、映す機能がまだない。」
(リク)
「どうすれば……」
(セリナ)
「意識を、鏡の中に入れるの。自分の心を映し出す。」
リクは鏡を見た。
意識を、中に。
どういうことだろう。
自分の心を、鏡に映す。
それは——
自分自身と向き合うこと。
恐れていたものと、対峙すること。
リクは息を整えた。
セリナはノートを開いた。
(セリナ)
「ノヴァのノートに書いてあるわ。『鏡は心の写し鏡。己を映すには、己を見つめる勇気が必要』。」
(リク)
「己を見つめる……」
リクは再び鏡を見た。
白く光る表面。
そこに、意識を向ける。
深く、深く。
自分の心を見る。
恐怖。
不安。
そして——
帰りたいという、願い。
鏡が反応した。
表面が揺らぎ、光が変化する。
白から、青へ。
そして——
映像が浮かび上がった。
リクの顔。
だが、少し違う。
もっと幼い。
中学生だった頃の、自分。
(リク)
「……これ。」
息を呑む。
鏡の中の自分が、動いている。
学校の廊下を歩いている。
友達と話している。
笑っている。
あの日の、自分。
転生する前の、自分。
(リク)
「なんで……」
(セリナ)
「鏡は、心を映すから。あなたの記憶が、映像になっている。」
リクは鏡に手を伸ばした。
触れようとする——
その瞬間。
映像が変わった。
学校が消え、暗闇になる。
そして——
紅い光が、見えた。
それは、人の形をしている。
背中だけが見える。
黒髪。
痩身。
そして——
紅い光を纏っている。
(リク)
「……誰だ?」
鏡の中の人物が、動いた。
ゆっくりと、振り返ろうとする。
リクは息を止めた。
顔が見える——
その直前。
光が弾けた。
鏡が砕け、破片が舞う。
リクの体が吹き飛ばされ、地面に倒れる。
(リク)
「っ……!」
痛みが走る。
視界が揺れる。
セリナが駆け寄ってくる。
(セリナ)
「リク! 大丈夫?」
(リク)
「……はい。ただ……」
リクは起き上がった。
掌を見る。
まだ、光の残滓が残っている。
ちりちりと、痺れる。
(リク)
「鏡の中に……誰かいました。」
(セリナ)
「誰か……?」
(リク)
「紅い光を纏った、人。」
セリナの表情が変わった。
(セリナ)
「……それ、詳しく話して。」
リクは、鏡の中で見たものを話した。
暗闇。
紅い光。
人の背中。
振り返ろうとした、その瞬間。
セリナは腕を組んだ。
考え込むような表情。
(セリナ)
「……干渉痕ね。」
(リク)
「干渉痕?」
(セリナ)
「誰かが、あなたの具現を覗いている。虚界越しに。」
(リク)
「虚界越し……」
セリナは頷いた。
(セリナ)
「鏡は、現実と虚界の境界。だから、虚界にいる存在と繋がることがある。」
(リク)
「じゃあ……あの人は……」
(セリナ)
「おそらく、ノヴァ。」
その名前に、リクの胸が高鳴った。
ノヴァ。
彼が、リクを見ていた。
虚界から。
(リク)
「なんで……俺を?」
(セリナ)
「波長が近いから。あなたの具現に、共鳴している。」
セリナはリクの掌を取った。
そこに残る、光の痕を見る。
(セリナ)
「これ……ノヴァの波長が混じってる。」
(リク)
「混じってる……?」
(セリナ)
「そう。あなたの具現に、彼の具現が干渉している。だから、紅く見えたのよ。」
リクは掌を見つめた。
確かに、微かに紅い光が見える。
いつもの青白い光とは、違う。
(リク)
「これ……危険ですか?」
(セリナ)
「……わからない。でも、制御できなくなる可能性はある。」
彼女はリクの手を離した。
(セリナ)
「今日の訓練は、ここまで。休みなさい。」
(リク)
「でも……」
(セリナ)
「だめ。無理をすると、暴走する。」
その声が、厳しい。
リクは頷いた。
立ち上がり、訓練場を出る。
廊下を歩きながら、考える。
ノヴァが、見ていた。
虚界から、リクを。
なぜ。
何を見ているのか。
そして——
何を伝えようとしているのか。
中庭に出た。
ベンチに座り、空を見上げる。
青い空。
雲が流れている。
平和な昼下がり。
だが、リクの心は——
鏡の中にあった。
あの暗闇。
あの紅い光。
あの背中。
もう少しで、顔が見えた。
もう少しで——
(???)
「見ようとしたな。」
声がした。
リクは振り返る。
木陰に——
ノヴァが立っていた。
(リク)
「……ノヴァ。」
(ノヴァ)
「鏡具現、やったのか。」
彼が近づいてくる。
リクの前に立つ。
(ノヴァ)
「あれは、危険だ。」
(リク)
「なんで……」
(ノヴァ)
「鏡は、虚界に繋がる。そこには、いろんなものがいる。」
(リク)
「いろんなもの……?」
(ノヴァ)
「記憶の残滓。感情の断片。そして——」
彼は空を見上げた。
(ノヴァ)
「消えた者たちの、残響。」
(リク)
「……あなたも、そこにいるんですか?」
ノヴァは答えなかった。
ただ、リクを見る。
その瞳に、何かが宿っている。
悲しみのような、諦めのような。
(ノヴァ)
「俺は、どこにでもいて、どこにもいない。」
(リク)
「……どういう意味ですか?」
(ノヴァ)
「具現が暴走して、俺は現実と虚界の境界に落ちた。だから——」
彼は掌を見た。
そこに、紅い光が浮かぶ。
かすかに揺れる、炎のような光。
それは、彼の存在そのもの。
消えかけているが、まだ燃えている。
(ノヴァ)
「俺は、完全には消えていない。でも、完全には存在していない。」
(リク)
「じゃあ……今、ここにいるあなたは……」
(ノヴァ)
「残響だ。記憶の断片。だが、意識はある。」
リクは立ち上がった。
ノヴァに近づく。
(リク)
「それって……辛くないですか?」
ノヴァは微笑んだ。
寂しげな、笑み。
(ノヴァ)
「辛い。だが、慣れた。」
(リク)
「……」
(ノヴァ)
「だから、お前には同じ道を辿ってほしくない。」
彼はリクの肩を掴んだ。
(ノヴァ)
「鏡具現は、もうやるな。虚界に引き込まれる。」
(リク)
「でも……」
(ノヴァ)
「いいか。虚界は、想像の海だ。そこに落ちたら、自分が何者かわからなくなる。」
その言葉が、重い。
リクは頷いた。
(ノヴァ)
「明日、屋上で待ってる。紅の具現を教える。それで、お前を強くする。」
(リク)
「……はい。」
ノヴァは手を離した。
そして、背を向ける。
(ノヴァ)
「それまで、無茶はするな。」
そう言って、歩き出した。
木陰に消えていく。
リクは、その背中を見送った。
鏡の中で見た、あの背中。
同じだった。
紅い光が、わずかに揺れている。
まるで、消えかけの炎のように。
だが、消えない。
ノヴァは——
虚界から、リクを見ていた。
心配して。
導いて。
守ろうとして。
リクは拳を握った。
明日。
ノヴァが教えてくれる。
紅の具現を。
そして——
虚界に落ちないための、方法を。
風が吹いた。
木々が揺れる。
その中に——
ノヴァの気配が、まだ残っている気がした。
だが、もう姿は見えない。
リクは中庭を出た。
寮へ戻る。
部屋に入り、ベッドに座る。
窓の外を見た。
夕日が、学院を染め始めている。
空が、少しだけ赤い。
あの紅い光と同じ色。
リクは掌を見た。
まだ、光の痕が残っている。
紅く、微かに。
これが——
ノヴァとの繋がり。
虚界と現実の、境界線。
リクは目を閉じた。
意識を、掌に向ける。
光が、反応する。
紅い光が、浮かび上がる。
だが、暴走はしない。
ただ、静かに揺れている。
まるで、呼吸しているように。
(リク)
「……ノヴァ。」
呼びかける。
光が、わずかに強くなった。
まるで、答えるように。
だが、声は聞こえない。
ただ、光だけが応える。
リクは光を消した。
体が、少し疲れている。
だが、心は落ち着いている。
ノヴァが、見守ってくれている。
そう感じるから。
窓を開けた。
夜風が入ってくる。
冷たく、心地よい。
星が、少しずつ見え始めた。
その中に——
紅い星が、一つだけあるような気がした。
だが、すぐに見失う。
錯覚かもしれない。
だが、リクは——
それがノヴァだと信じた。
どこかで、見守ってくれている。
虚界から、現実を。
リクは窓を閉めた。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
今日は、よく眠れそうだ。
夢の中で——
また、鏡が見えた。
だが、今度は砕けない。
鏡の中に、映像が浮かぶ。
ノヴァの姿。
彼が、こちらを見ている。
笑っている。
寂しげな、だが優しい笑顔。
リクは、鏡に手を伸ばした。
触れようとする——
だが、届かない。
鏡が、遠ざかっていく。
そして——
消えた。
夢が、終わった。
リクは目を覚まさなかった。
深い眠りの中で——
ただ、静かに呼吸していた。
翌朝。
リクは早起きした。
窓を開ける。
新鮮な空気を吸う。
今日は——
ノヴァと会う日。
紅の具現を学ぶ日。
リクは準備を整えた。
部屋を出て、廊下を歩く。
朝の光が、床を照らしている。
学生たちは、まだ寝ている。
静かな朝。
リクは屋上への階段を上った。
一段、また一段。
心臓が高鳴る。
緊張と、期待と。
屋上の扉を開けた。
風が、顔を撫でる。
空が、広い。
そして——
中央に、ノヴァが立っていた。
背中を向けて。
紅い光を纏って。
リクは、ゆっくりと近づいた。
足音を立てないように。
だが——
ノヴァは気づいた。
振り返る。
その顔が、はっきりと見えた。
鏡の中では見えなかった、顔。
若く、鋭く、だがどこか優しい。
(ノヴァ)
「来たか。」
(リク)
「はい。」
ノヴァは微笑んだ。
(ノヴァ)
「なら、始めよう。紅の具現を。」
リクは頷いた。
そして——
二人は、向かい合った。
風が吹く。
空が、少しだけ赤く染まった気がした。
だが、それも一瞬。
すぐに、青い空に戻る。
訓練が、始まる。
新しい力を得るための、訓練が。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




