できない理由
澄み渡った青空と爽やかなそよ風。数度だけ傾いた太陽が遮るものがないために地を温め、気温はしばらく下がりそうもない。
高科は特に意味もなく黒の革靴を履いていることを、普段通り運動靴で出勤しなかったことを、後悔していた。
「先生!」
声に反応すると、ランドセルを背負ったさえが見えた。立ち止って駆け寄って来るのを待った。
「答え合わせしたいですっ」
「ああ、愛莉さんに渡した問題のやつか」
公園まであと一分程度。
こくりこくりとうなずいたさえに対し、ゆっくり歩を進めながら出題した問題の確認をする。
「どこかに優秀な捜査官がいた。その捜査官が偶然、ある事件に遭遇した。彼は拳銃を持っていて、犯人を正確に狙撃することは可能な場所にいた。市民もその場にたくさんいたから、まずは犯人を威嚇しようとした。しかし、彼は拳銃を撃てず、犯人に返り討ちにあってしまった。さあ、その原因は?
……だったかな?」
「はい、それのことです!」
「さて。答えは?」
「事件って、飛行機のハイジャック事件なのでは? それも、飛行中の。
バーンってできたとしても、その弾が原因で飛行機の機体に穴が開いちゃったら……捜査官の人は咄嗟にそう考えちゃったんです。それで、戸惑った隙に犯人に返り討ちにあった。
どうですか、先生っ?」
「その通り」
「やったぁ!」
公園に到着し、数分で食事を終えると、二人は折り紙をしながら他愛もないことを話しはじめた。
「先生の将来の夢は、なぁに?」
「将来の夢?」
「六年生のおねーさんたちが、学校で将来の夢について話すの。シュクダイなんだって」
「そういうことか。私は……その頃は、会社員だったかな」
「あれ、カガクシャさんじゃなかったんですか?」
「小学生だったからね。でも、後に科学の良さに気がついたんだ」
「ええっと、どういうことですか?」
高科は、首をかしげる少女に意地悪く質問した。
「空はどうして青いのか。わかるかい?」
「うーん……」
さえは考え込んだが、やがて高科を見上げる。
「地球の周りには、オゾンという物質の層があるんだ。それに太陽の光がぶつかると、拡散したり曲がったりするんだよ。すると、私たちの目には見えやすい青い光が届くから、空は青く見える」
「どうして青い光なんですか?」
今度は反対側に首を傾げ直した彼女に、簡易的に説明した。
「私たちの目に適しているのと、青い光は波長が短いからだよ」
「はちょう?」
「光も音も、その正体は波なんだ。それで、青い光は波が小さいから散乱しやすくて……」
ここまでで説明をやめることにした。さえの、その頭の上には数えきれないほどクエスチョンマークが見えるようだったからだ。
詳しく説明しようにも、わかりやすく説明できる自信がなかった。この話はまたいつかしよう、と高科は話題を変えた。
「空が青いから、海は青いんだ」
「そうなんですか?」
「空の色が水面に反射している。海の色は、空の色さ」
「それじゃあ……曇っていたら、海は、雲の色になるの?」
「そういうこと。こういう、論理的に様々な事象を説明できる、そんな科学というものに魅力を感じたんだ。ほら、折り紙で恐竜だって作れる」
そう言うと、高科は完成した茶色のティラノサウルスをテーブルに立たせた。
「わぁっ、すごいです! ハサミ使っていないのに、とっても細かーい!」
「ハサミを使うなんて邪道だよ。折り紙を侮辱している」
「へーぇ……」
さえは小さな恐竜を面白そうに観察しながらそう呟いた。
「君の夢は?」
「はい?」
これは、後にも先にも、高科がさえ自身について投げかけた数少ない質問の一つだった。
さえは数秒ほど視線を下げると
「わたしは、みんなと楽しく過ごしたいです」
少し困った様子ながらも笑みを浮かべて高科を見上げ、答えた。
「みんなというのは、今の施設の彼らのことかな? 新しい家族とではなく」
「うん、そうですよ。今のままでいいの。わたし、今のおうちが大好きだから!」
「本当に?」
さえは年齢にそぐわない花のように麗らかな表情を浮かべる。
「うん。わたし、嘘ついてないですよ?」
「……そっか」
高科が思わず目を逸らすと、さえは話題を変えた。
「ねえ、先生。どうしてこんなに細かいことができるんですか? さえも、できるようになりますか?」
「折り紙は数学の織り成す芸術だ。まずは四則演算を極めるといい」
「シソク、エンザン」
「そう、四則演算。和差積商、聞いたことないか?」
「わしゃしぇき……わさ、せき、しょう」
「足し算、引き算、掛け算、割り算の答えをそういうんだ」
「足し算と引き算なら、わかります!」
「掛け算は、この前やった」
「ええっと……ああ、アボガドさん」
「アボガドロさんだ。もう九九はわかるだろう? だったら、あとは割り算だが、九九が完璧になればそう難しくないだろう」
「はーい」
その様子と腕時計を見て、高科は宣言した。
「それじゃあ、今週の問題を出そうか」
「はい、どうぞです」
高科はポケットのコインケースから一円玉を六枚取り出した。
そのうち四枚を横一列に、残りの二枚を左から二枚目のコインを縦に挟むようにして並べた。
「この状態では、横に四枚、縦に三枚に並べられているね?」
「はい」
「この六枚のうち、一枚だけを動かして縦と横、どちらも同じ枚数にすることはできるかい?」
「一枚だけ?」
「一枚だけ」
すると、さえは何の迷いもなく一番右のコインに触れた。
折り終えたばかりの二十六匹目の恐竜――赤いエウディモルフォドン――を蛍光灯の光にかざした。
今、このオフィスには、すでに二十五匹の、その昔、人間が誕生するはるか以前に地球上で生息していた大型獣がカラフルな紙によって生き返っていた。
(よし、次はドリコリンコプスだ。)
高科はエウディモルフォドンを、デスクに積み上げた本のさらに上の、オレンジ色のぺテイノサウルスの隣に設置した。
それから、再度まっさらな水色の折り紙を手繰り寄せた。その直後、オフィスの扉がノックされると遠慮がちに開かれた。
「高科、うわぁ……暇か?」
そう言いながら、井口は高科のオフィスに広げられたペーパー・ジュラシックパークに苦笑した。
「忙しいです」
高科はそう答えたが、彼は構わない。さすが、付き合いが長いだけはある。グレーのプテラノドンを軽くつついた。
(人の傑作に、なんてことをするんだ。角が曲がりでもしたらどうするつもりなのか。)
「ご用件は」
「所長が呼んでる。鑑定の連名してほしいんじゃないかな」
「ああ、そういうことですか。なるべく早く行きます」
「了解」
井口は少し口ごもりながら言った。
「悩みがあるなら、相談にでも乗ろうか?」
「悩みはありません」
「じゃあ、この折り紙動物園は何なんだ?」
「ただの学術的研究の参考ですよ」
「ああ、そうかい」
「そうです」
高科は折り終えたドリコリンコプスを井口に押し付けた。
「そうだ、仕事終わりに飲みに行こう。久保田刑事もくるんだよ」
「パスします」
「えー、たまには息抜きも必要だろう?」
「ご心配なく」
折り紙で恐竜を大量に折っていたのは、ほとんど無意識化であった。
それよりも高科の思考を埋めつくすのは、公園で研究対象が見せた初めての表情についてだった。解答直後に見せた、何とも言えないあの表情。瞳の奥には、子供らしからぬ歪んだ感情が垣間見えるような気がしたのだ。
しかし、なぜあの表情を見せたのか。答えが見つからない。
年不相応に鉄壁の仮面のような表情を崩せないものか。研究対象に選んだきっかけは、それであったはずなのに、研究の進歩に心が躍らない。むしろ、もやもやした嫌なものが胸を埋め尽くす。