表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/23

彼の一日

 

 高科は早朝から機嫌がよかった。

 ここ数年において、最もゆで卵の出来が素晴らしかったからだ。

 素人目にはこれまでと変わらないが、こだわる点が少ない彼にとってゆで卵の出来は唯一の執着点と言える。

 一〇年ほど前からゆで卵とサプリメントとコーヒーで固定されている彼の朝食において、ゆで卵の出来には彼の一日を通した気分と密接な関わりがある。

 生卵を三つ入れて常温水を溜めた小鍋を二〇分間火にかけた後は火を止めて五分間放置する、高科特製ゆで卵レシピが存在しているのだが、完成品の具合は不安定である。休日は改善のために研究時間にあてているものの、実験方法として確立できるほどの結果は残せていない。

 休みの日に研究を深めるため、ルーズリーフに今日用意した水量と火の強さ、加熱時間を秒単位で細かく記録しておく。

 それに加え、奇しくも今日は金曜日である。ある少女を研究対象とした実験は高科の中で一週間のアクセントとなっていた。

 実験と言っても、ただ会話しているだけなのだが。

 出勤の道のりでそんな彼の思考を支配するのは、実験のために出題する問題について。矛盾点は無いか、知識に頼らない出題となっているか。丁寧に確認する。

 フェアな問題と確認できるころには勤務する研究所の最寄り駅に到着していた。

 

 

 



 職務を消化しつつ、時間を確認する。

 日が傾くにはまだほんの少しだけ早いが白衣を脱いだ。中を整理した通勤バッグの中を片手に、所長を見つけて彼に少し出る旨を伝えると、いつものことながら苦笑されながら送り出してもらう。

 その公園に座れる場所は、三か所ある。そのうち二か所は、ブランコと滑り台。高科はそのどちらでもない、公園の敷地の隅の方に設けられた四阿のような休憩スペースを目指す。

 公園はそれほど大きくないため、入り口から全体を視認することが可能だ。

 待ち合わせの相手はまだ来ていない。この逢瀬は、高科の昼食も兼ねている。機会だと揶揄されてしばらくする食事を手早く済ませる。

 

 チッ、チッ、チッ、チッ――

 

 時計の針先が規則正しく円を描く。

 いつもなら、もう待ち合わせ相手は来ているはずだ。手持無沙汰な時間を改善しようと、携帯を取り出す。


「どうも、高科さん」


 不意に声がした方を見ると、セーラー服姿の少女がいた。

 通学カバンを丁寧に両手で持つ茶髪の少女だ。

 己の興味に対する集中力と解答力は凄まじいものの、興味がないことに対する記憶力と注意力は並未満、いや、皆無といっても過言では無い高科は、彼女についてなんとなく見覚えがあったものの、ついに思い出すことができなかった。


「……悪いけど、君は」


「お久しぶりです。門瀬愛莉です、“ゆかりの家”の」


 名前ではなく、後述された“ゆかりの家”という単語で思い出した。以前、待ち合わせ相手とともにいるところに遭遇し、二言三言、言葉を交わした少女だ。


「ああ。そのようだ。どうかしたのか?」


 高科が雑に尋ねると、少女はどこか申し訳なさそうに話を切り出した。


「さえをお待ちですよね。すみません。あの子、今日は“お試しの日”なんです。ですから、こちらへは来られないんです」


「ああ、そう」


「期待はずれですみません」


 お試しの日。

 以前、さえから話を聞いたことがあった。新しい家族になるかもしれない家庭で過ごす一日のことだ、と。養護施設で暮らしはもう長いらしい彼女が、年齢のわりに大人びた笑顔でそう言うものだから、強く印象に残っている。いつもの花が咲くような柔らかさは全くなく、諦観が張り付いて冷めてしまったものが、そこにはあった。


「そうか……」


 高科は小さく声に出す。

 彼女にも予定があるんだ、しかたない。と、自分を納得させた。次に移った思考では、用意してきた問題をどうしようか、ということだった。

 次に公園で会うのは早くて来週となる。それでは、その日までの六日間はどうだろうか。分析をもとに練り上げた戦略があるのならば、挑戦が多い方が成功もとい白星に手が近づくことだろう。

(この一週間を無駄にする利点は一つもない。)

 高科は通勤リュックからルーズリーフを取り出し、かろうじて人が読めると思われる文字を綴った。それから、雑な四つ折りにして少女に差し出した。


「これを、あの子に」


「なんですか、これ?」


「今日、出題するはずだった問題だ。来週この問いの答え合わせをする、とつたえてもらえるか?」


「ああ、はあ……」


 少女の戸惑いを隠さない返事に、なぜか疑問が浮かんだ。しかし、正確な疑問の内容は自分でもわかりかねた。なんと質問すれば求めている答えが得られるか。考えても、わからなかったため、あいまいな尋ね方をした。


「どうかしたのか?」


「いえ。気にしていませんよ、否定して下さらないこと」


 スカートのポケットに受け取った問題用紙を滑り込ませた少女は一礼すると、その場を去った。

 彼女の最後の言葉について、高科には理解が及ばなかった。

(女性は面倒だ、何を考えているか分かったものではない。)

 と、なんとも芸のない理由で思考を放棄する。


「……帰るか」


 誰に言うわけでもないが、つぶやき、帰り支度に取り掛かった。

(いいさ、別に。こういう日もあるさ。

 公園の最寄り駅も定期圏内だからな。)

 いつもの帰り道であれば新しい問題を考えている彼だが、今日はそうもいかなかった。朝から好調だった思考は、高科らしからぬぽけーっと浮かんだものになったまま戻ってこない。


「戻りました」


「高科くん、今日は早いね」


「そんなことありません」


 公園での逢瀬の内容について、所長にだけは伝えてある。当初は呆けて困惑していたが、最近はあきれ気味に容認してくれている。そんな所長であっても、自分から理由を述べる彼では無いから、機械のように精密な部下がいつもより数十分も早く研究所に戻ってきた理由はわからなかった。自分から理由を述べる彼では無い。

 白衣を身にまとい、オフィスに戻る途中、同僚の女性に声をかけられた。


「高科くん、怒ってるの?」


「怒ってないです」


「じゃあ、不機嫌?」


「そんなことはありません。定期券ないですし、何も問題はありません」


 高科の立ち去り際にやってきた井口が彼女に解説する言葉が耳に届く。


「大原さん。彼はあの子と会えなかったんだよ」


「ああ……なるほど、そういうことですか。まあ、高科くんも成人男性ですからね。

 元気出して。そういうことだったあるよ」


 二人の同僚の会話に納得いかない。

(なぜ、納得するんだろう? それに、落ち込んでるわけでは無いのに。)

 否定する意味を込めて、


「鑑定結果、見てきます」


 と言って今度こそ、その場を離れた。

(別に、不機嫌ではない。仕方ないじゃないか。私には私の、あの子にはあの子の事情や予定があるんだから。誰にだってやらなければならないことがある。優先順位を決めることができるのは本人以外には存在しえない。)

 アクセントを失い、ぼやけてしまった思考ではどこか言い訳じみた思考がぐるぐると巡り廻る。

 これらの彼らしくない無意味な生産性のない思考が、自分を誤魔化すための思考だと高科が理解するには、学生時代と比べればだいぶ改善されたものの、人間と機械であれば機械との類似点の方が多い彼だ。

 誰もが持ち合わせているような人間らしい感情というものが足りていなかった。

 その代わりに天が彼に与えたものの大きさを考慮すれば、違和感は小さくなるかもしれないし、それでも、理解の外であるかもしれない。

 

(人は誰もが毎日何かと戦っている勇者だ。

 戦闘対象が何であれ、蔑んで良いものではない。)

 

 そんなことを自分に言い聞かせながら職務を進め始めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ