友人の一日
今日の目覚めは好きじゃない。悪いのは寝相でも前日の行動でもない。今日、この日が好きじゃないだけだ。
久保田はゆっくりと体を起こし、簡単に身支度を済ませる。
「いってきます」
家を出る前に娘にそう言うも、返事はない。久保田は悲しげな微笑を写真へ向けた。
「あら、もう出るんですか?」
「ああ。ごめん、起こしたか」
「目は覚めていましたから、気にしないでくださいな。いってらっしゃい」
「いってきます」
今日はできるだけ仕事に精を出していたかった。そうすれば、他のことは考えないでいられる。久保田にとって、今日はそういう日だった。
とある警察署内のある会議室。
「それにつきましては――」
起立して淡々と解釈した資料内容を述べる高科を眺める。
(やっぱ、機械だよなー。もう少しだけでも性格がマシなら普通の優良物件だろうに。どこでねじ曲がったのやら……。あー、高校の時点で捻じ曲がってたもんなー。仕方ねぇかー。)
久保田は、誰にもばれないようにため息をついた。
「お手元の資料が全てです」
「だから、一〇〇パーセントだと断言できないんだろう? 鑑定の意味がないじゃないか」
会議室で向かい合うようにして着席している幹部へ嘲る視線を投げた。
(あー、あー……経験の浅い人間がエキスパートぶるなよ。国家試験に受かった時点で頭が良いことは承知しておりますから、高科にそういうこと言うなって……。)
彼のスイッチが入ってしまったら、止めることができる人間はおそらくこの場にはいない。久保田も、止められる自信はなかった。
「ええ、確かに。DNA鑑定において、現在の技術で一〇〇パーセントと断言する結果は出せません。ですが……」
高科は、そう言うとゆっくり口角を上げてみせた。
その瞬間、場に居合わせた数人は、周囲の温度が下がったことを錯覚した。
(あ……これ、やばいやつだ。)
久保田は直感した。
このままでは、高校時代にクラスメートや教師を泣かせてきた通称“高科トーク”が再来してしまう、と。
しかし、何が起こるか分かっていても高科の近くにいない久保田に為す術はない。
「あなたが――」
「高科くん、そこまで……!」
隣の女性が小さく叫びを上げた次の瞬間、高科はガタンと着席した。
彼女が後ろに引かれた高科の席の椅子を思い切り彼の膝裏あたりにぶつけたのだ。
それによって、膝カックンの要領でバランスを崩した高科は椅子の座面に腰を下ろすことになった。
彼女は立ち上がり、高科の手にあった資料を奪い取った。
「失礼いたしました。ですが、科学者の立場から意見させていただきますと、この数値ならば本人と断定して差し支えありません。科捜研からは以上です」
丁寧にお辞儀した彼女に、高科はそれなりに大きな声量で文句を言ってみる。
「向こうが悪いのに、どうして止めるのかなぁ……」
しかし、彼女は何も言わずに隣に着席する。
「あの、大原さん」
何も言わない彼女に高科が呼びかけると、背筋が凍るような視線が返ってきた為、とりあえず姿勢を正した。
久保田は、彼の職場にはまともな人もいるのかと安堵を零した。
久保田は会議が終わると、最短距離で高科の元へ向かった。
「おい、高科」
「何?」
「何、じゃあねえよ。なんでイラついてるんだよ」
「別に……」
学生時代の付き合いが無くても、何かあったことは明白だと思った。
そして、ふと、携帯で曜日を確認した。
「そう言えば、昨日もあの公園に行ってきたんだよな。何かあったのか?」
「……昨日」
高科は不機嫌そうなことを隠そうとせずに話し出した。
「つまり、自信作を即答されて拗ねているところで捜査会議に召集され、上層部に八つ当たりってことか。ガキかよ」
久保田は、彼の回想を要約すると呆れ気味に訊き返した。
「は? 拗ねてない。悪いのは向こうだ。私は科学の名誉を守ろうとしたんだ」
「どうだかな。同僚さんにまで気を遣わせて……つーか、お前の知識量なら簡単に解けない問題なんかいくらでも」
「知識勝負はフェアじゃない」
久保田はわざと大きくため息をついた。
「それがロリ相手の辛いところだな」
「私がまるでロリコンだというみたいな言い方しないでくれないかな」
「違うのか? 毎週、特定の幼女と仲良しこよししてるじゃないか」
「久保田くん、それがロリコン認定条件ならば、保育園や幼稚園、小学校で働く大人は全員ロリコンないしはショタコンということになるのだが」
「それは……」
高科は久保田の反応に白衣のポケットに手を突っ込んだまま肩をすくめてみせた。
「他者に不快な思いをさせたり危害を加えたりしない限り、趣味も性癖も言動もそれぞれ自由で構わないと思うけれどね。
ああ、そうだ。一応言っておくが、あの子は私の研究対象。もとから、そのような俗な目線を用いていないよ」
「……はいはい、そうだろうな」
一度、高科の主張に目を見開いた後、久保田はため息交じりにそう呟いた。
満足そうにした高科は不意に立ち上がる。
「ね、久保田くん。問題、出していいかな?」
「問題? あー、はいはい。どうぞどうぞ」
ゴーサインを出してやると、わずかに高科の瞳の角度が変わった。
「これが基本だ」
(ピースしながら何言ってんだ?)
そう思いながらも横やり入れずうなずいてやった。
「これが、二」
そう言って、今度はパーにする。
「それで、これが五」
すると、三本の指を立てた。
「最後に、これは?」
人差し指だけを立てて、挑戦的な視線をよこしてきた。
「前に立ててた指の本数が答え。だから、三だろう?」
「お見事、完璧」
「これで作問か? 子どもだましだな」
からかうように言うと、
「うん。でも、君に解けたならあの子は一瞬もかからず解けてしまうだろう。別のを考えるよ」
と、何の悪気もない答えが返された。
(こいつ、殴ってもいいかな)
久保田は右手に力が入ってしまった。
「先輩ー、やーっと見つけた! 班長が読んでるので、来てください」
「ああ、悪い。すぐ行く。それから、子供相手なら現物を出して問題作ってみたらどうだ? 小銭くらい、持ってるだろう?」
「なるほど、参考にする」
「ん。じゃあな」
「うん。またね」
帆澄に促され、その場を去った。
先輩から事件解決の祝いに、と飲みに誘われたが「すみません」と断った。
今日は仕事に打ち込んで他のことを考えないようにしたい日だった。
「まだやるのか?」
「まあ、一応。確認です」
「そうか。あまり根詰めすぎるなよ?」
「ご心配ありがとうございます。気をつけます」
「そうか。じゃあ、お疲れさん」
先輩はデスクに缶コーヒーを置いて暇を告げた。
「ありがとうございます、お疲れさまでした」
缶コーヒーはまだ熱い。わざわざ自分のを買ってきてくれたのかと思うと、先輩の気遣いが嬉しかったし、ありがたかった。
プルトップを引き上げる。深呼吸の要領で空気を取り込むと、特徴的な匂いが鼻孔をくすぐる。
そのとき、携帯の着信をバイブレーションが教えた。
発信元は、井口。高科の職場の先輩にあたる、気さくな人だ。
「はい、久保田です」
「来週の金曜日、高科と飲みに行くんだけど、その日、空いてるかな?」
「空いてますけど。あの、あいつが? 本当ですか?」
「もちろん! 高科のクソみたいなサインも完璧に真似できるから書類の提出は心配いらない」
「ちょっと。文書偽装は犯罪で、俺は刑事ですよ?」
「し、しまった! ど、どうか聞かなかったことに……」
どうやら友人は職場の人間に恵まれているらしい。彼の学生時代を知っている久保田としては安堵しか存在しえない。
「それで、場所は?」
「参加?」
「あいつと飲める機会なんて滅多にありませんからね」
日時などを決定し、雑談してから通話を終了した。
缶コーヒーを一度に飲み干し、帰り支度を進める。
不意に、声を聴きたい相手の顔が思い浮かんだ。携帯を方と耳の間に挟んで、相手の応答を待った。何度目かのコールの最中に
「はい、久保田です」
と、声が聞こえた。
「ごめん、香奈。忙しかったか?」
「あら、珍しい。本を読んでいただけですよ。どうかなさったの?」
「いや、少し話したくて。今日はもう帰るから」
「それでは、家で待ってますね」
「うん。何かいる? 食べたいものとか」
「そうですね。甘いものが欲しいですね」
「わかった、何か買って帰るよ。じゃあ」
「はい、切りますね」
通話を切ってから、しばらく携帯を眺めていた。
この日に、妻と普通の会話をするのは久しく無かった。案外、気負わずにいられた気がして、そっと安堵が混じった息をつく。
「よし……」
久保田は数年ぶりに軽い足取りで職場を後にした。