表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/23

あの子の一日

 夜が深まり始めたころ。

 高級感ある黒い車が、施設の前に止まった。二人の品の良さそうな男女が降りると、もう一人、女の子が車から降りた。

 門瀬愛莉が待っていたのは、その女の子の方だった。


「お姉ちゃーん!」


 女の子は、満面の笑みで駆け寄ってきた。愛莉は、苦笑交じりに


「ほら、彩重。ご挨拶は?」


 と言った。


「おじさん、おばさん。今日はありがとうございました! バイバイ、おやすみなさい!」


 彩重は満面の笑みでそう言うが、夫妻は少し複雑そうな表情だ。今回もまた“お試しの日”を通してここまでの笑顔を見せてもらえなかったのだろう。


「白石さんですよね。あの、施設長とのお話でしたら、あちらの入り口から中へどうぞ」


 白石夫妻はわざわざ一度頭を下げたので、愛莉も恭しく頭を下げた。

 夫婦がその場を去ったのを確認すると愛莉は真夜中のような髪色の女の子、彩重に冷たい視線を投げかけた。


「人を演技に使わないで」


「あの人たち、こうでもしないと諦めそうにないんだから。仕方ないでしょ?」


 年不相応な眼差しとともに、彩重は悪びれる様子もなく返してのけた。


「ねえ、一八になったら例外なくここを追い出されるんだよ? 指名してる側も、良い感じの人たちじゃない。それなのに、どうして」


「どうして? 決まってるでしょ。あいつの相手はわたしだからだよ」


「…………勝手にしろ」


 愛莉は見た目よりもはるかに頑固な妹の頭を軽く小突き、何か言われる前に扉を開けた。


「むー、お姉ちゃんのイジワルー!」


 驚くべき変わり身の速さだ。

 この子はここに来たときからこうだった、と思わずため息がこぼれた。


「あっ、さっちゃんだ!」


「おかえりなさい!」


 そう出迎えてくれたのは、施設最年少の双子姉妹、鈴乃と美乃だった。施設前に放置されていたところを前施設長が保護し、名付け親になった子たちだ。服装で差をつけなければ見分けられないほどそっくりな彼女たちは彩重のそばに駆け寄ってきた。


「ただいま、リノミノ。今日の絵本は何だったの?」


「たつ兄ね、いそがしいんだって!」


「だからね、りく兄が読んでくれるの!」


「さっちゃんも、行こう!」


「うん、行くー!」


 愛莉は階段を上っていく三つの小さな背中を見送り、残りの家事に取り掛かった。


「あのさ」


 それを見計らったように、施設唯一の中学生である竜輝が台所に顔を出した。


「その話はあとで」


「だけど」


「もう一回言おうか? 竜輝の話聞いた限り、私は反対。あの不良朝帰り男が何て言うかは知らない」


 竜輝は何か言おうと逡巡したものの、結局は話題と視線を逸らした。


「彩重、帰ってきたの?」


「ええ、さっきね。陸があんたの代わりに読み聞かせしているから、リノミノ一緒にいるわ」


「そっか、まだ帰ってくるんだ」


 今度は、愛莉が何も言えなかった。心のどこかで全く同じことを考えていた。あの子がこの家にいるのは、絶対に自分のためじゃないと知っているから、わかっているからこそ、この家にはもう帰ってこないで“お試しの日”のあの白石夫妻のもとで幸せに暮らしてほしかった。

 竜輝は居心地悪そうにすると、立ち去ろうとした。

 しかし、その前に沈黙を破る声が響いた。


「ただいまー! のど乾いた、水」


 近くの公立高校の制服を着崩した昇杜がキッチンに現れた。


「他に言うことは?」


「飯は平気。向こうで奢ってもらった」


「そうじゃないでしょう、朝帰り男」


「もう夜帰りだけどな」


「確かに」


 愛莉は、昇杜と彼の言葉に同意した竜輝に冷たい視線を向けた。


「悪かったって。急に誘われてさ。怒んなよ。ほら、美容に悪えいきょ」


  手に掬った水ですべてを言い終わる前に昇杜の顔を濡らした。


「はい、お水。汗臭いからそのままお風呂入ってきて」


「愛莉、てめぇ」


「あ、すぐには寝ないでね。タツから大切な話あるから。いい?」


「何? 今でいいじゃん」


「いいから。ついでに眠気覚ましてきて」


「へーい」


 そういいながら 袖で雑に水気を取ると、ふと首を傾げた。


「そういえば、ちびたちは?」


「部屋だけど」


「静かすぎるだろ」


 この場の三人の頭には、過去のまったく同じ状況が頭に浮かんだ。


「上、行ってくる」


「クソがっ」


 二人がはじかれるように走り去る。一瞬、呆然としてしまった愛莉は出遅れてしまった。

 冷蔵庫から保冷剤を取り出す。

 少しすると、階段を駆け下りてくる軽い足音が聞こえてきた。


「あい姉、さっちゃんが……」


「リノミノは?」


「リノが泣き出しちゃったから、たつ兄が落ち着かせてるところ」


「そう。陸は何ともない?」


「うん。だけど」


「心配しないで、昇杜が迎えに行ったから」


「しょう兄? いつ帰ってきたの?」


「ついさっきよ」


そのとき、似た会話が聞こえてきた。


「ねえねえ、しょう兄いつ帰ってきたの? わたし帰ってきたときに寝てたの?」


「いや、数分前に帰ってきたとこ。ごめん、少し遅かったな」


「ううん、そんなことないよ。ありがとう」


 愛莉はハンカチで保冷剤を包んだものを彩重の腕に触れさせた。


「さっちゃん?」


「あ、陸くん。えへへ、さっきはびっくりしちゃったね」


「え、あ……それは」


 心配そうに声をかけた陸に対し、彩重はサプライズを受け取った直後のようなどこか楽し気な調子で返した。

 それから数時間後。

 年少者らを寝かしつけ、リビングには最年長の愛莉、その三つ下の竜輝だけがいた。重い沈黙が流れている。


「何だっけ? 眠いから手短に」


 昇杜がリビングに顔を出す。愛莉は席を立ち、竜輝は一つ深呼吸してから話を切り出した。

 少ししてから昇杜が愛莉の後を追うように台所にやってきた。


「愛莉はあいつに何て言ったん?」


「タツは?」


「寝ろって言っといた」


「そう。……急いで大人になろうとしなくていいよ、って。当面は、ちゃんと私が送金するから。だって、今も翔と私でギリギリなんだから、タツ一人に押し付けられないでしょう?」


「へえ」


「で、あんたは何て言ったの?」


「俺、社長な。っつった」


「……は?」


「書いちゃったー♡」


 楽しそうに書類を見せつけてきた。愛莉は受け取ると、その用紙に魅入られたように見つめる。


「それから、学歴が重要だからな。って」


「何考えてんのよ!?」


「そんな怒るなって。タツ、中卒で就職したいんだってさ」


「え?」


「ほら、知らなかったろ?」


「……だから、学歴が重要って言ったのね」


「優等生は頭がいいな」


「なによ、それ……」


 思わず両手に力が入る。

(最年長だからって、みんなを守れる気でいた。

 だけど、だれも私は守れない、救えない……小さな妹も、賢い弟も。)


「……情けない」


「いや、そういうことじゃ……愛莉」


「ありがとうね、タツの話聞いてくれて。おやすみ」


  愛莉が階段を上りだすと、背中から小さく「おやすみ」と声がした。

 部屋に戻るなり、壁を背にしてしゃがみこんだ。


「愛莉お姉ちゃん」


「起きてたの?」


  常夜灯程度の明かりに包まれた部屋で、彩重は愛莉のそばまで歩み寄った。


「わたし、お姉ちゃん大好きだよ。しょう兄も、たつ兄も、りくくんも、リノちゃん、ミノちゃんも、みーんな!」


「そうなの。嬉しいな」


「泣かないで。お願い……わたし、お姉ちゃんががんばってること、知ってるから……。優しいことも、たくさん嫌なことやってることも、ちゃんと知ってるんだよ?

 だけど……お姉ちゃんが悲しいと、わたし、嫌だよ。

 わたし、頑張るから。もっともっと頑張るから……」


 愛莉はさえの小さな頭に手をやった。そのまま柔らかな黒髪に指を滑らせ、頬に手を添える。


「それに……慣れたよ、わたし」


  この綻んだ、柔らかそうな、優しそうな、それでいて触れれば壊れてしまいそうな笑顔が嫌いだ。


「もういいの。ごめんね、こんなお姉ちゃんで……。さえは優しいね、ありがとう」


 愛莉はさえを優しく包み込んだ。


「寝よっか」


 さえは愛莉の腕の中でコクリと頷いた。


「ああ、そうだった。はい、これ」


「なにこれ?」


  少しくしゃくしゃになったルーズリーフを広げて文字を確認した途端、瞳を輝かせた。


「ありがとう、お姉ちゃん!」


「解くのは、明日。今日はもう寝なさい」


「ちょっとだけ」


「だーめ」


「……はーい」


 ルーズリーフを折りなおして枕元に置いてすぐに眠りについた。

 愛莉はしばらくその穏やかな寝顔を眺めていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ