死因と脅迫
「私は悪くないと思うのが、どうだろう?」
「何だ、突然」
オフィスに呼び出されて早々、意味不明な弁解に久保田は困惑する。
「登場させた人物のイニシャルも関連性はわざと無くしたわけだし。四八も選択肢があれば、あてずっぽうでは当てられる確率はかなり低いだろう。そもそも、大量の数字が羅列されたら混乱すると考えたんだ。しかし、それにも関わらず、機械並みのクイックレスポンスだった。一体、なぜだろう。私の作問能力か、そうなのか?」
「まあ、一旦それはどうでもいいから」
「良くない」
「置いといて。呼び出したのは、どっちの事件が理由だ?」
久保田が完全に抗議を無視して本題へ入ろうとすると、おとなしく資料を差し出して話し始めた。
「科学の発展の勝利だよ。証拠品のひとつ、解析が完了して文字が読めるようになった」
件の血まみれで文字が隠れて読めなくなってしまっていた用紙についての鑑定資料を渡され、目を通すと、わからないなりに感想を述べる。
「へえ、すごいな」
「なぜ読めるようになったのかと言うと」
「いや、そういうのはいらない。言われてもわからない。すごいとは思っているから、その先を行ってくれ」
不満そうにしながらも、答えを告げる。
「次のページに答えがある」
「たった二年と言ってもわかるもんなんだな」
「いや、正直、これに関していえば調べ方の問題だったよ。技術はあまり関係ない」
適当に相槌を打ち、資料を読み込む。用紙の正体は、妻の名前だけが書かれた離婚届だった。夫の名前は書かれていない。
「なあ、この文字のにじみは?」
「あとで説明する。ちなみに、これは、文字が書かれる前に湿っている場所にボールペンで綴られたものだ」
久保田は無言で高科の言葉を促した。
「事件当初、夫を殺害後、妻は子どもを残して失踪したと考えられていたんだよね?」
「ああ、そうだ。事件の一週間くらい前に近所の人間が男女の言い争う声を聴いていたことから、動機は夫婦間の諍いとして捜査が進められた」
「それについて、この鑑定で判明した三つの事実から、一つ仮説が立てられる。
夫婦間には諍いは存在していたのは事実だったのだろうか、と」
「近所に住む住人からの証言がある。朝九時ごろに聞いた、と」
「果たして信用に値するかな。声の印象なんて聞いた人間の先入観で左右されるじゃないか」
「それについては否定しない」
「さて。私は人の心の機微と言うものには非常に疎い。それは認める。しかし、まったくわからないわけではないんだ」
「本当か?」
久保田の問いを睨んで制すると話を続ける。
「一つ目。
この用紙の破られた断面を鑑定した結果、血まみれになる前に破かれたことがわかった。どのような鑑定か興味がないらしいから、省略するよ」
「どうも」
「では、二つ目。
手前に引くようにして破られたか、奥へ引っ張られるようにして破られたか定かではないが、どちらにしろ、左側から強い力をかけられて紙の繊維が切れたことまではわかった。
人は普通、無意識的に利き手を動かしやすい。紙を破るという動作に対して意識的に手を動かすことはあまりないから、このとき、左利きの人物によって破られた可能性が高いことまでは言える。可能性が高いという表現は、完全に言い切ることはできないものの常識の範囲でいえばそういっても差し支えは無いと言っているも同じだ。君らが逮捕や送検のためにあてにする証拠のほとんどは、これに属するから信頼してもらって構わないだろう。
それから、事件関係者で左利きなのは今のところ唯野雅重のみ」
「血まみれになる前、つまり事件前に、夫がこの離婚届を破り捨てたということか?」
「その可能性が高いといえる。また、採取できた指紋の位置がその可能性をさらに高める。
最後に三つ目。
この用紙は、破られる直前に一部だけ濡れた可能性が高い。君が先ほど気にした箇所も、その一つだよ。その個所に存在する成分を鑑定したところ、わずかにナトリウムやカリウムが検出された。ほら、これらが含まれる液体と言えば?」
「学生さんが理科の実験で」
「ふざけているのかい?」
「この答えに不満なら文系寄りの体育会系に聞くな」
久保田の抗議に、なるほど。一理あるな、と気を取り直して高科は淡々と解説を始めた。
「涙液、いわゆる涙さ。性質上、残念ながらDNA鑑定はできないし、付着してから管理状態が悪かったらしいから涙を流した当人の感情も調べることはできない。だが、面白いことが分かった。涙を流したのは、女性だ」
「は?」
「DNA鑑定はできなくとも、性別の判別は最低二つの細胞があれば鑑定できるんだよ。おそらく、涙をぬぐうときに強めに皮膚を擦ったんだろう。で、幸運にも、偶然、涙液とともに微量の検体を採取することに成功した。性染色体は、男性がXX、女性がXY。採取できたのはXYだった。だから、涙を流したのは女性である可能性が高いといったんだ」
「それで、仮説っていうのは?」
「この一枚の用紙から、当時たてられた推測を否定したい。
夫を殺害した妻が家に子どもを残して失踪した、というね。今述べた結果から考えられた推測を話そう。まあ、こういうのは刑事である久保田君の方が得意だろうけど、あくまでも一つの可能性として聞いてくれ」
「わかった」
「唯野彩凪が言い争っていたと仮定したときその相手は夫の雅重ではなかったんだ。君の先輩からの資料を見るに、その時間、雅重は大学へ出勤するために公共手段を利用していただろうからね。言い争っていた相手は、当初の捜査では一切記述されていないが、いると仮定して話を進める。だって、現場から夫妻に近しい者ではないDNAが現場から見つかっているもの。DNAは劣化したり汚染されたりしたら、鑑定は不能だ。事件発生からそんなに遡らずして訪れた人物だろう。では、その人物はなぜ名乗り出ないのか」
「やましいことがあるから、ってことか?」
「だと考える。
夫妻に恨みを抱えていた人間はいなかったようだが、彼らから提供されたDNAとは一致いていない。第三者がいた可能性を考えるのが妥当だろう」
「それで?」
「第三者との会話で唯野彩凪は離婚を決意したのかさせられたのか定かではないがいずれにしろ涙とともに自分の署名を記す。それから、雅重に話を切り出した。雅重は離婚を拒否、該当する用紙を破り捨てる。その後、犯人が事件を起こし、該当の用紙は血に濡れた。
どうだろう」
しばらく沈黙した後、答えた。
「ありえないとは言えない気がする」
「なんだ、そのあいまいな答え方」
「こっちのセリフだ。なるほど、そういうことか、でも言おうものなら先入観がどうのこうのって文句言ってくるのはそっちだろ」
「だからこそ違和感を覚えたんだよ。いつもの久保田くんクオリティでいてくれた方が落ち着くんだが」
「それは悪かったな」
「そういえば、君の事件の方はどうなんだ?」
「養護施設長の事件か? それはそれは、容疑者が大量だよ。こっちの事件に譲りたい程な」
「なぜ?」
「若いころ、相当荒れていたんだ。母親が外に男を作って出て行ってからは、更に、な。当時は半グレとでもいえばいいのか、そういう連中だった。今では暴力団とも繋がりがあるらしいし、動機がありすぎて絞れない。そっちの事件とは反対にな」
久保田の言う通り、大学教授夫妻の事件において容疑者は唯野彩凪の他には一切挙げられていない。
「妻の死亡時期について、担当した検視官に話を聞きに行く」
「これから?」
「うん。約束はしてある。来るかい?」
「悪い、仕事だ」
「そっか。とりあえず、話はこれで終わりだ」
「ああ、じゃあな」
高科は立ち上がり、退勤の準備を始めた。それを確認して久保田は暇を告げた。
しかし、その直後だった。
「なあ、高科」
深刻そうな声色だ。
「何?」
「これ」
彼が差し出したのは、一通の無機質な手紙だった。勝手に封が切られていることで睨んだが、外出の準備を優先することに変わりはない。
「そこに置いといてくれ。今度、見たら内容を確認するから」
高科の面倒ごとを遠ざけるための言葉に構わず、久保田は強く手紙を押し付けた。
鬱陶しさに辟易するのを隠さず、とりあえず手紙を受け取って内容を拝見した。
調査をやめろ。
でなければ、後悔する。
思わず、思考が停止する。
直後、久保田の顔を見上げた。問わずとも、彼が考えていることは高科にも十分に理解できた。




