花柄のノート
日は傾きつつあるものの、暖かな春の陽気は高科の腕に上着を掛けさせた。
財布、今朝も家で茹でてきた卵二つ、コンビニで購入した簡易栄養食、そして、かわいらしくラッピングしてもらったプレゼント。必要なものだけが入った通勤用のリュックサックと共に今週も高科は一駅分だけ電車に揺られている。
その駅から徒歩五分程度、勤務する研究所からそう遠くない公園。
高科はそこに設置されている休憩スペースにて、人と会う約束をしていた。
「おまたせ」
「いえいえ、そんなに待っていませんよ。さえも、さっき来たところですから」
高科に気がつくと、さえは読んでいた本を閉じて座っていた木のイスから立ち上がった。彼が待たせていた人物である。
すると、何か思い出したのか、彼女はそばに置いていた新品の水色のランドセルからあるものを取り出した。
「見てください、先生っ。折り紙でネコさんを折ってみました!」
「ふむ、上手だね」
高科は鉛筆で顔が描かれたそれを受け取りながら、さえの隣のイスに腰掛けた。
「えへへ、ありがとうございます」
彼女は高科の座るタイミングに合わせて嬉しそうに言いながら座った。
「それ、先生にあげる。どーぞです」
「これを、私に?」
「うん! だって、そのために折ったんだもんっ」
「そうか。ありがとう。それなら……はい」
高科は彼女に用意していたプレゼントをバッグから取り出し、差し出した。
「これは私から。君にあげるよ」
「え……でも……」
さえの表情は曇る。受け取るのを躊躇する。
高科はその様子を踏まえ、もらったばかりの白猫を掲げてみせた。
「いいんだ。君からは、これをもらったからね。開けてごらん」
遠慮しているが、やがてさえは頷いて、おずおずとラッピングを丁寧に外していく。パステルカラーのカラフルな花畑がモチーフとされた、ハードカバー製本と同じくらいのサイズのノートが姿を現した。
途端に、彼女の表情が明るくなる。
「わぁっ、お花がいっぱい! かわいい!」
「中も、見てごらん」
高科がそう言うと、さえはおそるおそる表紙をめくる。
「あ……! なんがつなんにちって、書くところがあるー!」
「それは、日記帳だよ」
「ニッキチョウ?」
「そう。一日にあったことを書くんだ」
「絵日記みたいに、ですか?」
さえはこてんと首を傾げた。
「そう」
「ふーん……んー、ちょっと大変そうです。だって、さえ、書きたいこといっぱいあるんだもん」
「なにも、全てを書く必要はない。その日のうちで印象に残ることを厳選すればいい。それに、誰かに見せるわけじゃない。この中では、誰にも嘘をつく必要はないんだ」
高科はわざと最後の一文を強調して言った。
「うん、わかった。さえ、がんばる! ありがとうございますっ、先生」
高村はさえの満足そうな表情を確認してから、食事を始めた。前に燃料を入れているようでやはり機械みたいだ、と職場の人間に言われたが、個人的には合理的で良いと思っている。
その横で、さえは読書を再開する。
(おそらく、私がここに到着する前には学校で出された宿題を終えていたのだろう。)
少しして高科が食事を終えると、いつものようにしばらく二人で他愛もないことを話していた。
「先生、どうして桜って散っちゃうの?」
「離弁花だからだ」
「リベ……?」
「離弁花。花弁が根本から繋がっていない花の総称だ」
「カベンってなあに?」
「……花びら」
「それじゃあ、リベンカじゃない花はずっと咲いたままですか?」
「いや。花には離弁花と合弁花がある。離弁花は花弁が根本から繋がっていないから散る。合弁花は花弁が根本から繋がっているから花弁は散るのではなく一度に地へ落ちる。ずっと咲いたままの花は存在しないだろうし、ただ花の終わり方が違うメカニズムなんだ」
「へぇ、そうなんですかー。じゃあ、どんなお花がゴーベンカなんですか? あ、桜のほかにリベンカってあるの?」
「そうだな……合弁花はアジサイやツツジ、ショウブ。離弁花はサザンカやヒマワリ、あとはスイレンもそうだったか?」
(正直、生物は専門外なのだが……。)
心の中で苦虫をかみつぶしたような思いをしていたが、表情が乏しい高科なので表には出ていない。そっとさえに視線を移すと、拙い文字を折り紙に書いているのが見えた。ひらがなが圧倒的に多い。
すい、と、さえの顔が上がる。
「もういいのかい?」
「うんっ」
少女の愛らしい満足そうな首肯を合図に、高科は宣言した。
「それじゃあ、今週の問題を出そうか」
「はい、どうぞです!」
さえは意気込んだ。
それは、高科も同様だった。
半年は続いている週に一度のこの逢瀬。最後の締め括りは高科が出題した問題をさえが回答するのが定番となっていた。
いつもその場で解かれてしまうのも定番となってしまっているため、高科は今週出題する問題は難易度を上げてきたのだ。
「私は、君の名前からこの花のノートを買おうと思ったんだ。さあ、どうしてだと思う?」
高科はさえが傍らに置いていたプレゼントを指差して尋ねた。
「えぇっ? さえが、お花?」
「どうしてだろうな」
「どうして?」
「その疑問が解決できれば、わかるさ」
職場に戻って少しすると、古くからの友人である久保田がやってきた。
「高科、生きてるか?」
「鑑定かな、久保田くん?」
「ああ、新しい事件だ」
久保田は、す、と高科のデスクに置かれた白猫を手に取った。
「ん、折り紙にはまっているのか? あれ、これ黄色の折り紙じゃないか。裏表、間違えてるぞ」
「うん。ゆで卵、好きだから」
「は?」
高科は仕事の時間にそのほかの話をされるのは好まない。返事はそっけなくなる。しかし、それくらいのことでは久保田は構わない。さすが、付き合いが長いだけはある。
「へぇ。高科も、不器用なところがあるんだな。完璧主義者だと思っていたけど」
「うるさいな。それより、事件の概要は?」
「強盗事件だ。被害者が犯人の血がついた服を提出してくれたんだ。DNAが取れるはず」
「わかった」
高科は白衣を羽織り、マスクをつけて仕事にとりかかる準備をした。
その直前、久保田が置き直した白猫……ゆで卵猫かもしれない……に、一瞬だけ目をやる。
外見はくしゃっとしているところがあるものの、少し分解すると角がきっちり合わせられ、折り目がまっすぐな面が見える。そう、綺麗に折られているのを上手に隠している。
まるで、あの子自身を表しているようだと、もらったそのときから感じていた。
鑑定をひと段落させた高科は、事前にコンビニで購入したチョコレートで小腹を満たす。おそらくこれが今日の彼の夕飯となるだろう。
帰宅後は論文を読んでいたいし、あまり食事に執着しない質だからか空腹にも頓着で食事よりも優先させたいことが多くある。
加えて、自炊はできないこともないが、なぜか一部の料理においてうまく作れた試しは無く、失敗したとき片づけをしなくてはならないということになると思うと、高科にとってさらに自炊をすることや料理のレパートリーを増やすことが億劫になってしまうのだ。
つまり、チョコレートで小腹を満たしつつ血糖値を上げ、カフェインで眠気を遮る。これが彼が導き出した彼の夕食における最適解である。
チョコレートを口の中で転がして作成した鑑定書を提出する前に不備が無いか確認をしながら、その一方で、高科はプレゼントした花柄のノートのことを考えていた。
それから、誰に言うわけでもなく小さく呟いてみた。
「難しかったかな、六歳の子どもには……」
あの子の名前はさえ。アルファベット表記にすると、Sae。
SからSpringつまり春、aeから四枚の花弁をもつ花を連想した。だから、“春の花”と題が着けられた日記用のノートを選んだ。
しかし、冷静に考えてみると英語を習うのは早くても小学生の中でも高学年の生徒や外部の習い事をしているような子どもたちに限られる。
(おそらく、あの子はどちらにも該当していない。……来週、また会うときに解説してやればいいか。)
高科は勝手に納得してから席を立った。座ったいる状態が長く、少しだけ歩きたくなった。
「今日も、あの“ゆかりの家”の子と会っていたのかい?」
高科が軽く体を動かしていると、白衣に身を包んだ初老の男性がオフィスに現れた。
「所長、お疲れ様です」
高科は慌てて姿勢を正した。所長と呼ばれた男性は、その様子に苦笑すると、語りかける。
「君は優秀だ。だからこそ、知っておいてくれ。事件関係者に、必要以上に感情移入していては身が持たない。それに、他のことに気を取られていては――」
「ご安心ください、所長」
高科は彼のその言葉を遮り、断言する。
「彼女は、ただの研究対象です」
所長は再度苦笑して何かをつぶやいた。が、高科の耳には届かなかった。
「はい?」
「いや、何でもないよ。鑑定、お疲れ様。あまり遅くならないようにね、高科くん」
「お疲れさまでした」
高科は釈然としなかったが、彼が去るまで頭を下げた。
足音が聞こえなくなり、顔を上げる。
時計に目を向け、もう帰ろうかと白衣を脱ぐ。
言いたいことがあるなら言って欲しい。こういった推測は苦手だ。
そんなことを思いながら帰り支度に取り掛かった。