曲げられた事実
電車に揺られ、無機質な文字を見つめる。
調査をやめろ。
でなければ、後悔する。
この文面が指す意味として最初に思い浮かんだのは、事件の調査を中止しろ、という意である。しかし、研究員である以上、抱える全ての事件に対して調査、要するに、鑑定を止めるわけにはいかない。
特定の事件についての調査を指しているのだろうか。基本的に担当する事件はランダム的なところがあるから、この手紙の差出人が指定している事件を高科の他にいる同分野の研究員が鑑定をすることも考えられる。
彼らにも同様の手紙が送られているのか。否、それはあまりにも現実的ではない。
目的地の最寄り駅に降り立ち、この手紙には自分にだけ向けられた内容であることを改めて認識した。同時に、推測が正しければ該当する事件は唯一あることを認識する。
それでもなお、調査を中止する選択はできそうにもなかった。
駅舎を出て周囲を見渡す。高い建物は一切無い。人通りもほとんどない。想定よりも都会から離れた土地らしい。
事前に手に入れていた情報から日下部診療所の看板を携えた建物に到着した。夕暮れを少し過ぎた頃で扉は閉じられていたが、それに構わずノックした。
「どちら様かね?」
「高科と申します。電話で連絡をさせていただきました」
訛りがあるような無いような、そんな初老の男声に答えると、中から声の通りの人物が現れた。
「あんたさんかい。さ、中へ」
導かれるまま敷居を跨いだ。
「それで、聞きたいことってのはなんだい?」
「日下部さんが最後に検視と解剖を担当した事件についてです。二年前に男女が殺害された」
「当時、妻が夫を殺して逃亡を図ったとして捜査されていた事件のことかい?」
「ええ、そうです」
日下部は深く息を吐き出した。
「発見されたときには、ほとんど白骨となってしまっていた。例年に比べ寒かったが、埋められた場所が悪かった。あの山の中腹辺りはふもとや山頂に比べて温度は高いから微生物は活発で分解を進めていたんさ」
「資料で見た限り、埋められたというよりは上から土をかぶせられたと表現する方が正確だと印象を受けました。こうは考えられませんか? 夫を殺害後、発見現場辺りで足を取られそこで死亡し、時とともに」
「やいやい。事件についての知識はそこそこあるようだが検視報告書に目を通してないな」
「いえ、確認しました。唯野雅重の死因は出血性ショック、唯野彩凪の死因は脳挫傷と記されていました」
高科は日下部の表情から、現実にあってはならない可能性を思いついた。確認するため、一つ問いを投げかける。
「貴方は当時、何と記述しましたか? 相違点をなるべく正確に教えてください」
「夫の死因はそれで間違いないが、刺し傷から男性によるものだと考えられた。女性が作った刺創とは思えないほど深いものがいくつもあった。
妻の死因は、やく殺と断定した。発掘された舌骨が折れていたんさ。確かに、頭部に打撃を受けて頭蓋骨にヒビがはいっていたが、死因とは別のものだったんね。舌骨は生前の折れ方だった。それに、刃物による骨に達する傷が足と腕にあった。ためらったらしく、何度か同じ場所を切りつけられていた。これはいずれも死後につけられたものだった」
日下部の発言が真実だとすれば、捜査資料が何者かによって操作されている可能が高い。それが可能なのは、内部の人間、警察関係者に限られる。
「それに、妻の遺体も二メートル地下から掘り起こされたさ。キノコ狩りに犬んこさ連れてきていた夫婦が見つけた」
「当時、妻の死についてどう考えましたか?」
「仏さんは殺されたんさ。何者かが仏さんの首さ絞めて殺した後、遺棄しやすくするために遺体をバラバラにしようとしたが、とうとうできなかった。あれさ。わかりやすくはっきり表現すると、案外、人間を切り刻むのは難しいんでね」
日下部の推測と似たことを高科も考えた。時間もだいぶ遅かったためにこの日は
「お時間いただき、ありがとうございました」と暇を告げて自宅へ帰った。
どことなく上の空で仕事が後ろにずれ込んだ。前日の会話により乱れた思考は、未だまとまりそうもなかった。鑑定結果が出るまでの一時、無心でひたすら折り紙を折り続けていた。
「よう」
ノックもせずにオフィスへ侵入した久保田への対応は無視である。
「頼みたい鑑定がある」
「断る」
「サンプルならあるから……は?」
「見てわからないのかい? 忙しいんだ」
「悪いが、勤務中に折り紙折ってるやつを忙しい認定するつもりはない。先日の事件についてだ」
ようやく折る手を止めて久保田に向き直った。
「新しい証拠でも?」
「その通り。凶器の刃物が発見されて、被害者以外のDNAも出てきた」
「犯人のものである可能性があるから、その君の持っているサンプルと照合してほしいということかな。やけにピンポイントに一人分か。先日、容疑者が絞れないと聞いたばかりだが、特に目をつけている容疑者がいるのかい?」
「いや。覚えてるか?」
「何を?」
「現場に来たとき、見ただろう? 高校生くらいの男子がいたのを。彼が滋賀昇杜だ」
「……なるほど、門瀬愛莉さんが指名したうちの一人か」
「聞き込みでも、事件の数時間前に彼を近くで見かけたという複数の証言もある」
「だからと言って事件に関係あると断言できない。決め手は?」
「目だよ」
「眼球がどうした」
「……いや、忘れてくれ」
「は?」
「お前に理解させられるほど俺は有能じゃないんだよ。とにかく、頼めるか?」
「わかった。やっておく」
それから、数時間後。
直接頼まれたものも含めて担当の鑑定をひと段落させ、帰り支度を済ませた。オフィスから出ると
「高科くん?」
声に振り替えると、大原も丁度帰宅するところだったらしい。
「こんな時間まで残ってるなんて珍しいね」
「ああ、いえ。そうですね、あの……もう帰るところです」
「じゃ、その前に。井口さんに頼んでいてたやつ、ようやく解析が終わったの」
「本当ですか」
「ちょっと来て」
大原にオフィスへと案内され、二人で件のPC画面を覗き込んだ。
「結論、好きでしょう? 答えから行ってあげる。ごめんね、無理っぽい」
「あ、はい」
「井口さんと一緒に確認したんだけど、事件性があるものは見つけられなかったよ。画像が何枚か復元できただけ。お目当てのメールは相当ねばった井口さんでも無理だったみたい。これのために二徹だって」
「そうですか」
解説などそっちのけでメールボックスの内容を丁寧に一つずつ確認していく。しばらくはその様子を眺めていた大原だったが、やがて飽きた。
「これが役に立つの?」
「さあ、わかりません。画像と言うのは?」
「このフォルダ」
「このPC、私が受け取っても大丈夫でしょうか」
「ええ、どうぞ」
「ありがとうございます」
簡単に暇を告げ、帰宅するつもりだった高科だが一度PCを閉じて抱えながら自身のオフィスへ戻った。
椅子に座り直し、机にPCを据え置く。瞳を閉じて、事件の概要やこれまでの情報を脳内で整理する。
納得がいってからPCをスリープ状態から起動させた。
大原の指定したフォルダには、確かに、五枚の画像があった。小さくてどのような写真か確認できなかったため、一枚ずつ確認することにした。それぞれをダブルクリックすると、画面の四〇パーセントほどの大きさに拡大された画像が表示される。そのうち三枚は見覚えのある公園や施設だったが、重要性を感じなかったため閉じた。残りが画面に残る。
その二枚の画像に思わず瞠目した。
右は、黒髪の少女が公園の休憩スペースの木の椅子に座って折り紙を折っているところだった。
左では、同じ少女がブランコを漕いでいた。その隣のブランコに腰を据える男性は、いくら人に興味がない高科と言えども、よく知る人物――高科自身だ。
呆然としていると不意に画面が切り替わり、文章が現れる。
我々は本気だ。
他人には知らせるな。
鑑定の意味を考えろ。
すると、画面はブラックアウトした。
あまりのことにしばらくの間、黒いスクリーンに映された自分を見つめていた。我に返り、再び起動させフォルダを確認すると、画像は全て文章データに変わっていた。それらすべての内容を検めたが、どれも先ほどの三行ではなかった。目当ての文章は探しても見つからない。高科よりは情報科学に精通している大原に確かめてもらおうとオフィスを飛び出す。
しかし、彼女はすでに帰宅してしまった後らしく、オフィスは無人らしかった。
「まだいたのか?」
肩を震わせ振り返ると、そこには帰宅するところらしい井口がこちらを見ていた。一方、高科は動揺が抑えられず、井口の問いに対してまともな答えが何一つ浮かばない。
「どうした?」
「いえ。あの、ただの寝不足です」
「そうか。疲れてるならさっさとよく休めよな。じゃあ、おつかれ」
「ええ、お疲れ様です」
井口の背中を見送り、ようやく彼にこのPCについて確認してもらえばよかったという思考に至った。しかし、現れた文章の内容を思い出し、一度、家に持ち帰り対策を考えることにした。




