第1話 逃走
「はぁ……またか」
放課後、黄昏時の空が教室に一人だけ残った俺、黒橋湊と、白を基調として金の刺繍が施された制服を赤く染める。制服の襟元には『特』という文字がある。
特例入学者――この文字があるのは一般人の証だ。
机に視線を向けると、ビリビリに引き裂かれた明聖学園の体操服、ボロボロになった黒いシンプルなペンケース、破られた教科書、全て俺のものだ。
使い古したのではない。だって入学してまだ三か月も経っていないから、これは明聖学園の生徒たちによる行為。
この学園が知名度至上主義なのは入学する前から度々耳にしていたが、一般人相手だとここまで露骨なこともされるのか。
多分今回も、もみ消されて何事もなかったかのように終わるので、学園に訴えかけても意味がない。
幼馴染の招待によって、特例入学者としてこの学園に入学を決意した俺は、学園で唯一の一般人だ。
俺以外の人は有名企業のお嬢様、お坊ちゃまだの、有名芸能人の子女だの、親という名の《《剣と盾》》がある者しかいない。
両親が普通の会社員である俺はターゲットにしやすい、いわゆるカモってこと。
「寮で捨てよう、確か学園からの支給品は無料で何回でも支給されるって言っていたし」
俺は荷物を抱えて教室を出る。学園の隣に小さな寮があり、そこが俺の今の家だ。
廊下を歩く摩擦音だけが聞こえる。学園内に残っているのは寮生活の俺だけだと思っていた。
しかし、自分の足音だけ意識していた俺は、曲がり角から出てくる人に気づかなかった。
「「いてっ」」
「すみません、俯いていて気づかず……」
「いえいえ、大丈夫です。私たちも会話に夢中で……」
咄嗟に謝り、顔を上げると二人の女子が心配そうに俺を見ていた。
一人は幼馴染で、この学園に招待してくれた白銀真白、もう一人は真白の友人、こちらも同じくお嬢様の星宮莉乃。誰もが釘付けになってしまいそうなブロンドの長い髪をハーフアップにしている。二人とも俺と同じクラスだ。
学園で一・二を争う美貌と知名度を誇っている二人に見られてしまった。
「湊!? どうしたの、これ」
「何これ、ビリビリにされているじゃない! 湊くん、大丈夫?」
真白は俺の破られた体操服を広げて、目を見開き驚いた表情をして、固まっている。
星宮さんは散らばった筆記用具をペンケースに戻そうとしてくれている。
「え……、ペンケースも」
星宮さんの哀れみの表情に耐えられなくなり、ペンケースを瞬時に手で覆い隠す。俺はその場から一刻も早く立ち去りたかった。
「ごめん、真白、あと星宮さんだよね? ペンケースは気にしないでください、何とかするので」
彼女たちに一礼すると、呆然と立ち尽くす真白を横目に、全速力で走る。
(真白に見られた、こんな姿を彼女だけには見られたくなかった)
恥ずかしさと不甲斐なさで、俺は奥歯を強く噛みしめた。
寮まで息を切らしながら走り続けた。誰もいない自室の扉を開けると、硬いマットレスにカバーが掛かっているだけのベッドとシンプルな木製デスクがある。
「ただいま」
静寂が寮の中を満たす。実家にいた時には母の優しく明るい声が満たしていた暖かさを思い出し、胸にぽっかりと穴が空いたような心地がした。まだこの生活に慣れない。
マットレスに横たわり、学園支給のスマホを制服から取り出す。時刻は午後6時を回っていた。友人のいない俺にとって、スマホはただの時計になっている。
夕飯を食べようと部屋を出て、キッチンの冷蔵庫を開けると、カレーライスが入っていた。学園に常駐しているシェフが用意してくれているのだ。
電子レンジで温めたカレーライス、一流のシェフが作っているのもあって極上の味だった。お肉のうまみ、ニンジンの甘味が全身に染み渡る。
「真白、多分俺に失望したよな。こんな人を推薦するんじゃなかったわとか思っているのかな」
先ほどの真白と、星宮さんの表情が頭を過ぎる。真白が俺を失望するなどといった本人から聞いたわけでもないのに変な妄想をして、勝手に傷ついている俺が一番嫌い。
「明日、学園に行きたくねーな」
ポロっとそんな言葉が口からこぼれる。同じクラスだったあの二人は体操服があのような状態になっていることに気づいていなかった。
しかし、今日気づかれた。明日からあの二人を見たら逃げ出してしまいそうだ。
「そんな弱気になってどうする湊、自分の選択を信じろ湊」
両手で頬を叩き、おまじないのように自分に何度も言い聞かせる。
「今日はもう、お風呂に入って寝よう。落ち込んでいても何も意味はない」
俺は普段だったら硬いマットレスでなかなか寝付けなかったのに、今日は泥のように眠った。




