赤ベコとクローバー
少女の小さな左手には、大事そうに三つ葉のクローバーが握られていた。楽しげに体を揺らしながら、少女は話し始めた。
「ねえねえ、ママが教えてくれたんだけどね、四つ葉のクローバーって、見つけたら幸せになるんだって」
「四つ葉のクローバー?そんなの、見た事ないよ」
「すっごくめずらしいの!見つけたらどんな夢だって叶うんだよ」
「どんな夢でも?」
「そう!例えば、王子様と運命的な出会いをしたり、大好きなものを今みたいに○○くんと一緒に語り合ったり!」
「なんだか絵本みたい」
「絵本なんかじゃないのほんとなんだよ!」
「……」
「○○くんはなにがいいの?」
「……僕はわかんないや」
「わかんなくないよ!好きなこと言えばいいんだから」
「ええむずかしいよお」
「……わかった!じゃあこうしよ!叶えたい夢が見つかるまでは、私のおねがいをきいて!ね、どう?」
「そんな、わがままだよお」
「じゃあ早く夢見つけよ!ほら、○○くんも好きなかけっこだよ」
「こんなの、かけっこじゃないよ」
「かけっこと一緒だよ!はやい方が勝ち!いまは私の方が勝ちだからね」
「もう、××ちゃんはずるいよ」
「ふふん、まだ私の方がおねえちゃんだもーん」
「……じゃあ僕の夢、きまったもん」
「えーはやい、つまんなーい」
「決まったからいいの。えっとね……」
……あれ?なんて言ったんだっけ。
ここから先が思い出せない。確かに僕は、ここで××ちゃんに夢について話した。そしてその後のキョトンとした彼女の顔だって覚えてる。確か、それから泣いて笑われたっけ。変なの、そう言って大きく口を開けて平原に咲くクローバーの上で寝そべってたんだ。
僕もバカにされてむっとなってそっぽ向いて。
確か、確か……。
彼女は、小学校に上がる頃には引っ越したんだっけ。
あれ、名前……なんだっけ。
○◎○◎
かなり長いこと夢を見ていた気がする。けれどその内容はほとんど覚えていなかった。強いて言えば、ほのかに胸の辺りに温もりを感じたくらいだ。
懐かしいような、ふと童心に帰ったような。自然と口角が緩んだ。
「あ、珍しく笑ってる」
視界の端から声が聞こえた。
「なになに、いいことでもあったのかなあ?」
「先生が笑うなんて、明日はきっと雪ね」
「……茶化さないでください。真夏ですよ」
「先生」と呼ばれる日が、いつしか僕の日常になった。
「何かいい夢でも見てたんですか??例えば、昔付き合ってた子の夢とか……?」
若看護師の目がきらりと光るのがわかった。僕が恋沙汰を苦手としていることが面白いのか、齋藤さんはやけにこの手のいじり方をしてくる。僕より2つ上の先輩だが、職場のムードメーカーと言ったところだろうか。少し苦手だ。
そして初老の久保田さんは齋藤さんと組むと厄介だ。
「ええ何その話聞きたい。ねえ先生、昔の女の話、私にも聞かせてよ」
久保田さんが体を前のめりに倒すと、ギシリと机が鳴った。
この場で付き合ったことなんて1度もありません。なんて回答すればつまらないだろうな。こういう話が苦手なのは知っているはずなのに、決まって振ってくるのは久保田さんだ。
「私も聞きたいです!先生がこれまでどんな女性を落としに落として、落としまくっていたのか!気になり過ぎてご飯がもう喉を通りません」
「あなたさっきお弁当食べきったところじゃない」
ほんとだ、とわざとらしく齋藤さんが笑った。それにつられて久保田さん、周りの看護師も笑っていた。
僕はと言えば、内心安堵していた。苦手な話題から、齋藤さんの機転によって脱却できた。齋藤さんは僕が困る話題になるとこうして話題を逸らしたり、矛先を変えたりすることがある。いつもとても助かっている。
ふう、と心の中で息を吐くと自然と口角が緩んでしまったらしい。
「あ、また笑った!」
齋藤さんはまた大きな目を見開いて僕を指さした。
……やはり少し苦手かもしれない。
当院では昼休みを過ぎると、いつもは患者との体調確認を行っている。医師と患者の壁を、体調確認という名目で交流の場を設けて壊していこうという狙いだ。
初めの頃は何を話せばいいのか分からず、戸惑うことが多かった。だがそれを面白がった子供が、いつしか僕を「赤べこ先生」と呼ぶようになった。
「いっつも僕の話聞いて頷くだけなんだもん!おじいちゃんちに飾ってある赤べこに似てる!」
「あ、赤べこ?」
「そー!でもね、赤べこっていい意味なんだ!悪い病気も、全部どっか飛ばしちゃうんだよ」
まるで先生みたいだね。そう言った少年は自慢げに笑うと、照れくさそうに鼻をこする。素直に嬉しかった僕は、ありがとうと返すと、彼の頭を優しく撫でた。
この子はいつもおじいちゃん譲りの知識を沢山教えてくれる。家族思いないい子だ。当院のおじいちゃんおばあちゃんからも愛されている、アイドル的存在だった。
「あら源ちゃん、今日も元気だねえ」
「あ、つねおばーちゃん!この前の飴美味しかったからまたちょーだい!」
「いいよお。でも"つねさん"じゃなくて"つるさん"よほらこっちおいで」
「つねさん大好き!」
「つるさんよお」
いつの間にやら僕の目の前から、患者のつるさんの膝元へテレポートしていた。つるさんはまるで孫をあやしているかのように源くんと接している。それが嬉しいのか源くんはより一層目を細めた。
この病院は優しさで溢れかえっていた。
いつも笑顔があって、癒しがあって、どこか温もりを感じることが出来た。
「赤べこ先生」と呼ばれることも、どこか嬉しかった。
「初めてのあだ名だな」
1人つぶやくと、後ろで若い看護師がくすっと笑うのが分かった。この笑い方を僕はよく知っている。
「おめでとうございます、赤べこ先生」
「からかわないでよ、齋藤さん」
○◎○◎
「……それで、当院へと移られたわけですね」
患者の受け入れがあった。医師の数も多く設備も最新のものを取り扱う当院では、他では対応できないと判断された患者がこのようにして入院するケースが多くある。
そして決まって、患者の表情は暗いのだ。それもそのはずだ。この病院へ来るということは、決まって何か重度と判断された患者だということだからだ。
うちでは対応しきれません。
その言葉を何度耳にしてきたのだろうか。不安は募る一方だろう。
……だが今日の患者は違った。
「うわあイケメン。先生、彼女いるんですか?」
「か、彼女、ですか?」
彼女は一切の曇りのない眼で、僕を見つめた。
まるで芸術作品でも眺めるように下から上へ、上から下へと目線を撮した。
「いえ、いないですけど」
「ええ以外!身長も高くて物静かな雰囲気だから、つい」
「つい?」
「世の中のありとあらゆる女性を落としに落としまくっているのかと」
「……」
どこかで聞いた言葉だった。嫌味に笑う若い看護師の顔が頭に浮かんだ。
患者の名前は佐々木さんと言った。もともと小説家志望だったそうだが、闘病生活を強いられ諦めたのだそう。今でも少し日記程度に文章は綴っていると話していた。
「やっぱりこう、ペンを握ってるだけでも、特別になった気がするんですよね」
ペンを握る仕草をすると、彼女は楽しそうに話した。人と話すことは苦手だけれど、彼女の声はなぜだかもっと聞いていたいと感じた。話の抑揚に加えて身振り手振りも多いため、いつしか彼女のペースに飲まれていた。
──彼女の日記が机から落ちるのを見るまでは。
ぱらりとめくれたその日記を拾った時に見えた「闘病記録」の文字が、今でも脳裏に色濃く残っている。
佐々木さんが当院に来てから2週間ほどが経過した。
木々につぼみが生まれ始め、そろそろ春も来ようかという時期だった。
花見では無いけれど、弁当を片手にベンチに腰かけた。いつも硬い椅子に腰掛けて黙々と食べているものだが、たまには気分転換にいいだろうと思い立った試みだった。
いざ弁当を開けようとしたその時、遠くから声が聞こえた。「みつけた」と、源くんの声のようだ。
気になり近づくと、そこには齋藤さんの姿もあった。
「ざんねーん。これは三つ葉のクローバーだよー」
「えー」
源くんが嬉しそうに掲げていたものはどうやらクローバーだったらしい。だがそれが四つ葉のクローバーでは無いと知ると、分かりやすく落胆していた。
「あれ、先生?外に出てるなんて珍しいですね」
「ちょっと花見でしようかなって思ったんです。そしたら源くんの声が聞こえるものだから」
「ええ花見だったら私も誘ってくださいよお」
とわざとらしく頬を膨らませる。源くんもそーだそーだと野次を飛ばした。
「四つ葉のクローバーなんて探して、何かあったんですか?」
「あげるの!お姉さんに」
「お姉さん?」
「ささ……り?さん!隣に来たの!」
一瞬戸惑ったが、隣と聞いてようやく佐々木さんのことだと気づいた。ついこの前に受け入れをした彼女だ。
「ささりさんがね、言ってたの!四つ葉のクローバーは夢を叶えてくれるんだーって。ホントなんだよ!」
「夢を……」
あれ?この話前にどこかで聞いたような……
「へえ、そうなんだ。じゃあ源くんは何を叶えたいんだい?」
「僕はね、宇宙飛行士になりたい!そしてね、ヒーローになってね、怪獣をいーっぱい倒すの!」
予想の斜め上どころか次元を超えた回答が帰ってきた。反応に戸惑う僕を見て、奥で齋藤さんがくすくすと笑うのが見えた。
「笑わないでください」
「いえ……お構いなく……くす」
口元を手でおおってはいるものの、笑いをこらえて肩が震えている。
「でもね」
源くんが真っ直ぐな目をこちらに向けると話を続けた。
「それよりも、先にささりさんの夢を叶えてあげたいんだ」
齋藤さんと目を見合せた。どうやら齋藤さんもこの話は知らないらしい。どうして?と尋ねると源くんはあのねあのね、と言葉を続けた。
「お昼はね、たくさん絵本読んだり、怪物ごっこしたり、かくれんぼしたりするの。すっごく楽しいんだよ。ささりさんは遊びのプロなんだ!」
確かによくふたりの笑い声が院内で響くのが聞こえた。それを聞いて、またやってるよ、と苦笑いする患者たち。その光景はいつしか当たり前になっていた。
「けど夜になるとね、ささりさんしくしく泣いてるの。隣だからわかるんだ。けど、僕どうしたらいいか分からなくて」
「……優しいね、源くんは」
どうやら四つ葉のクローバーが願いを叶える。という話は佐々木さんから聞いたらしい。それを覚えていた源くんが、今こうして齋藤さんと一緒に探していたということだったそうだ。もう十分ヒーローじゃないか、と彼の頭を優しく撫でる。満更でもなさそうだった。
佐々木さん。彼女の病はかなり深刻なものだ。これまで多くの病院を転々としてきたそうだが、いずれも処置しきれずにここまでやってきたという話だった。
だが受け入れの時に話した様子から心はまだ健康なようだと思い込んでいたが、それは違った。むしろ反対だ。
僕らが気づけないほどのポーカーフェイスを彼女は貫いているのだ。誰にも悟らせまいと、困らせまいと必死に。だからこそ、夜一人になるとその鉄壁の古城はガラスのように簡単に壊れ、決壊する。
不意に机から落ちた時に見えた彼女の日記を思い出した。そこに記されていた「もうダメかもしれない」の文字を、僕は鮮明に記憶していた。
「てほらほら、お昼休み終わっちゃいますよ。ご飯食べなきゃ」
「あそうだった。って、あと10分もないじゃないか」
結局弁当は半分以上残してしまった。時間がなかったのもあるが、喉を通らなかったというのが正しかった。
「四つ葉のクローバーか、どこかで聞いたな」
○◎○◎
「ねえ、"赤べこ先生"。一緒にお外でピクニックしません?」
いつもの体調管理での話だ。健康状態の確認を終えると、佐々木さんは身を乗り出して提案してきた。
「ほら、ずーっと病院っていうのもつまらないでしょ?たまには息抜きにお外出たいなー。赤べこ先生っ」
ねっ、とウインクを付け足す。少しドギマギする心を抑えながらも、彼女の提案について少し考えた。考えておくよ、そういうと彼女は嬉しそうにはーい、と返事をするのだった。
そのやり取りから1週間がたった。院長の許可は案外すんなりと通った。心の健康は闘病生活において重要という旨を伝えると、院長は快く承諾をした。
そして佐々木さんはといえば。
「ねえみて、桜よ桜、満っ開の!」
と大はしゃぎっぷりだ。純粋に自然を楽しむ彼女を見ていると、まるで娘と遊びに来ているかのような気持ちになった。
「はしゃぎすぎたら危ないですよ。ほら、ゆっくり」
「えー、ケチ。乙女の心にブレーキなんてないの!」
「……乙女って」
なに?と強い目付きでこちらを睨む。目をそらすも、彼女の強い視線はまだしばらくの間僕に向けられたままだった。
彼女を車椅子で木陰まで引くと、おもむろに弁当箱を取り出した。作ってきたんだあ、と自慢げに箱を開けると、中にはサンドウィッチが並べて入っていた。
ピクニックと言えばこれだよね、と彼女は笑った。
「齋藤ちゃんに手伝ってもらったんだー。あの子、同い年だし、人柄もあってすごく話しやすいでしょ?だから無理言ってお願いしたの」
改めて並べられたサンドウィッチを見ると、綺麗に整列しているように見える中でもいくつか不格好なものもあった。
「なかなか難しいんだね、サンドウィッチ」
しみじみと言った。珍しく語気が無かった。
「貰っていいですか」と断りを入れると、彼女は小さく頷いた。
「おいしい……とくに中のカラシなんて絶妙です。これ佐々木さんが作ったんですか?」
「え?あ、うん。でもちょっとカラシ混ぜただけで、」
「こっちの卵だって、半熟卵を使ってるおかげか、口の中でとろけます」
「……でも、ちょっと茹ですぎちゃったかも」
「そのフルーツサンド貰ってもいいですか?どんどんお腹減ってきちゃって」
不格好なサンドウィッチを取る度に、彼女は不安げにこちらを見た。初めこそ自信なさげに料理の失敗を話していたけれど、少しづつ自信がついたのか笑顔が戻っていくのがわかった。私の食べる分無くなるでしょうが、と彼女が笑う。僕も釣られて笑っていた。
「いやーもう、私が丹精込めて作ったサンドウィッチがこうも一瞬に。食べ過ぎですよ赤べこ先生」
「赤べこ先生って、それ源くんから教えてもらったでしょう」
それはどうかなー、と意地悪に笑った。
「源くんの手術だって、先生がやったんでしょ?聞いたよー」
「まだ終わってませんけどね。今のところは経過は良好ってところです」
「もう源くんの中では先生はヒーローなんだよ。元気に日光を浴びることすら出来なかった少年が、今では元気に走り回ってみんなに元気を配ってる」
いい物語でしょ、と彼女は目で合図をした。
「出来ることならわたしもーっ、なんてね」
「……」
言葉を失った。彼女からこのような言葉が出てくるとは想定外だった。
「ねえ先生。私の日記ちらっと見えちゃったでしょ。ほら、受け入れの時に」
もちろん鮮明に覚えている。彼女の虚ろな表情を目にする度に、その記憶が脳内をかける。
「本当はあれ、誰にも見せる気なんてなかったんだ。弱い自分なんて人に見せたくないでしょ?普段あんなに元気なのにーって、そーやって変に周りに意識されちゃうの、辛いの」
「けど、先生には見られちゃった。一瞬だったかもだけど、先生の表情が変わるのがわかったの。あ、見られちゃったんだな……って」
僕は何も返せないでいた。彼女の発言一つ一つに言葉を返すには、僕の言葉ではあまりに軽薄すぎた。
「だから、約束して。日記の事は、誰にも言わないで。齋藤ちゃんにも、友達にも、そして家族にも」
彼女の手に力が入るのが目に見えた。
「約束して。この私、"佐々木ゆの"と」
「……もちろんです。約束です」
良かった、と彼女は両手で僕の右手を包んだ。不安が解けたのか彼女の瞳からは数滴の涙が流れた。それを大袈裟に袖で拭うと彼女の目は赤くなっていた。
けれどその時に、懐かしい記憶が僕の脳内を駆け巡っていた。思い出した。四つ葉のクローバー、そうだあの子に教えてもらったんだ。
どうして忘れていたんだろう──。
『──じゃあ僕の夢、きまったもん』
『えーはやい、つまんなーい』
『決まったからいいの。えっとね──』
【ゆのちゃんがどこに行っても、笑っていられますように】
○◎○◎
「あら、今日先生いないの?お休みだったかしら」
患者の体調確認を終えて部屋に戻ると、久保田さんが私に問いかけた。
「佐々木さんとピクニック行っちゃいましたよー。モテる男は大変ですねえ」
「何その面白そうな話。先生と患者のイケナイ関係ってやつ?」
まるで昼ドラでも見るようにニタリと口角を上げた。いつもの久保田さんらしいなと思いながらも、おかげで少し気持ちが楽になった。
佐々木さんから相談を受けたのは2週間ほど前の事だった。初めは、外に出ることは許されるのかどうか、という曖昧な質問だったが、時間が経つにつれその内容は明瞭化していった。
そしてその真意に気付いた時は、正直気が気ではなかった。夢であって欲しいな、と思った。
そんなことを思ってしまう私は性格が悪いと自分を卑下しながらも、それでも気持ちを隠して佐々木さんに協力出来た自分はよく頑張ったと何度も慰めた。
きっと彼女は、先生のことが好きなのだろう。それもこの病院に来てからの話ではない。きっと、もっと前からだ。
対して先生の方は、佐々木のことを覚えていないのか少し反応が薄いように感じていた。けれどそれも時間の問題だろう。いや、きっと今頃、その真意に気づいたのかもしれないな。
なんて考えていると、久保田さんは不思議そうに言った。
「大丈夫?今日元気ないわね」
私が持っていた書類を久保田さんが半ば強引に引き取ると、おもむろに整理を始めた。
「無理しちゃダメよ。乙女の体は繊細なんだから」
「……ありがとうございます」
きっと今頃、先生は気持ちに気づいているのだろう。気づいてしまったらどうなるのだろうか。
私の目の前から、消えてしまうのだろうか。
私が先生の1番近くにいる、なんて、思ってたのにな。
「そろそろ日が暮れそうね。先生も戻ってくる頃なんじゃないかしら?」
「……そうですね、お昼ピクニックでエンジョイだなんてずるいです。たっくさん茶化しちゃいましょ」
「ようやく元気が出たみたいね。もちろん、容赦なんてしないわよ」
ああ、怖いな。
帰ってくるふたりは一体、どんな表情をしているのだろう。
きっと2人は当たり前に帰ってきて、彼女の病状も治っていくんだろう。そして、ゆくゆくは元気な子宝にも恵まれて……。
そんな、在り来りながらも幸せな人生が待っているんだろうな。羨ましいな。と、そう思っていた。
翌日の朝、彼女の部屋からナースコールが響くまでは。
彼女の容態が急変したのだ。
これまで前触れがなかった訳では無いが、それでもその時が来るには予定に対してあまりに早かった。すでに歩くことは難しく、車椅子での移動を強いられていたほどだった。
どうやら昼前に源くんが佐々木さんを遊びに誘おうとしたところ、彼女はベッドの上で胸を押えて苦しんでいたのだそうだ。慌てた源くんは急いでナースコールを押した。普段ご年配の方々と接する場面が多く、ナースコールを押す場面を何度も目の当たりにしてきたのだろう。
「佐々木さんっ」
先生が名前を呼ぶと霞んだ瞳で振り向いた。だが応答できるような余裕はなく、依然苦しそうに体を丸めている。一刻を争う事態だ。その言葉が、この空間にいる人間全てが分かるほどだった。
「手術の準備を」
「はいっ」
先生の一声が院内に大きく響き渡った。
○◎○◎
もって1週間。
その言葉が彼女はこの言葉を聞くと、ふっ、と何か諦めたようなため息をついた。
「薄々分かってたことです。この両足が上手く動かなくなった日から、もうすぐ近くまで来てるんだろうなって」
「……できる限りを尽くします。まだ可能性がゼロになった訳じゃないです。だから、まだ」
「いいんです」
いいんです、と復唱すると彼女は優しく微笑んだ。
「こんなにも貴重な1週間は無いです。だって、ホントのホントに、終わりなんだから。この一週間だからできることだって、きっとあるでしょ?」
言葉を飲んだ。そんなこと、あるわけが無い。声を大にして、彼女を説得したかった。もっと生きて、生きて笑って、幸せになってくれ、と。
だが彼女の優しい表情を見ると、口にはできなかった。私の人生なんだから私の好きなようにさせて。そう言っているようだった。
「手術も要りません。このまま寿命を全うします」
「……佐々木さん」
「だから、最後に一つだけお願いさせてください」
彼女が人差し指を立てる。
「この一週間のうちに、四つ葉のクローバーを見つけてきてください」
それが見れたら、何も悔いなんてありません。と足した。
「分かりました」の言葉を何とか声にした。
僕は彼女が差し出した小指に、契りを交わした。
○◎○◎
「先生ったら、またお外で源くんと遊んでるわ」
久保田さんが窓から見える先生を見て、ぽつりと声を漏らした。
「ふふん、お外遊びに好きなんですよ。なんせ男の子なんだから」
「もうそんなお年頃じゃないでしょうに。しかもあんなにもザ・インドアって感じの人がねえ」
「……たしかに」
久保田さんと佐々木さんが声高らかに笑った。けれど、私は上手く笑うことが出来なかった。こんなに笑顔な子の女性も、数日後にはこの世を去ろうとしているのだと思うと、喉の奥が閉まった。
「あれれ、もしかして気使ってる?やめてよ、そんな今日死ぬわけじゃないんだからさ」
「……佐々木さんは、強いですね」
「ふふん。今更気づいたかー。齋藤ちゃんも鈍感だなー」
ばか、と言わんばかりに久保田さんの目付きが怖くなった。
「でもね、実際のところ強くなんかないよ。毎晩毎晩泣いてるし、もっとこーしたかったな、あーしたかったな、って思ってばっかり。小説だって、私が書いたもの1つくらい残したかった」
小説家を断念した、という話は依然先生からは軽く聞いていた。けれどその一言では言い表すことが出来ないほどの想い、葛藤があったに違いない。
「でも、そんな時にいつも私を助けてくれる言葉があるの。とても、温かい言葉」
彼女がニタリと笑う。
「……これ以上は言えないなあ。別料金貰わなきゃっ」
「ええ、いくらですか?」
「ざっと、齋藤ちゃんと久保田さんの2人分の生涯年収!」
「払えませんよ!」
ざんねーんと意地悪に笑った。やはりこの女性は強い。不安そうに話す私に、むしろ元気をくばっているのだから。下を向かないで、あなたには明日があるでしょ。そう訴えるようだった。
「では佐々木さん、お大事に」
「ありがとー!2人とも大好き!」
徐々にドアは閉まっていった。まるで今まで我慢していたかのように、大きく咳き込む彼女の声をかき消しながら。
○◎○◎
余命宣告から5日がたった。
日が経つにつれ彼女の容態は悪化していた。最後の検査を行うと、早くて今日が最後になるのだろう。という結果だけを残した。その事実を伝えると、
「じゃあ、今日の夜は先生と過ごしたいな」
と弱い声で話した。
「約束、覚えてるよね」
という脅し文句も付け足されてしまった始末だ。
彼女が再度差し出した小指は、心做しか以前よりも細いように思えた──。
「赤べこ先生ー。見つかんないよー」
「きっとある、きっとあるからもうちょっとだけ頑張ろう」
「うん!ささりさんのためだもん」
僕が草むらでクローバーを探していると、後ろから源君が声をかけた。どうやら彼もまだ四つ葉のクローバーを探していたようだった。心強い仲間ができたと思いつつ、本当に見つかるのだろうか、という不安が僕この心の大半を包んでいた。
いやきっとある。見つけなきゃ行けないんだ。彼女との約束だから、という想いもあるが、内心は幼かった佐々木さんから聞いた「四つ葉のクローバーは願いを叶える」という言葉を信じていた。
このような迷信を信じるのは、医師としては失格だろう。けれど藁にもすがる思いで探し続けた。
探し続けた。気づけば指はすりむけて、腕には擦り傷が増えていた。けれど、それでも探した。そんなことが辞める理由になりうるわけがなかったからだ。
額に汗が溜まり、気も遠くなりかけたその時だった。
源くんが手を止めると、ゆっくりと右手を上げた。
「ねえ、先生。これ、もしかして……」
彼の右手を見ると、綺麗に葉が4つに分かれたクローバーがそこにあった。
○◎○◎
彼女の咳き込む声が、誰もいない部屋に響いていた。
その部屋の扉を開けると、彼女は驚く様子もなく、ただ、遅かったね。と言うだけだった。
「すみません、遅くなりました」
「約束通り来てくれたんだから、許してやろう。さてさて、約束の品はあるかね?」
まるで悪代官のように野太い声で僕に迫った。
小さなクリアケースに入れたクローバーを彼女に渡す。「どうぞ、約束の品です」そういうと彼女は息を飲んだ。
「……本当に、見つけてくれたんだ」
先程のテンションとは打って変わり、ただじっと、クリアケースに入ったクローバーに夢中になっていた。
「源君が協力してくれたんです。佐々木さんのためならって、張り切っちゃって」
「……源くん」
「見つけたのは源くんなので……」そう言うより先に、彼女は「ありがとう」と涙を流した。まるで決壊したダムのように、大粒の涙を流した。
「ゆのちゃん。これでようやく、小さい頃の約束が果たせるね」
名前を呼ぶと、彼女の涙は止まった。「どうして」と小さく声を漏らす。
「言ったでしょ。『ゆのちゃんがどこに行っても、笑っていられますように』って」
「……覚えてたの?」
「思い出したんだ。あのピクニックの日に。全部ね」
彼女は吹き出しそうな涙をこらえるように唇を噛むと、僕の袖に強く抱き着いた。「もう一生、呼んでくれないのかと思ってた」そう言って大きく声を上げた。
「ごめんね。でも、もう忘れることは無いから」
「……うん、うん」
彼女は何度も頷いた。
彼女の体温がじわじわと僕にも移っていく。
遂には僕も決壊してしまった。彼女を前に、我慢などできるはずなどなかった。
ようやく落ち着くと、話を切り出したのは彼女の方だった。
「……実はね、私、四つ葉のクローバー見つけたの。ほら」
『闘病日記』と書かれた日記を開くと、そこにはテープで貼り付けられた四つ葉のクローバーがあった。
「ビックリしちゃった。このクローバーを見つけたその翌月に移った病院に、まさか先生がいるんだもん」
「……先生って、昔の呼び方でいいよ」
「先生で慣れちゃったもーん」
可愛く唇をとがらせると、彼女は話を続けた。
「最初は夢だと思ったよ。もう病気も治らないって分かってたから、幻覚でも見えるようになったんだなって。けど違ったの」
「……」
「本当に先生がそこにいて、そして今、私のためにクローバーを見つけてくれた。これって、私が願った夢と同じなんだよ。覚えてる?」
試すようにこちらを見つめる。そうだったかな、と頬をかくと彼女はやっぱりと言いたげな顔で説明を続けた。
「『王子様と運命的な出会いをして、大好きなことの話を先生とする』って願ってたんだ。そしたら見事。先生とは運命的な再会をして、今はまた、昔の話をしてる。ほらね?」
そういえばそんな話をしてた。
彼女が楽しげに話すから、自然と僕も口角が緩んでいた。
「だから気づいちゃったの」
「なにに?」
「四つ葉のクローバーのクローバーの話は、迷信じゃあないってね」
彼女は続けた。
「……先生が昔言ってたでしょ。『私がずっと笑っていられるように』って。でもそれ、凄くずるいんだよ。だってずっとってことは、私が病気で辛い時だって笑顔でいなきゃ行けないってことでしょ?ほんとに、拷問かと思ったよ」
「……僕がクローバーを見つける保証なんてなかったのに、?」
「見つけた時にそれが"嘘"にならないように。だよ。私がかなったのに先生が叶わないんじゃダメでしょ?」
頬を大きく膨らませると、彼女はツンとした目でこちらを睨んだ。
「けど、別に嫌だったわけじゃないんだ。そのおかげで色んな人と仲良くなれたし、色んな思い出だって増えた。 それに、嫌なこととか辛いことだって、この約束を思い出したら忘れることが出来たの。まるで魔除けの"赤べこ"さながらだね」
上手いこと言った、と言わんばかりに彼女はドヤ顔を披露した。
「それほどでも」
「ほんとに、色んな人と仲良くなれたなあ。ほら、齋藤ちゃんだって」
「斉藤さん?」
「先生のこといつも気にかけててさ、それにまるで気づかないダメダメ先生もいるんだけど」
「……いつもフォローしてくれるのは気づいてるよ。久保田さんからいじられてる時とか、」
「そういう意味じゃないんだなあ」
彼女は楽しそうに笑った。
「結局話したいことは一つだけ。この人生に悔いは無いよ。先生とも再会出来たし、お互いの願い事だって叶った。こんな人生、私が想像してたよりも何倍も幸せだよ」
「僕も、ゆのちゃんとまたこうやって話して、笑っていられることが凄く嬉しい。どうせなら、ずっとこうしてたいくらいだよ」
「嬉しいなあ。けど、今日が最後だからね。贅沢はダメだよ」
それから何時間も、夜通し彼女と話し続けた。
それは幼かった頃の僕のエピソードに始まり、諦めた小説の話、転校してからの日常、はたまたこの病院に来てからの日常……言い出したらキリがなかった。
源くんには感謝してもしきれないね。
彼女は何度も両手を合わせた。僕もならって、手を合わせた。四つ葉のクローバーだって彼がいなければ見つからなかったからだ。
ここまで気兼ねなく話せるのはいつぶりだろうか。
彼女は涙を流して笑っていた。僕はその姿が嬉しくて、何度も泣いた。それを見てまた彼女が泣いて、。
何度も何度も繰り返した。一生続けばいいと思った。けれど、どうやら彼女は疲れてしまったようで、「眠くなってきちゃった。明日、また話したいな」と甘え声を出した。
「うん、また明日にしよう。次はとびきりの話題を持ってくるから」
「ええほんと?楽しみだなあ」
そう言うと彼女は静かにベッドに沈んだ。
おやすみ、と言い残すと、僕は部屋を後にした。
明かりを消すと、さっきまでいた部屋から1歩でただけだと言うのに、全く別世界に来たような気分になった。また明日。その言葉を頼りに、僕は目を閉じた。
そして翌日の朝。彼女は息を引き取った。
○◎○◎
「──もう、ゆのちゃんはずるいよ」
「ふふん、まだ私の方がおねえちゃんだもーん」
「……じゃあ僕の夢、きまったもん」
「えーはやい、つまんなーい」
「決まったからいいの。えっとね……」
「なになに、?」
「ゆのちゃんがどこに行っても、笑っていられますように」
「……」
ゆのちゃんは大きな口で笑った。どうして。何もおかしなことなんて言ってないのに。
「どうして笑うのさ。真面目に言ったよ」
「ごめんごめん、私が出てくるなんて思ってなかったから」
「もう」
「……じゃあさ、いつか私に、四つ葉のクローバーをプレゼントしてよ」
「ゆのちゃんに?」
「うん。そうしたら、私たちの夢どっちも叶うことになるでしょ」
「……」
「約束しよ、大智くん」
「……うん。ゆのちゃん」
2人は小さな小指を交わした。
いつかくる、約束の日を想いあって。