アルファベット
しまった、急がなければ……。
高科は鑑定結果が記された資料を片手にオフィスを出るが、目当ての人物である所長はいなかった。その代わり、先輩を見つけて声を掛ける。
「あの、井口さん」
「おお、高科。今日もロボットだな。燃料補給したのか?」
高科を初めてロボットだと表現したのは井口だった。
毎日同じ食事であることに加え簡易栄養食を摂取する様子、基本的に無表情な高科は、まるで燃料を補給しているロボットのようだ、と。
説明されても正直なところでは高科本人にはいまいちどのようなことか理解が及ばなかったが。
井口の言葉をあいさつ代わりのからかいと認識した高科は書類を差し出した。
「結果はこちらになります。私は、所用を済ませてきますので」
「わかった。所長に渡しておくよ。ほら、さっさとあの子に会いに行ってこい」
井口は高科の所要の内容を知っているかのように、引き止めず、追い払うようなジェスチャーをした。
「それでは」
彼に深々と頭を下げ、足早にその場を離れた。
更衣室にたどり着くなり白衣を脱ぎロッカーに掛けると、代わりに薄手の上着を羽織る。それから、バッグに昼食、財布、レポート用紙や薄めのノートに折り紙などが入っているいつものファイルを乱雑に入れ、建物を出た。
事件の鑑定は、資料が多く、その一つ一つを調べるのには時間がかかる。特に、事件関係者に喫煙者がいて吸殻を大量に鑑定する場合や現場に大量の血痕が発見された場合などでは、その数はまさに膨大。
事実、そのために高科の徹夜は二日目であった。それでも、仕事中には眠さを体現しないのは、彼の仕事への誇りからだ。
鑑定についてレポートにまとめ終えたのは、今から少し前のこと。それから確認に移ったものの、中途、仮眠をとってしまい、気づけば一六時を回っていたのだった。
高科は白い無機質な建物を後にすると、最寄りの駅に向かって駆けた。その際、彼はふと考えた。
さて、ここから直接、公園へ走った方が早いのではないだろうか。
いや、日本のおよそ時速一〇〇キロメートルの鉄の塊は優秀なはずだ。まさか、そんなわけはないよな。と、すぐに考えを修正する。
それでも、最寄り駅で電車を待つ間も、電車に揺られている間も、自分の走る速度と電車の速度を合成できないものかと不可能なことを望み、ずっとそわそわしていた。
その代わりと言ってはおかしな気もするが、駅から公園までのそこまで長くない距離を、駆けた。
いつもの場所に到着する直前では一度、立ち止まって幾度か深呼吸をして息を整えた。普段はあまり運動しないことが祟り、少々時間を要してしまった。
余裕な足取りであの子がいるのであろういつもの休憩スペースへ悠々と向かっていった。
「さえちゃん」
高科がそう声をかけると、一人ブランコを小さく揺らす、うつむき気味だった黒髪の少女がパッと顔を上げて振り向いた。
今週も高科は彼女のために公園へ急いでいた。
一瞬、うれしそうなさえだったが、すぐに少しすねたような表情になった。
「やっーと、来たぁ。遅いですよぉ、先生―っ」
「これでも急いだのだが……すまな――」
直後、言い終わる前に大きなあくびを一つ。彼が思うより脳が酸素を欲していたらしい。噛み殺すことも出来なかった。
「そっか……お仕事、おつかれさまですっ!」
さえは満面の笑みで高科を労った。
このような幼い子供特有の純真無垢な天使のような愛らしさに、普通の大人は、最上級の癒しの力があるのではないかと錯覚するのではないだろうか。
普通の大人ではなさそうな高科でさえも、少女の言葉に一瞬硬直した。
(……ご苦労様、か。久しく言われていないな、そんなこと……。)
彼は珍しく、ほんの少しだけ目を細めた。
「ありがとう。それから、遅くなってすまなかった」
五月の終わりに吹いている、この優しく温かな風を感じながら高科はさえの隣のブランコに腰かけた。
すると、さえは心配そうに尋ねた。
「先生、ご飯は?」
「来る途中に済ませたよ」
嘘だった。
彼のバッグの中には、数日前の朝にコンビニで購入した固形の簡易栄養食と缶コーヒーとチョコスナックが入ったままだった。
(いや、私は食事は夢の中では済ませた。)
本来なら通用するはずもない理解しがたい理論だったが、疲労により高科は難なく納得した。現実では前日の昼過ぎから何も食べていないにもかかわらず、本人はこのときたいして空腹を感じていなかった。故に、それならば彼女と他愛もない話をする方が良いと判断したのだ。
そのはずだった。
が、ついに、バッグに入れたままにしていた数枚のルーズリーフを渡してから、数十分が経過した。高科はおとなしく暇つぶし用にと同僚に勧められてインストールしてあったアプリを頬杖をつきながら遊んでいた。
「書けましたー!」
さえは鉛筆を片手に嬉しそうに万歳をした。
「それはよかったな。あ……」
「はい?」
「……“J”はそれの線対称。それは、ひらがなの“し”だよ」
(先週、難易度を上げようとアルファベットを使った問題を出してしまったのが悪かった。)
「アルファベットって、なあに?」と言われるのは想定外だった。時間からすれば、いつもなら他愛もない会話をしているところだが、さえは文字の練習をしていた。
(最近の子どもは勉強が好きなのか? 大人からしたら、それは喜ばしいことである。しかし……。)
「わ、本当っ! お手本と反対だーぁ」
ああ、暇だ。
隣のさえに気づかれないように小さくため息をついた。
(まあ、それはともかく……)
汚くて読めないとよく文句を言われる高科の文字だが、今回ばかりは手本とできるようになるべくきれいに書いたかいがあったらしい。
彼は携帯の電源を落としてバッグに入れ、空を眺めてぼんやりすることにした。
「先生、お水を入れた紙コップを下から火を近づけても紙コップは燃えないんですよ」
唐突に、鉛筆を握った右手を一生懸命に動かしながらさえは言った。
文字を書きながら話せるとは……まったく器用な子だな、と感心しながら高科は返答した。
「ああ、そうだね」
「なーんだ。知ってるんですか」
「普通、水の沸点は一〇〇度。紙が燃える温度じゃない」
「むー……。あっ! それじゃあ、これは? 水と油は、宇宙でなら混ざるんです」
「ああ、宇宙は無重力空間だからね。水と油が分かれるのは比重が異なるため。でも、重力が無ければ関係ない」
「六年生のお姉さんが教えてくれたんです。でも、やっぱり先生は物知りさんですねー!」
ここまで話して、ようやく高科はこの幼い少女が文字を書きながら話そうとする理由に思考が移った。
(この子は、常に周囲へ過剰に気を配る。
もしかしたら、私が退屈そうにしているのがばれてしまったのか。)
高科はごまかすように再度バッグから携帯を取り出すと適当な論文を見つけ、それを読むことにした。
それから少しした頃。
「先生?」
「どうした?」
「アルファベットの小文字のaとeからお花が思いついたって言っていましたけど、これは、四つ葉のクローバーにも見えませんか?」
「……君の発想は面白いね」
高科は思わず自分の口角が上がったことが分かった。
ちょうどよい時間だと判断し、今度こそ携帯をバッグにしまった。
「よし。じゃあ、今週の問題だ」
声色はいつも通りのようだったが、高科は不機嫌ではなかった。科学者として名高い彼も、幼い子供のような一面がある。
直前にどんなに気分を害する出来事があっても、面白いことを思いついたりふと疑問が解決されたりしたならば、それまでのことが嘘だったかのように上機嫌になるのだ。
それが外部にわかりやすく表現されることはないが、わかる人間にはわかる。
(さっき思いついた問題だが、引っかかってくれるはず……!)
そんな高科の心中など知らないさえは満面の笑みで右手を上げた。
「はーい!」
高科は、さえに渡したルーズリーフを一枚抜き取ると、
<A,B,C,D,__>
と、書いた。そして、Dの次の空欄をペンで指した。
「さあ、ここの文字は何だと思う?」
高科がハイテンションを抑えて(抑えなくとも普通はわかりはしないのだが……。)尋ねると、さえは元気よくこう答えた。
「F―ぅ!」
「……どうして?」
「Dの次はEだけど、先生がもう一番下の線書いてるから! Eからその線を無くしたのと同じ形してるのは、Fでしょ?」
「……正解」
「やったぁ!」
さえは喜色満面といった様子だった。
一方、高科は……ご想像にお任せしよう。