いつも通り
いつもの日時に、いつもの公園の、いつもの場所で。
食事は相変わらずコンビニで購入した野菜スティックと固形簡易栄養食であり、三分四十一秒で食事を終える。
今日は睡眠欲の強い日だったので、眠気を紛らわせようと高科はそれらに加えて購入していたハニーラテを嗜む。
それまでおとなしく学校の宿題をしていた少女は高科が食事を終えたことを確認すると、まずは学校での出来事を話し始める。
「今日の図工は、ネンドをやったんですよ」
「粘度? もう物理を習っているのかい?」
「はい? ネンドは、こうやってぐねーってしたらいろいろな形にして」
「ああ、そっちか。そっちの粘土か」
「先生のはどっちですか?」
「地学のほうじゃなくて、流体力学のほうだ」
「りゅーたいりきがく?」
「物理学の一つで液体や気体を扱う力学のことだ。例えば、このラテは粘度が高いほうなんだが……」
高科は頭上にクエスチョンマークを浮かべているさえに何とかして流体力学がどのような学問なのか理解させたい衝動にかられた。専門外だったが、彼には学生時代に趣味で培った科学の知識があり、当時は強く魅了された学問領域だったからだ。
「自然科学の一角に物理学という学問がある」
「重さとか光とか宇宙とか!」
「その通り。今回は光の話に近いのかな」
「そうなんですか?」
「うん、光流体工学と呼ばれる学問領域があるから」
「リュータイ!」
「話を戻そうか。物理学を構成する学問領域に流体力学がある。流体は、高いところから低いところへ自由に変形しながら自然に移動する性質を持つ物体のこと。流体力学は、流体の運動を解析する学問のこと。よし……」
高科はすくっと立ち上がると
「水だ」
と言った。
さえはあたりをせわしなく見回す高科を眺めていたが、「あった」とつぶやいてハニーラテのカップを片手にその視線の先に歩みを進めた彼の後を駆け足で追いかけた。
たどり着いたのは、公園内にある給水兼手洗いの場となる機械の目の前だった。
高科はすい、とその機械を指差す。
「水だ。ここから水が出せる」
「は、はい」
今から何がはじめられるのか理解しきれていないさえは、どこか不安そうに、しかし、楽しげに頷いた。
その様子を確認してから高科は手洗いをする方の蛇口を捻って見せた。水が落ちる。
「出た」
「出ました」
「一般的に流体には粘性があるだろう?」
「ネンセー?」
「あー……すまない、先走った。流体が、動くときに……」
「動くときに?」
「ヴィスコスティー、応力、抵抗力、いいや、動きやすさ……わかった」
不意に用語や定義をそのまま使っても説明が通じる相手では無いことを思い出した。できる限りわかりやすい表現でなければならない。
口に手を当て十数秒間ほど言葉を転がしていたが、何か思いついたらしく、さえの目線に合わせるように膝をついた。
「水が流れている」
「流れてます」
流水を指差してみせた高科に対し、さえの期待値が上昇していく。
「ドロドロ流れている」
「え、サラサラですよ?」
「正解」
「……はい」
「では、これはどうだろう?」
高科はカップを傾け、ハニーラテを流す。
「えっ、あの、先生」
「構わない。さて、これはサラサラ流れているか?」
二人の視線が落ちていくハニーラテに集中する。
「えぇっと……とろーぉ、ってしてます」
「そう。それでは、なぜ違いが生まれたのか。ここで鍵となるのが粘性、つまり、流体を構成する分子同士が互いに引き合い形を変えようとする動きに抵抗する性質だ。で、私が言った方のネンドは、粘性の度合いを数字したもの」
「先生のネンドはリュータイの、ネンセーの、数字のこと!」
「その通り。単位はmPa・sで表される。常温では、水の粘度は一。このハニーラテはおそらく五〇〇〇程度だろう。オレンジジュースはものにもよるが五から三〇、ハチミツは一〇〇〇〇程度かな」
高科はふい、とさえに視線を向ける。さえも示し合わせたように高科を見上げる。
「つまり、ラテと水。粘度が高いのは?」
「ラテ!」
高科の問いにさえは右手をピンと上げて元気よく答えた。
「そういうことだ。さて、質問はあるかな」
「ブンシドーシってなんですか?」
「まず、同士というのは……仲間みたいな、こう……そういう表現のそれだ」
「あ、似たもの同士とか?」
「そう、それ。それだ、似た者同士。
それから、ある物質を細かくしていったとき化学的性質を失わない、一番小さな粒のことを分子という。大量の水分子が分子間力という引き合う力で結びつき、水という流体を構成しているんだ」
「へーぇ」
さえは蛇口を捻り、小さな両手で流水を集める。溢れそうになるまで待ってから高科を見上げた。
「ここにも、たくさん水ブンシがあるんですか?」
「ああ。あるね、たくさん」
「たくさんって、どれくらい?」
「そうだな。今、君の掌に収まっているのは二〇ml程度だろう。水の場合はモル容積は一八㎤/molだから、およそ」
「もる……?」
「アボカドロ定数はわかるかい?」
「アボカドてーすーぅ?」
高科は小さく口角を上げ、覚悟を決めた。蛇口を捻り水を止め、ポケットから取り出したハンカチを差し出す。
「少し複雑だから紙に書いて説明するとしよう」
「はーい!」
二人はいつもの公園内の四阿のようなスペースに荷物を持って移動した。
それからしばらくして、近年、希に見る詰め込み教育がひと段落する。
「それでは、今週の問題だ」
スパルタ教師と化していた高科は、説明に使用したルーズリーフをまとめてテーブルの端へと追いやった。
「……もう、ですか?」
いつもなら元気に返事をするさえだったが、高科の授業は彼女に休憩を求めさせるほどだった。
「少し休んでからにしようか」
すると、さえは不可解な言葉とともにテーブルの上にぬーん、と伸びた。
かくいう高科も、久し振りに高等教育過程の知識を総動員したことに加えて脳への酸素供給が不足気味だったため、少し歩きたい気がしていた。
不意に吹いた風にブランコが少し揺れる。
視界に入ったブランコの振動周期を計算しだしてしまったのを機に、数日前から通勤用リュックサックの中に放置していたチョコレート菓子の袋を持ってゆっくり歩いて行った。
二十余年振りに遊具に腰を下ろす。地に足をつけたまま揺れてみたが、あまり懐かしさは無かった。一つ、チョコレートの球体を袋から取り出してポケットに押し込む。
球体を口に放り込み、少しもしないうちに歯を立てて噛み砕いた。高濃度のカカオの味とともに嚥下する。
そのまましばらくぼんやりしていると、隣に設置された同種の遊具が揺れる。
「もういいのかい?」
「うんっ」
「では、今週の問題としようか」
「はーいっ!」
高科は内心ほくそ笑んだ。
元気に返事してくれるのは構わないが今日のはいつもとは違うんだ、と。
回復したばかりのところに申し訳ないが、知識は問わない分、混乱させてやる、と。
寝不足の頭で時間をかけて考え抜かれた問いが、ついに出題される!
「ひとつの実験だ。二つの部屋XYと四人の人間PQRSが存在する。Pは一人で部屋X、残りの三人は部屋Yにいる。
彼らは、目隠しをされた状態で案内されて配置についた。
部屋Yは特殊な構造をしていて、室内には階段のような段差が二つあり、三人は、同じ高さの段には乗らないようにして一つ下の段の人が見えるように向いて立っている。部屋Yの低い段にいる人間からQ、R、Sの順に立っている。ここまでいいか?」
「Yの部屋の人たちは、こうやって階段があったら、みんなこっちを向いてるってことですか?」
さえは右手の人差し指で空に階段を描いて高い方から低い方を示そうと指をさした。
「そういうこと。ちなみに、振り向くのは禁止。最も高い場所なら前の二人は見えるけど、反対は全く見えない」
「なるほどです」
「続きだ。
ここで、研究者は帽子の色を知られないように四人に被せた。ただ、事前情報として帽子は同じ種類だが、二色で二つずつということを四人は知っている。
実験内容は自分の被っている帽子の色を当てられるかどうかだ。目隠しを自分で外して実験は開始される。すると、実験が開始されて少ししてからPQRSのうち、一人が見事に色を当てた。
さて、当てーー」
「アールさん!」
「……」
「……先生?」
「正解だよ」
高科は、顔を覗き込むように見上げてきたさえにいつも通り、不満を隠して白星を差し出した。彼女はふぅっ、と胸をなでおろす。
「びっくりしたーぁ……。少ししてからって言ったからアールさんだって思ったけど、そうじゃないならわからなかった!」
心の中で高科は不満を漏らす。
(ふむ、今日も元気に即答されてしまった。難易度は上げているつもりなのだが……。Sと引っ掛けてやりたかったんだ。しかも、それなりにややこしい言い回ししたはずなのだが……。)
今日も結局はいつも通りの一週間の一日である。
ぼんやりと宙を眺めてから、それから、大きくブランコを漕いでみた。
もう夏だ。
でも、まだ、きっと春だ。