第17話「セリナの記録」
夜明け前。
学院は、まだ眠っている。
セリナは一人、研究室を出た。
手には、古びた鍵。
旧研究棟への、立ち入り許可証。
廊下を歩く。
足音だけが、静かに響く。
窓の外は、まだ暗い。
だが、東の空がわずかに白み始めている。
(セリナ)
「……五年ぶりね。」
呟きながら、旧研究棟へ向かう。
そこは、学院の最も古い建物。
今は使われず、封鎖されている。
理由は——
五年前の事件。
あの暴走。
あの破壊。
旧研究棟は、その爪痕を今も残している。
セリナは扉の前に立った。
鍵を差し込む。
錆びた音がして、錠が外れる。
扉を開ける。
埃の匂いが、鼻をつく。
中は暗く、冷たい。
セリナは魔法で光を灯した。
青白い光が、廃墟を照らす。
壁は崩れ、床には亀裂が走っている。
天井から、瓦礫が落ちている。
すべてが——
あの日のまま。
セリナは、ゆっくりと中へ入った。
記憶が蘇る。
五年前。
彼女は、まだ若い研究員だった。
そして——
彼の、指導教官だった。
廊下を進む。
かつて、実験室だった部屋の前に立つ。
扉は、半分壊れている。
中を覗く。
実験台が倒れ、装置が散乱している。
壁には、紅い焦げ跡。
それは——
彼の具現が残した、痕跡。
セリナは部屋に入った。
瓦礫を避けながら、奥へ進む。
かつて、彼が立っていた場所。
そこに、今も魔法陣の痕が残っている。
焦げて、歪んで、だが確かにある。
セリナは膝をついた。
魔法陣に、手を当てる。
冷たい。
だが——
微かに、魔力の残滓を感じる。
五年経っても、消えていない。
それほど強い、具現だった。
(セリナ)
「……ノヴァ。」
名前を呼ぶ。
だが、返事はない。
ただ、風が窓から入ってくるだけ。
セリナは立ち上がった。
部屋を見回す。
何か、残っていないか。
彼の痕跡。
彼の記録。
何でもいい。
視線が、隅の瓦礫に止まった。
そこに——
何か、紙のようなものが挟まっている。
セリナは瓦礫に近づいた。
慎重に、石を退ける。
そして——
焦げたノートを見つけた。
黒く、ぼろぼろになっている。
だが、まだ形を保っている。
セリナは、それを拾い上げた。
重い。
ただのノートなのに、妙に重い。
表紙を見る。
そこには——
筆記体で、名前が書かれていた。
『Nova』
セリナの手が、震えた。
これは——
彼のノート。
彼の記録。
五年間、ここに埋もれていた記録。
セリナは、そっとノートを開いた。
ページは焦げ、破れている。
だが、文字は読める。
最初のページには、日付が書かれていた。
『アルヴァル暦1247年 春』
五年前。
事件が起きる、半年前。
セリナは、次のページをめくった。
そこには、数式が並んでいる。
具現の理論式。
魔力の変換公式。
虚界との接続方程式。
すべてが、高度で複雑。
だが——
セリナには理解できる。
これは、彼が独自に編み出した理論。
学院の教科書には載っていない、オリジナル。
(セリナ)
「……天才だったのよ、あなたは。」
呟きながら、ページをめくる。
次のページには、図が描かれていた。
具現の構造図。
意識と魔力の流れ。
現実と虚界の境界線。
それらが、美しく描かれている。
まるで、芸術作品のように。
セリナは、さらにページをめくった。
そこに——
詩のようなものが書かれていた。
『想像は、牢獄だ。
だが、同時に翼でもある。
壊さなければ、飛べない。
爆ぜなければ、生きられない。』
セリナは、その言葉を何度も読み返した。
彼の哲学。
彼の信念。
破壊と創造。
崩壊と再生。
それが、彼の具現の本質だった。
次のページ。
また、数式。
だが、今度は違う。
暴走の計算式。
限界を超えた時の、魔力の流れ。
そして——
その先に書かれた、一行。
『これを超えれば、神に届く。』
セリナの息が、止まった。
神に届く。
彼は——
そこまで考えていたのか。
具現の限界を超え、神の領域に至ることを。
次のページをめくる。
そこには、赤い文字で書かれていた。
インクではない。
これは——
血。
『失敗した。
制御が、効かない。
破壊が、止まらない。
俺は——』
文字が途切れている。
その先は、焦げて読めない。
セリナは、ノートを閉じた。
胸が痛い。
あの日のことを思い出す。
実験室に駆けつけた時。
紅い光が、すべてを呑み込んでいた。
ノヴァは、その中心にいた。
叫んでいた。
泣いていた。
そして——
消えた。
光の中に、消えていった。
セリナは、ノートを抱きしめた。
涙が、頬を伝う。
止められなかった。
彼を、救えなかった。
ただ、見ているだけだった。
(セリナ)
「……ごめんなさい。」
誰に向けて言っているのか、自分でもわからない。
ノヴァに。
それとも、自分自身に。
窓の外で、鳥が鳴いた。
夜明けが近い。
セリナは涙を拭った。
立ち上がり、ノートを鞄にしまう。
これは——
持ち帰らなければ。
リクに、見せなければ。
彼なら——
このノートの意味を理解できるかもしれない。
そして、ノヴァが到達できなかった場所へ、辿り着けるかもしれない。
セリナは部屋を出た。
廊下を戻る。
旧研究棟を出て、扉に鍵をかける。
空が、明るくなり始めている。
朝日が、学院を照らし始める。
セリナは研究室へ戻った。
机にノートを置く。
そして、椅子に座り込む。
疲れた。
体も、心も。
だが——
やらなければならないことがある。
このノートを解析し、リクに伝える。
ノヴァの理論。
ノヴァの哲学。
そして——
ノヴァの失敗。
それらすべてを。
セリナはノートを開いた。
最初のページから、丁寧に読み始める。
数式を一つ一つ確認し、図を見る。
そして——
詩を、何度も読み返す。
『想像は爆ぜてこそ、生きる。』
その言葉が、胸に刺さる。
ノヴァは——
生きるために、爆ぜた。
破壊することで、創造しようとした。
だが、それは——
彼自身をも破壊してしまった。
リクには、同じ道を辿ってほしくない。
セリナは、そう思った。
だから——
このノートを、武器にする。
リクが、ノヴァを超えるための、武器に。
時計が、朝の七時を告げた。
学院が、目覚め始める時間。
セリナは立ち上がった。
窓を開ける。
新鮮な空気が入ってくる。
朝の光が、部屋を照らす。
ノートの表紙が、光を反射して輝いた。
『Nova』
その名前を、セリナはもう一度見つめた。
(セリナ)
「……あなたの意志は、彼が継ぐ。」
呟いた。
誰にも聞こえない、誓いの言葉。
その日の午後。
セリナは、リクを研究室に呼んだ。
リクは、まだ少し疲れた様子だった。
だが、目には光がある。
(セリナ)
「座って。」
リクは椅子に座った。
セリナは机の上のノートを手に取る。
(セリナ)
「これを、あなたに見せる。」
ノートを、リクに渡した。
リクは表紙を見た。
その瞬間——
目が見開かれる。
(リク)
「……Nova……」
(セリナ)
「そう。ノヴァのノート。今朝、旧研究棟で見つけた。」
リクは、そっとノートを開いた。
数式を見る。
図を見る。
そして——
詩を読む。
『想像は爆ぜてこそ、生きる。』
リクの表情が、変わった。
驚きから、理解へ。
そして——
共感へ。
(リク)
「……これ、すごい。」
(セリナ)
「でしょう? 彼は天才だった。だが——」
セリナは、リクを真っ直ぐ見た。
(セリナ)
「天才すぎた。自分の理論を、自分で制御できなかった。」
リクは、血で書かれたページを見た。
『失敗した。』
その言葉が、重い。
(リク)
「……これ、血ですか?」
(セリナ)
「おそらく。暴走した時、彼は傷だらけだった。」
リクは、ページをそっと閉じた。
(リク)
「ノヴァは……生きてますよね?」
セリナは少し黙った。
そして——
(セリナ)
「わからない。記録上は、消失。だが、あなたは彼に会った。」
(リク)
「はい。昨日、中庭で。」
(セリナ)
「……そう。」
セリナは窓の外を見た。
(セリナ)
「なら、彼はまだどこかにいる。消えていない。」
(リク)
「明日、彼から紅の具現を教わります。」
セリナは振り返った。
(セリナ)
「……本当に?」
(リク)
「はい。屋上で待ってるって。」
セリナは複雑な表情をした。
嬉しいような、心配なような。
(セリナ)
「気をつけて。彼の教えは、危険よ。」
(リク)
「わかってます。でも——」
リクはノートを見た。
(リク)
「俺、このノートを読んで思ったんです。ノヴァは、孤独だったんだなって。」
(セリナ)
「……そうね。」
(リク)
「だから、俺は彼と違う。俺には、セリナさんがいる。ガロスさんもいる。」
リクは微笑んだ。
(リク)
「一人じゃない。だから、大丈夫です。」
セリナの目に、涙が浮かんだ。
だが、こらえる。
(セリナ)
「……そうね。あなたは、一人じゃない。」
彼女は、リクの頭に手を置いた。
(セリナ)
「だから、無茶はしないで。約束して。」
(リク)
「約束します。」
セリナは微笑んだ。
今度は、本当に嬉しそうな笑顔。
(セリナ)
「このノート、貸すわ。読んで、理解して。でも——」
(リク)
「わかってます。暴走はしません。」
セリナは頷いた。
そして、リクを見送った。
扉が閉まる。
一人になった研究室で、セリナは窓辺に立った。
外では、学生たちが歩いている。
平和な午後。
だが、セリナの心は——
まだ、あの日にいた。
五年前の、あの日。
紅い光が、すべてを呑み込んだ日。
ノヴァが、消えた日。
(セリナ)
「……今度は、救えるかしら。」
呟いた。
リクを。
ノヴァを。
そして——
自分自身を。
風が、窓を揺らした。
まるで、答えるように。
だが、声は聞こえない。
ただ、風の音だけが響く。
セリナは目を閉じた。
祈るように。
願うように。
その夜。
リクは部屋で、ノートを読んでいた。
一ページ、また一ページ。
数式を解き、図を理解する。
そして——
詩を、何度も読み返す。
『想像は爆ぜてこそ、生きる。』
その言葉が、心に染み込む。
ノヴァの哲学。
破壊と創造。
それは——
リクの具現にも通じる。
窓の外で、風が吹いた。
リクは窓を開けた。
夜風が入ってくる。
冷たく、静かに。
だが——
その中に、何かが混ざっている気がした。
(リク)
「……ノヴァ。」
呼びかける。
風が、答えるように強くなった。
木々が揺れる。
葉が音を立てる。
そして——
かすかに、囁きが聞こえた。
『明日、待ってる。』
リクは微笑んだ。
風に、手を伸ばす。
まるで、握手をするように。
(リク)
「うん。行くよ。」
風が、また吹く。
そして、止んだ。
リクは窓を閉めた。
ノートを机に置く。
ベッドに横になる。
天井を見上げる。
明日。
ノヴァが、教えてくれる。
紅の具現を。
破壊と創造を。
リクは目を閉じた。
今度は、すぐに眠りに落ちた。
夢の中で——
紅い光が見えた。
それは、炎のように揺れている。
だが、今度は怖くない。
むしろ、温かい。
リクは、その光に手を伸ばした。
そして——
掴んだ。
光が、手の中で脈動する。
熱い。
だが、痛くない。
これが——
ノヴァの力。
そして、これから自分のものになる力。
リクは、光を胸に抱いた。
まるで、大切なものを守るように。
夢が、ゆっくりと消えていく。
だが、光だけは残った。
胸の中で、温かく輝き続けた。
セリナは、その夜も研究室にいた。
ノートのコピーを作り、解析を続ける。
数式を検証し、理論を確認する。
そして——
ノヴァの失敗を、分析する。
なぜ、暴走したのか。
なぜ、制御できなかったのか。
その答えを探す。
時計が、深夜二時を告げた。
セリナは、ペンを置いた。
目を閉じる。
疲れた。
だが——
少しだけ、答えが見えてきた。
ノヴァの失敗は——
孤独だったこと。
一人で、すべてを抱え込んだこと。
誰にも頼らず、誰にも相談せず。
ただ、一人で限界に挑んだこと。
だから——
リクには、そうさせない。
セリナは、そう決めた。
彼を支える。
彼を守る。
そして——
彼が、ノヴァを超えるのを見届ける。
(セリナ)
「……明日。」
呟いた。
明日、リクはノヴァと会う。
そして、紅の具現を学ぶ。
セリナは——
それを、見守る。
窓の外で、星が輝いていた。
静かに、美しく。
その中に——
紅い星が、一つだけあるような気がした。
だが、それも錯覚かもしれない。
セリナは窓を閉めた。
椅子に座り、目を閉じる。
そのまま、眠りに落ちた。
夢の中で——
ノヴァが見えた。
若かった頃の、彼。
笑っていた。
だが、その笑顔は——
どこか寂しげだった。
セリナは、夢の中で手を伸ばした。
だが、届かない。
ノヴァは、遠ざかっていく。
光の中に、消えていく。
セリナは、叫んだ。
だが、声は出ない。
ただ、見ているだけ。
またしても——
救えない。
夢が、終わった。
セリナは目を覚ました。
朝日が、窓から差し込んでいる。
新しい日。
新しい始まり。
セリナは立ち上がった。
窓を開ける。
新鮮な空気を吸う。
(セリナ)
「……今度こそ。」
呟いた。
今度こそ、救う。
リクを。
ノヴァを。
そして——
この学院を。
紅の光が、再び暴走しないように。
風が吹いた。
木々が揺れる。
そして——
遠くで、鐘が鳴る。
朝の始まりを告げる音。
セリナは、深く息を吸った。
そして——
新しい日を、迎えた。
(了)




