第14話「禁制区」
学院の地下は、冷たかった。
石段を降りるたびに、空気が重くなる。
リクは息を整えながら、セリナの後を追った。
(セリナ)
「ここが資料庫。学院の記録は、すべてここに保管されている。」
彼女が扉に手をかざすと、魔法陣が浮かび上がる。
青白い光が走り、錠が外れる音がした。
扉が、ゆっくりと開く。
中は薄暗く、本棚が延々と続いていた。
天井は高く、どこまでも続いているように見える。
(リク)
「……すごい。」
(セリナ)
「過去三百年分の記録がある。事件も、実験も、すべて。」
彼女は奥へ進んだ。
リクもその後を追う。
足音が、静かに響く。
本棚には、古びた書物や巻物が並んでいる。
どれも埃をかぶり、長い間誰も触れていないようだった。
(セリナ)
「あなたが探しているのは、具現に関する記録ね。」
(リク)
「……はい。昨日の、あの人のことも知りたいんです。」
セリナは足を止めた。
振り返り、リクを見る。
(セリナ)
「本当に?」
(リク)
「はい。」
彼女は少し黙った。
そして、奥の棚を指差す。
(セリナ)
「あそこに、禁制記録がある。通常は閲覧禁止だけど——」
(リク)
「禁制記録……?」
(セリナ)
「学院が公にできない記録。事故、暴走、そして……追放。」
その言葉に、リクの胸が高鳴った。
追放。
あの青年のことだろうか。
セリナは歩き出した。
最奥の棚の前で立ち止まり、一冊の黒い本を取り出す。
表紙には文字がない。
ただ、魔法陣だけが刻まれている。
(セリナ)
「これを読むには、許可が必要。だから——」
彼女は本に手を当てた。
魔法陣が光り、封印が解ける。
(セリナ)
「私が責任を持つ。だから、読みなさい。」
リクは本を受け取った。
重い。
ただの本なのに、妙に重量を感じる。
本を開く。
最初のページには、目次があった。
年代順に並んだ事件の記録。
その中に、一つだけ赤い印がついている項目があった。
『虚界干渉事件 記録年:アルヴァル暦1247年』
リクはそのページを開いた。
文字が並んでいる。
だが、ところどころ黒く塗りつぶされていた。
判読できない部分が多い。
それでも、読み進める。
『事件概要:学院研究棟にて、具現実験中に虚界干渉が発生。
実験室は半壊。周辺結界に重大な損傷。
原因は被験者の具現暴走による連鎖反応と推測される。』
リクは息を呑んだ。
具現暴走。
昨日の自分と同じだ。
だが、規模が違う。
研究棟を半壊させるほどの暴走。
次の行を読む。
『被験者:■■■■■■(削除)
年齢:■■歳
所属:■■■■家
具現属性:■■■■』
すべて黒塗り。
名前も、年齢も、家名も。
何もかもが消されている。
リクは歯を食いしばった。
なぜ。
なぜここまで隠す必要がある。
ページをめくる。
次のページには、事件の詳細が記されていた。
だが、やはり大半が黒塗り。
読める部分だけを拾っていく。
『……虚界との接触を試み……』
『……制御不能に陥り……』
『……結界が崩壊……』
『……学院評議会は、被験者の処遇を協議……』
そして、最後の一行。
それだけが、はっきりと残されていた。
『被験者N:具現連鎖の末、消失。』
消失。
その言葉が、リクの胸に突き刺さる。
(リク)
「消失……って、どういう……」
声が震えた。
セリナが、そっと肩に手を置く。
(セリナ)
「文字通りよ。彼は、消えた。」
(リク)
「死んだ、ってことですか?」
(セリナ)
「……わからない。記録には、それ以上何も残っていない。」
リクはページを見つめた。
被験者N。
N——
あの青年のことだろうか。
だが、確証はない。
名前も、顔も、何も書かれていない。
ただ、この一行だけ。
(リク)
「これ……いつの記録ですか?」
(セリナ)
「五年前。」
(リク)
「五年……」
(セリナ)
「五年前のことよ。あなたがノルデの森で目覚める、ずっと前の話。」
リクは本を閉じた。
手が、震えている。
五年前。
その時、何があったのか。
なぜ、記録が削除されているのか。
そして——
あの青年は、今どこにいるのか。
(リク)
「セリナさん……これ、本当のことですか?」
(セリナ)
「記録に嘘はない。ただし——」
彼女は本を受け取り、棚に戻した。
(セリナ)
「記録されていないことも、ある。」
(リク)
「記録されていないこと……?」
(セリナ)
「そう。真実は、いつも紙の上にあるとは限らない。」
彼女は歩き出した。
リクも後を追う。
資料庫を出て、石段を上る。
外の光が眩しい。
廊下に出ると、リクは立ち止まった。
(リク)
「セリナさん。あの人は……生きてるんですか?」
セリナは振り返らなかった。
ただ、小さく答える。
(セリナ)
「……過去の亡霊よ。」
その言葉だけを残し、彼女は去っていった。
リクは廊下に一人残された。
過去の亡霊。
それは、死者を意味するのか。
それとも——
生きているが、存在しないことにされている者を指すのか。
リクは拳を握った。
答えは、まだ見えない。
だが、確信だけはある。
あの青年は、生きている。
昨日、確かにこの目で見た。
紅い光を放ち、暴走を止めた。
あれは、幻ではない。
現実だ。
(リク)
「俺、絶対に見つける。」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
窓の外で、風が吹く。
木々が揺れ、葉が舞う。
その向こうに、青い空が広がっている。
リクは歩き出した。
答えを探すために。
真実を知るために。
図書館へ向かう。
そこなら、もっと情報があるかもしれない。
廊下を急ぐ。
足音が響く。
他の学生たちが、不思議そうにリクを見る。
だが、気にしない。
今は、それどころじゃない。
図書館に着いた。
扉を開け、中に入る。
本棚が並び、学生たちが静かに本を読んでいる。
リクは受付へ向かった。
(リク)
「すみません。虚界干渉について調べたいんですが……」
受付の老人が、眼鏡越しにリクを見た。
(老人)
「虚界干渉? 危険な分野だな。」
(リク)
「はい。でも、知る必要があるんです。」
老人は少し考え込んだ。
そして、奥の棚を指差す。
(老人)
「あそこに、理論書がある。だが、実例は……ない。」
(リク)
「ないんですか?」
(老人)
「学院が封印している。あの事件以来、虚界干渉の研究は禁止だ。」
やはり、あの事件。
リクは礼を言い、棚へ向かった。
理論書を手に取る。
分厚く、難解な数式が並んでいる。
だが、読み進める。
虚界——それは、想像が形を成す前の領域。
現実と虚構の境界。
そこに触れることは、極めて危険。
なぜなら、想像と現実の区別がつかなくなるから。
リクはページをめくる。
そこに、一つの図があった。
人間の意識と、虚界の関係を示す図。
意識が虚界に深く潜ると、現実への帰還が困難になる。
最悪の場合——
消失。
その言葉が、また出てきた。
リクは本を閉じた。
頭が痛い。
情報が多すぎて、整理できない。
だが、一つだけわかったことがある。
あの青年は、虚界に触れた。
そして、消失した——少なくとも記録上は。
だが、本当に消えたのか。
それとも、どこかに存在しているのか。
リクは図書館を出た。
中庭へ向かう。
新鮮な空気を吸いたかった。
中庭は静かだった。
噴水の音だけが響いている。
ベンチに座り、空を見上げた。
青い空。
白い雲。
そして——
(リク)
「……あれ?」
空の端に、紅い光が見えた気がした。
ほんの一瞬。
流星のように。
だが、すぐに消える。
リクは立ち上がった。
幻覚だろうか。
いや——
(???)
「見えたのか。」
声がした。
リクは振り返る。
だが、誰もいない。
ただ、風が吹いているだけ。
(リク)
「……今の……」
声は、男の声だった。
低く、どこか寂しげな。
だが、もう聞こえない。
リクは周囲を見回す。
木々が揺れている。
だが、人影はない。
幻聴だろうか。
それとも——
リクは空を見上げた。
もう一度、紅い光を探す。
だが、何も見えない。
ただ、青い空が広がっているだけ。
(リク)
「……気のせい、か。」
そう呟いたが、心臓が早鐘を打っている。
気のせいではない。
確かに、何かがあった。
誰かが、いた。
リクは中庭を出た。
寮へ戻る。
部屋に入り、ベッドに座った。
窓の外を見る。
夕日が、学院を染め始めている。
(リク)
「被験者N……消失……」
言葉を繰り返す。
だが、答えは出ない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あの青年は、どこかにいる。
そして、リクを見ている。
なぜかはわからない。
だが、感じる。
視線を。
意識を。
まるで、観察されているような。
リクは窓を閉めた。
カーテンを引く。
部屋が暗くなる。
だが、落ち着かない。
机の上のノートを開く。
セリナのノート。
あの追記を、もう一度読む。
『かつて、一人だけ。』
一人だけ、制御できた者がいる。
それが、あの青年なのか。
それとも——
リクは頭を抱えた。
考えがまとまらない。
情報が足りない。
もっと知る必要がある。
だが、どうやって。
記録は削除されている。
真実は隠されている。
リクにできることは——
(リク)
「……直接、会うしかない。」
そう呟いた瞬間、窓が揺れた。
風が吹き込む。
カーテンが舞い上がる。
その向こうに、紅い光が見えた気がした。
だが、すぐに消える。
リクは窓を開けた。
外を見る。
夜が近づいている。
星が、少しずつ見え始めた。
その中に、一つだけ紅い星があるような気がした。
だが、それも錯覚かもしれない。
リクは窓を閉めた。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
だが、眠れない。
あの声が、耳に残っている。
『見えたのか。』
誰の声だったのか。
何を見えたと言っているのか。
答えは、まだ遠い。
だが、リクは諦めない。
必ず、見つける。
あの青年を。
真実を。
そして——
自分の力の意味を。
夜が、静かに更けていく。
学院の灯りが、一つずつ消えていく。
リクだけが、目を開けたまま天井を見つめていた。
暗闇の中で、光を探すように。
翌朝。
リクは再び資料庫へ向かった。
セリナには内緒で。
扉の前に立つ。
だが、開かない。
魔法陣が発動しない。
リクには、開ける権限がないのだ。
(リク)
「くそ……」
諦めきれず、扉を見つめる。
その時——
扉が、わずかに開いた。
誰かが、中から開けたのだ。
リクは息を呑む。
扉の隙間から、紅い光が漏れている。
そして——
(???)
「入るなら、早くしろ。」
声がした。
あの声だ。
昨日、中庭で聞いた声。
リクは迷わず中に入った。
扉が閉まる。
暗闇の中、紅い光だけが浮かんでいる。
その光の先に——
黒髪の青年が立っていた。
あの時の、あの人。
(リク)
「……あなた。」
青年は無言で、リクを見つめる。
その瞳には、何の感情も見えない。
ただ、静かに観察しているだけ。
(青年)
「お前、俺を探してたな。」
(リク)
「……はい。」
(青年)
「なぜだ。」
(リク)
「知りたいんです。あなたのこと。そして……自分の力のこと。」
青年は少し黙った。
そして、くるりと背を向ける。
(青年)
「ついて来い。」
そう言って、奥へ歩き出した。
リクは迷わずついていく。
資料庫の最奥。
そこに、小さな部屋があった。
青年は扉を開け、中に入る。
リクも続く。
部屋には、一つだけ机があった。
その上に、古びたノートが置かれている。
青年はそれを手に取った。
(青年)
「これが、答えだ。」
そう言って、リクに渡す。
リクはノートを開いた。
表紙に、筆記体で名前が書かれている。
『Nova』
(リク)
「……ノヴァ?」
青年は頷いた。
(青年)
「俺の名前だ。かつては、な。」
(リク)
「かつて……?」
(ノヴァ)
「今は、ただの亡霊だ。」
その言葉に、リクは胸が痛んだ。
セリナが言っていた。
過去の亡霊、と。
(リク)
「あなたが……被験者N。」
ノヴァは答えなかった。
ただ、窓の外を見る。
朝日が差し込み、彼の横顔を照らす。
その表情は、悲しくも、怒ってもいなかった。
ただ、空虚だった。
(ノヴァ)
「読め。そこに、すべてが書いてある。」
リクはノートをめくった。
そこには、実験記録が記されていた。
具現の理論。
虚界との接触。
そして——
暴走の記憶。
(了)




