2,『その姿、』
ぽつりと漏らした冬月に、青年は美しい笑みで肯定を表す。
「いかにも。鋭いな、小僧」
いつの間にか青年は家の中に踏み込んでいた。
「……その姿、は……?」
細い冬月の声に青年――東龍王はさらに笑みを深くしながら答える。
「龍の王たる者は、人語とともに人型をも操るのだ……知らなかったのか? 龍使いの少年?」
驚きのあまり硬直して動けない冬月を見つめながら、東龍王はゆったりと敵意の欠片もないような動きで燭台を手に取り、ふっと息を吹きかける。すると煌々と明かりがともって、部屋の中を照らし出した。照らし出された男の顔は、いっそう妖しく美しい。
柔らかな光は壁際まで下がっていた冬月をも照らし出す。衝撃さめやらぬ彼は、ずいぶんと無防備だった。――ああ、本当に、やっとの帰還によって気が抜けていたのだ。
だから。
その姿を見て、瞬間、今度は東龍王が愕然としたように眼を見開いた。そして、――
「ん? そなた……まさか実は『女』か?」
それは、意外にも動揺がにじんだ声だった。冬月は反射でどなろうとする。
「っんなわけないだろ! あんたの目は節穴、か……」
けれど、言葉の途中で、血の気が引いた。
――自分の今の恰好は、なんだ。やっと帰還して、疲れていて、日にちの感覚が狂っていた。抜けていた。だってついさっき、湯あみをした時までは大丈夫だったから。今夜が、その日だなんて。今、自分は――いつもの呪術をしていない。
ああどうして、こんな。思って、指先が震えだす。
細い腰。華奢な手足。――そして胸のふくらみ。冬月はばっと自分の肩を抱くとその場にしゃがみ込む。細かな震えが、止まらなかった。
冬月は、女だ。
それは親が死んでからは誰も知らない、阿星でさえ知らない彼の――『彼女』の、秘密だ。その秘密を守るためにどれほどの苦心をしてきたことか。師も親友すらも欺き、偽ってきたのだ。肉体すらも変じさせて。
そのためだけに、本来龍の一族が使用することのない『呪術』を頭に叩き込んだのだ。知識は亡き父が残してくれた。動物の遺灰と清水を混ぜて作った呪物を使って、四十日に一度、真夜中に、それが解ける前に重ね掛けをしている。――己の肉体を『男の体』に擬態させるために。
立居振舞も言動も、生まれた時から男として振る舞っているのだから少年そのもの。自分でも性別をほぼ意識しないくらいに、男として生きてきた。生きて、来たんだ。
なのに。こんな形でそれが崩れてしまうなんて、そんなこと――ああ、本当に。
ばれないはず……だった。ばれてはいけなかった。無意識に心臓に当てた手で、固く拳を握る。服の内側でペンダントがチャリンと揺れた。
「そなた……なぜ性別を偽っている? 昨日今日の話ではないな、立ち居振る舞いまで板につきすぎている。私もすっかり騙されていたぞ」
さすがに驚いた顔のまま、東龍王は当然の疑問を冬月に投げた。
「……」
冬月は答えない。それに東龍王は眉根を寄せるが、頑なに冬月はそちらを見ない。
無言、しばし。どちらも強情さは筋金入りだったが、さすがに年季が違った。十分もの無言の攻防のすえ、根負けしたのは冬月だ。
「……龍使いには、女じゃ成れないだろ。僕には力があるのに、女じゃだめだから」
答えた声はどこか虚ろ。答えになっているようでなっていないそれには、言葉以上のものがきっとにじんでしまった。けれども固く結んだ唇は追及を拒み、今度はどれほど視線で威圧されても答える気はない。それを察したのか、そもそも興味がたいしてあったわけではないのか。判らないが、東龍王は頷く。
「ふうむ。それで、偽って龍使いに? ……しかも女のくせに、あの所業か」
ふっと息をついたかと思うと、蹲って東龍王を睨む冬月を見ながら彼は笑い出した。爆笑である。
「変わった坊主だったから少し興味があっただけだったが……予想以上に面白いな、そなた……」
目の端にうっすらと涙を浮かべるほど笑ったあと、そう彼は言う。
……いったいどこにそれほど爆笑する要素があっただろうか。これはまさか喧嘩を売られているのだろうか。冬月は想定外の東龍王の反応に、思わず胡乱な視線を浴びせた。なんだろう、この笑い声、癇に障る。睨む目に憎しみを込めていると、やっぱり面白そうな顔で、突然東龍王は冬月の顎をつかんで顔をよせた。その強引さに、冬月は目を剥いて抗議しようとする。
「なんっ……」
が。
「決めた。そなた、私の妻になれ」
……。………。なんて?
抗議にかぶせられた言葉のその内容に、冬月の頭は一瞬真っ白になった。……いやいや。……いやいやいやいやいや。たっぷり十秒は静止していたが、覚醒と同時に勢いよく彼女は東龍王の手を払った。
「あんた頭おかしかったのか」
本音もこぼれた。
なお、パシーン、と小気味よい音を立てて手を払われたことが意外だったか、東龍王は一瞬キョトンとした顔をするも、すぐにまた笑い出した。何で笑ってんだよ。駄目だこいつ、変態だ。理解できない。いや、この龍の言動は一から十まで理解できないが。
けれども東龍王は再び手を伸ばして、冬月を引き寄せようとする。直観的に身の危険を感じて、思わず叫んだ。
「触るな!」
瞬間弾かれたように東龍王は手を引いた。――言霊が発動したのだ。
「……ほう。私を従わせるとは。なかなかの龍使いだな」
言いつつ顔は余裕である。顔がなまじ整っているから、その表情がこ憎たらしい。腹が立つことこの上ない。なんだこいつ。
だが、どうやら今の自分は言霊が発動するほど龍気が満ちているらしい。これは好都合だ。冬月はこの機会に畳みかけることにした。
「山へ帰れ、東龍王。……僕の秘密は誰にも言うな」
言霊に乗せて命じる。東龍王は一瞬不快気な顔をしたが、すぐにまた不敵な笑みを浮かべた。なんだこいつ。腹の立つ変態だな。
「まあ、今日のところは仕方ない。秘密も言うまい、私も知られたくないしな」
「東龍王、さっさと行け!」
叫ぶが、東龍王は怯むどころかさらに笑みを深くする。次の瞬間、東龍王は触れそうなほど冬月の近くに立って蹲ったままの彼女の上に少し屈みこむと、甘い声で囁いた。
「私の名は『ジェタ』だ。そなたにはわが名を呼ぶことを許そう。――冬月」
名前を呼ばれて我に返り、冬月はぱっと腕を振る。が、すでにそこに東龍王の体はない。東龍王は入り口のすぐ外で本性たる龍へとその姿を変えながらのたまった。
「また会いに来よう」
そしてあっという間に飛び去っていく。なんかいらん許しを得た冬月は、しばし呆然としていたが、再びはっと我に返って外に飛び出……そうとして、とどまった。今の姿を、万が一にも里人に見られてはならない。だから、ただの無意味な足搔きでしかないが、ぼそり、すでに豆粒ほどの大きさの影に向かって呟いた。
「変質者はお断りだっ……!」
どうせ聞こえてなどいるはずもないそれは、夜の闇に消えていく。眉間にきつく皺を寄せた冬月は、バタンと音を立てて玄関を閉めた。
(呪術……かけ直さないと)
ふらりと、ここ数日のすべての疲労がのしかかる体を無理やり動かし、機械的に冬月は準備を進めた。あの、ふざけた東龍王に秘密を知られてしまったことが重くのしかかる。
(この身体が、女だから……)
ひどくうつろな紺青の瞳で、冬月は思う。冬月は女だ。それを隠している。隠せねばならない。――女の龍使いは、存在しないのではなく、存在を許されないのだから。
バレれば死ぬ。そういう秘密なのだから。
「……っ」
こみ上げるものを飲み下し、冬月は手を動かした。それでも、もし、あの人語と人型を操る東龍王が秘密を言いふらしでもしたら、どうすべきか、と、そんなことばかりがぐるぐると頭を巡っていたのだった。
――そうして、心身ともに疲れ切って迎えた次の日。結果的に、東龍王・ジェタは秘密を守った。が、非常識な訪問者(変態)が毎日欠かさず冬月の家にやってくるという事態に陥ったのである。
家から追い出し、森で落ち合うようにいたるまでの道のりで、冬月は、ジェタへの遠慮と畏怖をきれいに捨てた。