lucyの絵
遺体が見つかったのは、古いアパートが立ち並ぶ地区の細い路地だった。
「ふむ、なるほど。人が死にたくない場所ランキングでは上位だろうね」
「お前さ、俺にはデリカシーがどうのって注意してくるくせに自分のそういうところは直す気すら無いよな」
「今の私の発言はデリカシーにかけていたかい? 優美さはともかく、人情における繊細さは考慮したつもりだったのだが」
「もういいよ、忘れてくれ。遺体はもうとっくに大学病院へ運ばれた。現場はこっちだ」
「大学病院へ? 明らかに他殺だったのかい?」
「背中から心臓を刃物で一突き。ほぼ即死だろうって話だ」
(肋骨に守られた心臓を刃物で刺すには角度に注意する必要があり、相当な力が必要である。普通、自力では致命傷を作れない。したがって、他殺だと判断されたのだろう。)
そこまで思考し、さらに質問を重ねた。
「凶器は?」
「捜索中」
二人が足を止めたのは入り組んだ路地の先だった。白で形どられた人体には血痕が残っている。高科はふと視界の右側に興味をそそられた。
「古い落書きだね」
スーツを着ている太ったサルが札束を舞わせ踊り狂っているそばで、眼鏡をかけたチンパンジーがどこか別の方向を見つめる。伸ばされている小さな手には、ほとんどの札束が届かない。
素人目にも、描いた本人に画力があると伺える。
「近所の子どもの落書きだろう」
「それにしては、内容が政治批判的だ。政治家のサル、官僚のチンパンジー。この手は、二匹に比べて小さいから子どものもののように見える」
「まあ、そうか。そうだな」
「日本のバスキア、ルーシーの絵じゃないっすか。先輩も高科さんも、知らないんですか?」
駆け足で手帳を片手にやってきた帆澄に、高科は迷いを見せることなく即答する。
「うん。興味無い」
「そういうところは絶対にぶれませんよね、高科さんって」
「で、ルーシーってのは?」
久保田が絵を眺めながらも興味なさそうに尋ねる。
「三年前に突如現れたストリートアーティスト、ルーシーのことです。いつの間にかこういう絵が壁に描かれているんです。彼女が使用する画材はペンキが多いみたいですけど、絵の具のときもあればスプレーのときもあるみたいですよ」
「ペンキか。珍しいね。どこで手に入れているんだろう」
「すぐそこにペンキ工場がありますから、廃棄となったものを使ってるんじゃないっすか? そうすれば画材はタダですし、彼女、画材へのこだわりはほとんどありませんし」
「そうなのかい?」
「ええ、はい。これみたいに初期の作品はペンキが多いですけど、鉛筆や絵の具で描かれていることもありますし、スプレーの作品も少ないですがありますよ」
「なぜ初期作とわかるんだ?」
「サインを見てください。Lが小文字でしょ? はじめの一年半くらいはそうなんですよ」
「へえ。ところで、器物損壊には問われないのかい?」
「高科さん、そういうとこありますよね。頭が固いのか柔らかいのかわからないっていうのかな。ニックネームにもなっている、バスキアも元はストリートアーティスト出身だけど、今ではその作品は高値で取引されているんですよ」
「ふむ、理解に苦しむ」
本来の目的を思い出し、久保田に視線を向けた。が、彼は路地をぬけた大通りの方へ歩いていく。
「それで」
「被害者は古田一央。聞き込みで養護施設の責任者という話があって、そこからゆかりの家にたどり着きました。ここまで聞きました?」
久保田の代わりに帆澄は素早く手帳の情報を述べる。
「ああ、うん。ちょっと待って。一つ、あなたはこの絵をどう思う?」
「どう、といいますと?」
「絵の内容から、子どもが描いたものとは思えなくてね。そうなると、描いた位置が低いと思わないかい?」
「さあ、どうでしょう。女性でしたら我々よりも小柄であることは十分に考えられると思いますけど」
「ルーシー、なるほど女性の名前だ。しかし、一五〇程度の身長と考慮しても、まだ位置が低い。手の込みようから、短時間で描いたものではないだろう。中腰で、膝を曲げていたのだろうか」
高科は実際に述べた通りに姿勢を低くしてみた。
「そのご様子では、無理そうっすね」
帆澄が差し伸べてくれた手を借りてバランスを整えた。本人が思うより、足が震え始めて限界を迎えるまでの時間は早かった。
「そのようだ、ありがとう」
それから駆け足で久保田のもとへ向かうと、彼はちょうど野次馬だった少年と話し終えたところだった。
「今の彼とは知り合いかい?」
「え? あ、いや。気になっただけだよ」
「他に気になる人物はいなかったのか?」
「いないけど」
「なぜ、彼だったんだ?」
「目だよ」
「眼球? 彼の眼球がどうしたんだ?」
「もうなんでもないよ。じゃあ、まだ聞き込みがあるからこのあたりで」
久保田は片手をあげて話を切り上げようとする。
「ああ、うん。ありがとう。最後に、一つ教えてもらえるかい?」
保育園と一体型の児童養護施設。
捜査のため、ゆかりの家は一時閉鎖されることとなりそこに住む子どもたちは事件が発覚した昨日中に住居を移した。
「死んだ……。はあ、そうですか」
該当施設の最年長、門瀬愛莉は刑事を目の前にして呆けた言葉を返した。
「どんな人だったのか、教えてほしいんですけど」
「あ、はい。そうですね、普通ですよ。それで、いつ死んだかわかっているんですか?」
「いえ、それはこれから」
「最後に見たのは……水曜日の夜です。昨日は会ってすらいません。死んだ時間、死亡推定時刻っていうんですよね。それがわかっていないなら、私は殺していないって主張しても無駄でしょう? 話がこれだけでしたらアルバイトの方へ行きたいんですけど、だめですか?」
「愛莉さん」
立ち上がろうとした彼女に声をかけたのは刑事らの事情聴取に立ち会わせてもらっていた高科だった。
「本当に、普通ですか?」
「すみません、言葉を間違えました。あの人は、ろくでなしでした」
淡々と述べられた言葉に、刑事が補足を求める。
「それは一体」
「ろくでなしですよ、そういいましたよね? そういうことです。それよりも、あの子たちにまでこういう話をさせるつもりですか?」
「いや、そういうわけでは」
「シガショウトとコミヤタツキにでしたら、まだ構いません。ただ、年少者たちには控えていただけませんか?」
「そうします」
愛莉は用意された部屋を後にした。
久保田は椅子の背に身体を預け腕を組んだ。
「どう思います、先輩?」
「女子高生にろくでなしって言われるのは相当だよな」
「ですね」
「高科さんは?」
帆澄の問いに何も答えないのは、何か気になることについて思考しているのだと思った。
「お前があの子を気にかけていた理由が分かった気がするよ」
「あ、いえ。高科さん、どっか行きました」
「……は?」
いつ消えた? と、帆澄に視線で問いかけたが、首を傾げられた。
施設を移って間もない子どもたちは、予想通り浮いてしまっていた。部屋の隅で遊んでいるのを見つけると、近寄り、無言で淡々と折り紙を操り始めた。
それから数分もすると、
「わあ、クワガタムシー!」
一ノ瀬陸は黒い折り紙のクワガタムシを見て思わず感嘆の声を上げた。高科は陸に折り紙の虫を差し出した。
「オオクワガタだよ。さて、次は何を作ろうか」
「ウサギさん!」
該当施設最年少の一人、ミノこと美乃が元気よく注文した。だいぶ警戒心を解くことに成功しており、高科も本来の目的を忘れつつある。
「よし、わかった。折り方を教えるから、自分で折ってくれ。私はトリケラトプスを作りたいからね。さて、君は何が良い?」
美乃に羨望の眼差しを向けていたリノこと鈴乃に話を振ると、ぱっと表情が明るくなった。
「えっとね、あたしは」
「あの、どちら様ですか?」
楽しそうに悩む女の子の言葉を遮ったのは、制服姿の少年だった。
「科学者です。はじめまして」
高科は握手を求めるが、少年は警戒を緩めない。
「三人とも、部屋で待ってて」
「大丈夫だよ、たつ兄。このおじさん、さえちゃんのお友達だから」
「頼むから、りのみのと三人で外で遊んでいてくれ。話なら俺がするから」
渋々だったが、三人はその場を離れた。
「どうも、高科といいます」
「ご用件は?」
「事件捜査です」
「捜査?」
「昨日、人が死んだんだよ。愛莉さん曰く、ろくでなしが、ね」
「あいつ……施設長のことですか?」
「被害者はなかなか嫌われているらしいね。たった五文字で、すぐに誰か特定できるなんて。理由を教えてくれるかい?」
「はっ……! 事件捜査ってことは、警察関係者の方ですよね? 今まで何もしてくれなかったのに、人が死んだらこれですか。俺ら、別にあいつが死んだからって悲しくもさみしくも無いし、どうでもいいんですよ。むしろ、犯人には感謝したいくらいです」
「すまないが、話がつかめない。始めから詳しく話してくれ。そうだな。君も施設暮らしということは身寄りがないと判断していいのかな」
「そうですね。父が死んで、親戚とも疎遠だったので結果的にこの施設へ流れ着きました。それが何か?」
「他の子どもたちも似たような境遇かい?」
「年長者の事情は良く知りません。教えてくれる二人では無いので。最年少の鈴乃と美乃は門瀬さん、あ、えっと前施設長に施設前の道端で保護されて、りくは両親が事故死してここへ、貴方のお友達は両親を事件で亡くしてここへ来ました」
「なるほどね」
「何が、なるほど、ですか」
「すまない、私は言葉選びが非常に下手なんだ。気を悪くしたのなら、すまなかった」
少し不満そうにしながらも「それで」と話を変えた。
「あいつらと話して、何か聞けたんですか?」
「いや、何も。質問すれば君ら年長者や自分ら年少者の話はしてくれるものの、被害者については何も教えてくれなかった」
「でしょうね。愛莉さんが言った通り、あいつはろくでなしだった。屑ですよ」
「これは私の気のせいである可能性もあるが、彼らに被害者の話題を振るとどこかおびえているように見えた。これは、君が被害者を貶める発言を繰り返す理由と合致するのかい?」
少年は一度、口を固く結ぶと鼻からゆっくりと息を出した。
「あいつの一番の被害者は、彩重でした」
「被害者? 何があったんだ?」
「捜査しているなら、そのうちわかりますよ」
「絶対、救い出して見せるから」
曖昧な微笑みが帰って来た。
待ってる。
そう言ってほしかった。だけど、あの子は言わない。わかっていた。あの子は、周りに気を配りすぎる。自分の言葉が、相手の重荷になる可能性があると思ったら、自分の本心を隠してしまう。
少年は握りしめた手のひらを開くと、淡々と述べる。
「あいつの死を喜ぶ奴はいても、悲しむ奴なんて一人もいませんよ。リノミノと彩重がいなければ、陸もこれくらいの話はしますよ。な?」
高科は少年の視線の先を見てみた。すると、室内遊具の陰からゆっくりと陸が姿を現す。
「ごめんなさい……」
「二人は?」
「外。ここの子たちと一緒に遊んでる」
「話したくないことを無理に聞き出すつもりはないよ。陸くん、以前の君に対する対応と変わらない」
折り紙で親しくなったおかげか、高科に対して陸はこくりと頷くとリラックスした状態で言葉を続ける。
「学校では人の悪口とか言ったら怒られるけど、でも、やっぱり僕もあの人は嫌い。あまり話したくない。リノもミノも、怖い話は嫌いだから話したくないと思う。あい姉もしょう兄も、二人が狙われないように気をつけてたし、さっちゃんが」
はっとして、口をつぐむ。先を促そうとすると、少年は目を逸らした。
「そっか。ところで、あの子はどこにいるんだろう? 先ほどから姿が見えないが……」
「さっちゃんのこと? 公園じゃないかな」
「公園? どこのかわかるかい?」
「うん、たぶんすぐそこだよ。昨日、ここに来るとき、じーぃっと見てたから」
拙い説明を理解し終えると、高科はすぐに暇を告げた。




