蒼のうたたね
「蒼!どしたん?早くおいでー」
「あ、うん」
言いながら、リュックの中が異様に軽い事に気がつく。
「あ〜〜〜〜〜〜!」
「蒼?うっさ」
「ごめん、宿題教室に忘れてきた!先帰ってて」
「え、待ってるよ!?」
そう言ってもらえたけれど、裕香が前を歩く咲森くんと同じ電車に乗りたいのは、明白な事だった。
「大丈夫!時間かかるし」
「あ〜、うん。じゃあまた明日ね」
ばいばい、と手を振って、蒼は教室へ戻る。
もう人もまばらな、放課後だった。
履き替えたばかりの上履きをまた履き直すと、階段を上がる。
スカートが足に絡まる。
乗りたい電車に乗れなさそう、なんて思うけれど、今日の資料を持って帰らないと、レポートに着手できないのだ。
教室のある2階へ上がると、もうすっかり人はいなかった。
きっと教室にも、誰も居ない。
ガラッ。
勢いよく、ドアを開ける。
目に入ったのは、春日うたたねの横顔だった。
春日うたたね。
クラスメイトの女の子。
色素の薄い、長いストレートの髪。
普段過ごしているグループが違うから、あまり話した事はない。
夕陽の入る教室で、一人。
机に座って、うたたねは、泣いていた。
泣いているって言うんだろうか。
ただひたすらに、涙を流していた。
え…………。
流される。
その涙に。
その整った横顔に。
感情が。
うたたねは何の反応もしなかったけれど、勢いよくドアを開けてしまったものだから、このまま居ないフリをするのにも無理があった。
出来る限りうたたねの顔を見ないようにして、教室に入る。
うたたねがいる机から、離れていてよかった。
机の中を探ると、資料にすべきプリント類と本が2冊、出てくる。
それを黒いリュックの中に押し込むと、蒼はまたリュックを背負った。
このまま走って裕香の後を追ってもいいけれど、きっと裕香は今日は一人にした方が喜ぶだろう。
「…………」
教室を出ようとして、立ち止まる。
制服のスカートのポケットに手を突っ込んで、立ちすくんだ。
ダメだ。
これ以上うたたねに近づいたら。
きっとこの感情に、飲まれてしまう。
ポケットの中で、ぎゅっとハンカチを握った。
ダメなのに。
このまま放っておいたら、もっとダメな気がする。
ハンカチをポケットから出すと、ズカズカと教室を横切り、うたたねに、ハンカチを差し出した。
猫のワンポイントが入った、パステルカラーのハンカチだ。
うたたねは、涙を流しながら、そのハンカチを目にし、そして蒼の顔を視界に入れた。
その時、初めて、それがクラスメイトの蒼だということに気づいたみたいだった。
目が、合う。
ダメだ。
この感情に、沈んでしまいそう。
キラキラと輝くうたたねの涙が。
あまりにも綺麗だから。
うたたねは少し悩んで、そのまま手を出さずにいた。
そんなうたたねだったから、蒼は仕方なく、うたたねの顔にハンカチを押しやって、ゴシゴシ擦ると、そのままハンカチを手に押し付けて、教室を出た。
うたたねは押し付けたハンカチを手に取らなかったものだから、ハンカチはそのまま、うたたねの細い膝の上に落ちた。
バタバタと階段を降りる。
昇降口の下駄箱に寄りかかり、蒼は、必要以上に上がった息を整える。
目をつむる。
頭の中からうたたねの事を追い出さないと、と思えば思うほど、あの濡れた綺麗な瞳が思い出されて仕方がなかった。
こんな気持ち、ダメなのに。
横顔が綺麗だった。
涙はもっと綺麗だった。
なんで泣いてるのかなんて、気になんてならなかった。
ただ、思うのは、その涙を流させたのが、私じゃないって事だけだ。
もし、
あの涙を、
流させたのが私だったなら。
思ってしまって、息が苦しくなる。
こんな感情、ダメに決まってる。
けど。
あの瞳がもし、こっちを向いてくれたなら。
もっと泣かせたい。
あの瞳からこぼれる涙をもっと見たい。
この手で、触りたい。
心臓を、ぎゅっとされたようなこの感覚。
芽生えてしまった感情は、もうなかった事にはできなくて。
息を止めたまま、全力で外へと駆け出した。