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天統べる者  作者: 月圭
第五章 海鳴りに凍果つ
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9,『どうしようもなく馬鹿なことをした、(Side郁)』


 郁は、後悔をしていた。自分はなぜ、あそこに行ってしまったのだろう。


 崖から落下して、たたきつけられた海水は、この時期にしては高い温度で、郁と冬月の全身を包んでいる。不幸中の幸いというべきなのか、南龍の巣周辺は、龍の灼熱の吐息の影響を受けているため、真冬であってもやや温いのだ。


 けれど、波は彼らの体をもてあそぶように荒れ狂っていた。海面にたたきつけられた衝撃も冷めやらず、さらには郁と冬月を探しているのだろう、海上から轟く咆哮が、水中に合ってさえ身を竦ませる。それに、南龍の巣の近くの集落で暮らす郁は、知っている。龍は海に入ってこられないわけではない、ということを。


 龍の形は様々で、とくに蛇型の龍は水中でも自在に動いて見せる。……南龍王は蜥蜴型で、泳ぐのには向いていないためか、それともほかに理由があるのか、今はまだ、海に沈んだ二人を追って海中に入ってくる龍はいない。


(ごめ、ごめんなさい、兄ちゃん、オイラが、オイラが絶対、兄ちゃんを助けたるから!)


 姉を助ける、と約束してくれた彼らを、どうしても信じることができなくなって、ここまで来てしまった愚かな自分。それなのに、冬月も、阿星も、世悧も、郁を守ってくれた、必死に助けようと手を伸ばして、その腕の中にかばってくれたのだ。


(けい)姉ちゃんのこと、ちゃんと助けてくれとった。あんな、危ないことになっとったのに、見捨てんかった)


 涙がにじんで、海の中へ消えてゆく。泣くな。泣くな。泣くな! 自分は馬鹿だけど。冬月たちの邪魔をしてしまったけど。郁をかばって怪我をして、海面にたたきつけられた瞬間すらも、抱き込んで衝撃から守ってくれた冬月は、意識を手放してしまっている。だから自分が絶対に助ける。助けるから。


(兄ちゃん。冬月兄ちゃん、死なんといて!)


 郁は、水の民だ。子供であろうとも、海の中が一番早く動ける。自由になれる。大人一人を引っ張って泳ぐなんて、造作もないことだ。姉・蛍とはそうやってよく遊んだし、父を海側から集落に運ぶのも、最近は郁が率先してやっていたのだ。ましてや冬月は父より小さくて細く、軽い。泳ぐのには何の障害にもならない。


(でも、母ちゃんがいうとった。父ちゃんらはオイラたちみたいに、息が長く続かんから、気ぃ付けて運ばなあかんでって)


 水の民は、十分程度なら苦も無く潜っていられる。けれど、水の民以外ならせいぜい一~二分くらいが限界だ、と。それは、冬月だって同じだろう。


 郁は、泳いだ。冬月を連れて、自分にできる最速で、出来る限り遠くへと逃げるために。途中でざぱり、と冬月の息を継ぐために顔を出した時、頭上には龍はいなかったが、その咆哮はまだ近かった。


(兄ちゃん、息しとるよな!? 血、血ぃが、)


 額と足の出血が一番ひどいが、それ以外にも擦り傷や切り傷が無数についている。それでも真っ青な唇から、わずかに吐息が吐き出されたのを感じた。そして、その瞼がうっすらと持ち上げられ、紺青の瞳が郁を映す。


「兄ちゃん!」


 思わず声を上げれば、冬月はげほっ、と水を吐き出して、同時に郁の口をぱっと手で塞いでくる。そっと周囲を警戒している様子に、郁もざっと青ざめて、チラッチラッと視線を周りに投げた。——龍が、こちらに気づいた様子は、なかった。ほっと息を吐き出す。そして、ようやく、郁の口をふさぐ冬月の手が、細かく震えているのに気づいた。寒さか……毒か何かか。


「も、もうちょい、もうちょいやで、兄ちゃん! オイラが集落まで連れてったる!」


 声を殺して叫べば、冬月はパチリと大きな瞳を瞬いて、そして次の瞬間、ふわっと笑った。その笑顔に見惚れていれば、今度は力強くうなずきを返される。……ああ、信じてくれたのだ。


(オイラは信じんかったのに、兄ちゃんは……)


 郁を、信じてくれるのだ。胸がぎゅっと引き絞られたような気がした。また涙がこぼれそうになる。けれど、今は泣いている場合じゃない。


「ほな、行くで!」


 ぎゅっと絡めあった手で冬月を引っ張り、二人で大きく息を吸い込んで、再び海中に潜った。今度は冬月の意識がある分、さらに早い。というか、水の民とまではいかないが、相当慣れているのだろう、と思わせる無駄のない冬月の泳ぎのおかげで、思った以上にすいすいと進むことができた。これがあんなにもぼろぼろになって、つい先ほどまで意識を飛ばしていた人間の動きだろうか、と驚くけれど、同時にすごい! という尊敬の念でいっぱいになった。


(せや、冬月兄ちゃんたち、龍使いさんだったんや!)


 はるか昔、千年ほど前の地殻変動で、ことごとく住処を破壊されて戸惑い、国に所属しないがゆえに支援も保護も受けられず、途方に暮れていた水の民たちに、手を貸し、援けたのが龍使いたち、龍の一族(トゥ・ヴァン)だったという。言い伝えでは地殻変動以前から親交があり、それゆえにたびたび両一族は支え合い、助け合ってきたのだと。


 そして、千年たった今も関係性は変わっていない。人々の間で時に迫害され、恐怖されたり、逆にその異能を狙って追い回されたりする龍使いたちを、たびたび水の民は匿ったり、逃がしたりしてきた。そんな水の民を龍使いも信頼し、やはりその一族の独特な体質などから白眼視されたり、気味悪がられたりする水の民を、龍の一族は物資や知識面で支援したり、荒事から守ったりしてくれているのだ。


 そして途中で何度か息継ぎのために短い浮上を繰り返しつつ、泳いだ。そしてようやく、集落の入り口が、見えてくる。最後の長い潜水を終えて、ザパッと海水から顔を出した時、隣で同じように泳いでいた冬月の体から、かくっと力が抜けたのを感じた。


「に、にいちゃん! 誰か! 誰かぁ! 兄ちゃんを助けて!」


 それから、すぐに集落の大人たちがやってきて、明らかに戦闘後のぼろぼろで意識を失った冬月を引き上げてくれたが、てんやわんやの大騒ぎになったのだ。




   ☽☽☽




 バシッと乾いた音を立てて、郁はほほを張り飛ばされた。周囲の大人はとっさに動こうとしたが、郁を張り飛ばした阿星の表情を見て、踏みとどまっている。なだめるように世悧が、阿星の肩に手を添えていたが、その世悧もまた、大人としての矜持だけで、ギリギリ怒りをあらわにすることを耐えている様子だった。


 びりびりと痛みを訴える頬に、郁はそっと指をあてる。ああ、手加減されている、と思った。あの崖の上、龍を相手に大立ち回りしていた阿星が本気だったなら、自分は意識を失うほどに吹っ飛ばされているに違いない。


 ——郁たちが集落にたどり着いて、しばらく後。どんな手段を使ってか、冬月の居場所を特定したのだろう阿星、世悧、駆麻が集落に駆け込んできたのだ。集落の入り口は、二つある。郁が使った、海からのものと、陸地にある洞窟から続くもの。阿星たちはそのうち、陸地にある入り口からやってきたようだ。


「「冬月!」」

「冬月君!」


 帰ってきた郁が、冬月を「オイラの恩人で、龍使いの兄ちゃんや!」と叫んだために、よく状況が飲み込めないなりに、うっすらと感じるものがあったらしい集落の大人たちによって、冬月は既に着替えや手当をあらかた済まされて、今は郁の家で静かに眠っていた。部屋へと駆け込んできた阿星たちは、そんな冬月に我先にと走り寄った。


 真っ白な顔色で、けれど確かにゆっくりとした呼吸を繰り返している冬月を見て、ようやく安堵した阿星と世悧は、眠る冬月の両手を取って、へなへなと座り込む。その指が、カタカタと震えているのを、郁は見た。同じく駆け込んで、ほぅっと息を吐いていた駆麻も汗だくで、壁に背を預けてずるずると座り込んでいる。


 そして、しばしの沈黙の後、ゆらっと立ち上がった阿星が、無言のままに郁の頬を張り飛ばしたのだ。その挙動に、どれだけの激情が籠っていたのだろう。阿星は肩で息をしていて、真っ赤に腫れた瞳で、かみしめすぎた唇はまだ鮮血に濡れていて。南龍の巣から逃げ、休む間もなくここまで来たのだろう、手当てもされていない手足も服もボロボロだった。


「……お前が、郁が、出会って数時間しかたたねえ、俺らを信用できねえのは、仕方ねえ。ここまで、冬月を連れてきて、手当てしてくれたのは、感謝してる。……けど、けどなぁ!」


 郁のほほを張った右手を白くなるほどに握りしめて、阿星は低い声で、告げる。


「俺にとって……っ、俺らにとって、冬月は、喪えない存在なんだよ! お前が、やったことは、冬月だけじゃねえ、あそこにいた全員を危険にさらしたって、忘れんな!」


 血を吐くような阿星の叫びが、郁の心に刺さった。


 姉が、助かったことは、知っている。阿星と世悧が、郁との約束を守って、助けてくれたことを、知っている。駆けこんできた阿星たちとともにやってきた集落の大人たちが、喜びの声を上げていたから。冬月に駆け寄った阿星たちが、安堵でへたり込んでいた間、ぼそぼそと続けられた話と、バタバタと外を走り回る足音が小さく聞こえていた。


 姉が助かったのは、うれしい。大人たちの話では、色々と問題もあるみたいだけど、それも何とかなりそうだと、そんな風に聞こえた。それは全部全部、冬月たちのおかげで、彼らが姉を助けて、救ってくれた。


 なのに、自分は何をしているのだろう。


 彼らの邪魔をして、護られて、怪我をさせて。冬月を集落まで運んだから、なんだっていうんだろう。郁さえあの場に居なければ、冬月は崖から落ちることなんて、きっとなかった。


 うつむいた先の木の床に、滴が落ちて色を変える。ぼたぼたと、流れ出ているのは、郁自身の涙で、泣くなと思うけど、止まらない。はたかれた頬が痛いんじゃない。そうじゃなくて、ただ、どうしようもなく馬鹿なことをした、自分自身が許せない。


「っ、ぅえ、ご、ごめ、ん、なさいぃぃぃ、」


 枯れ果てるほどに、泣いた。











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