彼なりの社交
夜の冷気が火照った頭を包み込む。
「いいのか、また彼を任せて」
「ええ。お気になさらず。今回は私が勧めすぎてしまいましたし」
「それならいいけど……。彼、大丈夫か? 明日は休みと聞いたけど」
「さあ。どうですかね。とりあえず、明日は二日酔いでしょうね」
「違いない」
空を見上げた。星よりも、周囲の光が眩しい。すいと視線を下すと、闇に解けてしまいそうな髪の毛が視界に入った。見知った少女と公園周辺以外で遭遇するのは初めてだった。運よく、向こうもこちらに気が付いたらしい。笑顔で手を振ろうと右手を高く上げるが、少し考え込むとその手を頭の高さにまで下げて、いわゆる、敬礼ポーズというものにした。その代わり、元気に左手で手を振る。
高科は彼女の変な対応に苦笑しながらも、左手を挙げて応えた。
直後、背後の高級店から現れた紳士が少女に手を差し伸べる。少女は紳士の手を取ると、その場を去ってしまった。
もう少し待っていると、井口が呼んだタクシーがやってきた。暇を告げた彼を乗せたタクシーを見送らず、高科は店内へ戻った。
あの日も、この場所で、三人でお酒を嗜んでいた。
電話がかかってきて、井口が席を立つ。まだ久保田があまり飲み進めておらず、普通に会話できる段階だった。
先日、気になる少女に出会った。
それを何気なく久保田との会話の話題にすると、
「高科、そういう趣味だったのか?」
彼はからかうようにそう言った。久保田に冷たい視線を向ける。
「あくまでも、研究的興味によるものだ。君にはデリカシーというものが無いのか?」
久保田は目をそらし、話し始めた。
「“ゆかりの家”っていう養護施設の子だった。助かったよ、その子のおかげで証言者が手に入った。犯人を厳しく処罰できる」
「それはよかった。で、その勇気ある証言を促したという女子の名前は?」
「お前、本当に」
「いい加減にしろ」
さらに視線の温度を下げると、久保田は背広から取り出した手帳を開いた。
「えっと……ああ、ゆいのさえ。唯一の野原、彩りを重ねる。これで、唯野彩重」
「こらこら。睨むな、睨むな」
戻ってきた井口にそう諫められたが、納得いかない。
「こいつが変なことを言うのが悪いです。あれからまだひと月たってないというのに」
「あれって、どれ?」
「先日の事件、被害者は全員が未成年」
「ああ。連続殺人の」
「刑事なら少しくらい口を慎め」
「すみませんでした」
「あはは、高科も友人には厳しいのか。お前らしいな。おっと、久保田巡査! 盛り下がるなって、犯人逮捕の功労者! ほらほら、飲め飲め」
「ありがとうござい」
高科は久保田が手を伸ばしたグラスを横取り、一度に飲み干し、そのグラスをテーブルに押し付けた。
「こいつにあんまり飲ませないでください。後が面倒なんです」
成人式の翌日、久保田の誕生日での失敗は繰り返したくなかった。
こうしてわざとらしいほどにしゅんとしている若い刑事だが、ほんの少しだけ酒が入っているから素なのだろう。彼の隣の先輩からはどこか穏やかな視線が向けられ、なんとなく変な感覚があった。
犯人逮捕のきっかけとなった証拠品、証言を入手したのは他でもない。この新人刑事である。
「でも……今日くらいなら、許さなくもない」
高科のその言葉を合図に、井口はもう一度だけ久保田の前にグラスを差し出す。
まもなく、久保田は完全に出来上がり身体をテーブルに投げ出していた。解散する際、井口に「タクシーを捕まえてこようか」と提案されたがこの男は少し休憩させておいたほうが良いことを知っていた高科は、少し一人でいたかったこともあり、それを断った。
先日の事件。
事件最後の被害者は“ゆかりの家”という養護施設の少年で、誘拐途中に保護された。始めは証言することを恐れていた彼だったが、彼の勇気によって警察は犯人逮捕に踏み切るに至った。
久保田に呼び出された高科も、その場にいた。他でもない、証拠の鑑定は本人から物を受け取った高科が行った。当初は、その証拠品を提出することも、証言することも、被害者は前向きでは無かった。唯一の目撃者は、刑事の目を見れず俯きがちに質問に被りを振るだけだった。
しかし、数日後に状況は一変する。
怯えを瞳に張りつけながらも、勇気を握りしめた少年は刑事を真っすぐ見つめ、貴重な情報をもたらした。
その理由を、高科は知っていた。
偶然だった。
生活圏がほとんど重なっていたから、偶然、見かけた。あの少女が証言者となった少年と何か話しているところを、離れた場所で見ていた。
天使のような笑顔。
聖女のような慈悲。
それらは、子どもであることを最大限に生かして裏打ちされた言動と人格。健気も不器用も、計算のうちなのだろうか。
「唯野……彩重、か」
「おーいーぃ、聞いてんのかよーお!」
隣で突っ伏せている友人の面倒な絡みで、ふと我に返った。
「ああ、うん。もちろん」
(全く聞いてなかった。ごめんね。)
心の声を発音しないように気をつけながら相槌を打った。
「じゃあ、俺の話していたこと当ててみろよ」
「仕事の愚痴」
「なんだよ、聞いてたのか……」
(酒弱いくせに飲み過ぎて判断力が欠如してる。悪酔いしないでくれよ? 君を家まで送っていくのは誰だと思っているんだ。)
内心は不満しかなかったが、ここで彼の言葉を途切れさせてしまっては、帰宅後の彼の夫人に申し訳が立たない。
「それで、続きは?」
「ったくよぉ……! そんなに解かれたくない問題作って、瞬殺されたらイラつくなんて。ホント、良い御身分だよなぁ……。こっちには、解きたくてもまるっきしわからない謎があふれているっていうのにぃ!」
「そんなもの、どこにあるっていうんだ」
面倒な気持ちが滲み切り打たれた相槌に、久保田は急に顔を上げると居住まいを正した。グラスからも手を放す。高科はそれに倣い、彼の言葉を待った。
「時効があっても無くても、未解決事件は無くならない。被害者や遺族じゃない俺たち警察や司法関係者にとって事件は、犯人を捕まえてそいつが反省し更生したら終わっちまう。
だからこそ、犯人が適切な罰を受けることで彼らの気持ちをたった、ほんの少しを和らげることができると信じて俺らは事件に向き合う。
それなのに、どうしても、解けない。そんな謎が、あるんだ」
久保田はすべてを一気に飲み干してグラスを机にたたきつけた。
「作り話の名探偵は、この世にはいないんだよ!!」
「そう、だな……ごめん」
謝罪すると、再度テーブルに突っ伏せる。
「もうやだよぉ……俺、この仕事……向いてねえよぉ……」
「久保田くんが転職するなら、僕もするよ。そのときは言ってね」
「なんでだよぉ……」
「僕はね、人間関係を円滑に構築するのが苦手だ。大学の研究室に残ることも、一度は考えたよ。けれど、あの場所は……苦しかった。学問よりも派閥の方が重要ランクにあってさ。だからこそ、君の言葉に……あの言葉に救われた。
おかげで、今の僕がいるんだ」
そこまで告げると、つまみに箸を伸ばす。
が、その腕を久保田につかまれ、駄々をこねる幼子のように左右に振られる。
「そーじゃなくてーぇ……とめてくれよぉ。寂しいじゃんかぁ! 俺、今の仕事、好きなのにーぃ……」
ここでイラついたら負けだ。相手は酩酊状態。ここでイラついたら負けだ。相手は……
何度かゆっくり脳内で唱えてから、応えた。
「うん。今の言葉は忘れて。君はとっても警察官に向いているよ。だって、この世で最も優れた刑事だもの。うん、君は生まれながらの警察官。うん。きっと、警察官として最も優れているよ」
「たっかしなーぁ! やっぱ、親友っていいよなぁ!!」
「うん、そうだね」
(下戸のくせに、暴飲しないでくれよ。
ああ、私も私か。久保田くんと飲み交わすと、必ずといって良いほど変なことを言ってしまう。なぜだろう?)
心の中で友人と自信に向けて不満を漏らしながら、箸を右手に持ち替えて器用につまみを口に運んだ。
咀嚼しながら、友人の言葉について思考する。
「解けない謎、か……」
意味はないが、つぶやいてみた。
「唯野……ユイノ……」
――――あらあら、まーたそんな食事して。健康に悪いわよ?
不意に、そう言って笑っているあの人を思い出した。
(高校生、いや、大学生のころだ。)
自分はそのとき、何と答えただろうか。当時は、他人にさほど興味を覚えることができなかった。久保田ですら友人といえるのか怪しいほど人にかかわることがなかった。
「ねえ、久保田く……」
安らかな寝息を立てている友人を隣に、高科はつまみと酒を交互に口に運びながら、時間をかけて思考する。
しばらくして、一つの結論にたどり着く。
あの人が死んだ事件も未解決事件ではなかっただろうか、と。