8,『声は、自分で思っているよりも震えて、か細かった(Side阿星)』
ガラガラと崖が崩れる音と共に、落ちていった幼馴染に、伸ばした阿星の手は、届くはずもない距離だった。そして、落下していく冬月と郁を追うように、南龍王が風を切って飛ぶ。
「っ、冬月ぃ!!!!」
思わずほとばしらせた絶叫に、何の意味もない。へばりつくようにのぞき込んだ崖下では、間一髪、龍王の牙が届く寸前で、海面にたたきつけられた冬月と郁の姿をかろうじてとらえた。
呼吸が荒くなる。喰われていない。二人、は、冬月は、龍に喰らわれたわけではない。
「阿星!」
崖下を覗き込んでいる阿星の肩を、強く世悧が掴んだ。今、この間に逃げるんだと、そう言っている。
そうだ、今、龍王たちが冬月が飲み込まれていった海に集中しているうちに、こちらの挙動に気づかないうちに、逃げて、態勢を整えなければならない。
南龍たちは、つい先ほど、龍王すらも圧倒し、この場に存在するすべての龍を十数秒も止めて見せた、冬月を、冬月だけを脅威とみなして警戒している。
(わかってる、わかってる、……あいつは、大丈夫だ! 東龍の巣からも帰ってきただろ!)
血が流れるほどに唇をかみしめて、阿星は決断する。バッと海から視線を外して、振り返った世悧も、ひどい顔をしていた。阿星の肩を掴んでいたのと反対の手は、握りしめすぎて血が滴っている。
それでも、今は。
こくん、と阿星は世悧に頷き返し、二人同時に走り出した。森の中へ、走って走って、少しでも早く、速く、速く!
世悧が言っておいたのだろう、先に森に逃していた少女たちと御者の男は、やや頼りない足取りで、それでも着実に森の中を進んで、うち捨てられた馬車がある場所までたどり着いていた。
パッと周囲を見れば、馬車がここまで通ってきた道は、おおよそ視認できそうだった。阿星と世悧は無言で御者台に飛び込むと、御者を含め、少女たちを馬車に乗せ、まだつながれたまま生きていた馬を操って、その場を早急に離れる。
(速く、速く、行かねえと、あいつを見つけてやらねえと!)
万全の状態の冬月なら、海から落下した程度でここまで心配しない。阿星たちは樹海育ちだが、湖もあったあの里で、東海師範のもと、水練は嫌というほどやらされた。湖と海とは勝手が違うだろうことはわかるが、それを差し引いても冬月なら泳ぎに不安はない。
しかし今の冬月は、手負いだ。額、手足と切り裂かれた無数の傷、さらには足を矢で射抜かれ、あの時の様子からしておそらく毒矢だったと推測できる。耐性はあっても、何らかの影響は出ているに違いなかった。
「……隊長、まずはあの村に、戻るってことでいいっすか?」
深呼吸をして、どうにか声を震えさせずに、阿星は尋ねた。視線は前に固定したままだけれど。そもそも、馬車が通れる程度の幅がある場所と、位置関係からの方向感覚だけで進んでいるのだ。道を間違えてはいない自信はあるが、一歩間違えれば木々に衝突するような狭い道で、よそ見はできない。
世悧の顔を見られないのは、それだけが理由ではないけれど。
「ああ、そこから水の民の集落へ行こう。……駆麻殿がどうなったのかも、気になる」
二人の意見は一致した。——水の民の集落へ行こうとしているのは、もちろん理由がある。だって冬月は、郁と一緒に落下した。そして、郁は幼くとも、水の民だ。
(郁が、冬月を連れて自分の集落に逃げたって可能性は、決して低くねえ筈だ!)
否、これは随分と楽観的な希望的観測、かもしれない。それでも、やみくもに海に潜って冬月を探すのは、あまりにも無謀すぎる。幸い、今の阿星たちは、保護できた少女たちを連れている。……水の民の血を引く、郁の姉・蛍を連れているのだ。頭ごなしに追い返されることはないはず。
何とか、冷静に、冷静に、と自分自身にい聞かせながら、頭を回転させ続ける。これからの動き、やるべきこと、推測と取れる手段。……考えることを、動くことを一瞬でもやめれば、嫌な想像に取りつかれそうになるから。
約一年前、一度永遠に失ったと思った、幼馴染。冬月はその数日後、ぼろぼろになりつつも、いつもの調子で帰ってきた。ただいま、と阿星に言った。
だから今回も、大丈夫だ。大丈夫だ。……大丈夫だ。冬月はしぶとい。悪運も強い。たった数時間しか接していないが、郁という少年が、簡単に人を見捨てるような子供ではないとも感じている。だから、だから。
……ただ、冬月はときどき、ぞっとするほど、自分の命を軽いものみたいに投げ出すことがあるけれど。
一年前、蜜香をかばって東龍の爪に捕らわれ、攫われたときも、今回、世悧をかばって矢に当たったことも、南龍王の吐炎から阿星を救ったことも。今も、もしかしたら、郁をかばって、……
(……駄目だ、悪い想像だけ膨らませたって意味がないだろ!)
頭を振って後ろ向きな自分を追い出す。隣で世悧が似たような動きをしているのは……ああ、彼もやはり、同じ葛藤と不安にさいなまれているのだろう。
そうしてまた唇をかみしめそうになった時だ。一瞬だけ視界をかすめた、世悧の右腕を、阿星は反射的につかみ上げた。
「うあっ、と、」
急な阿星の挙動に、世悧が驚き、同時に手綱がブレる。馬がいななき、馬車が揺れた。何とかそのまま停止して事なきを得たが、流石の世悧も声を荒げた。
「おい! 阿星、何をするんだ!」
けれど阿星はそれどころではない。掴んだ世悧の腕をじっと見ていた。……正確には、その腕にはまる白い腕輪を、見ていた。
「……隊長、冬月は、絶対生きています」
阿星の声は、自分で思っているよりも震えて、か細かった。けれどすぐ隣にいた世悧にははっきりと届いたその言葉に、彼はヒュッと息を飲み、掴まれているのとは逆の手で、阿星の肩を軋むほどに強くつかんだ。その指先から、小刻みな震えが伝わってくる。
「それっ、阿星、お前、ホントか!? てか、どういうことだ……!?」
紅玉の瞳には、期待と不安と動揺がないまぜになって揺れている。そんな世悧に、阿星は翡翠の瞳に力を宿して、答えた。
「本当です。手短に説明するっすけど、——隊長の右腕にはまってるの、冬月の龍珠っすよね? これ、最初に話したっすけど、『龍珠』っていうのは、龍気が形を成したものなんです。で、そして持ち主が生きている限り龍珠は消えないし、持ち主と引き合うっつーもんなんすよ!」
「は? ……は?」
やや興奮しながら、若干の早口で説明した阿星に、世悧は混乱しているようだ。しかし、すぐに言われた内容を咀嚼し、ふっとその顔に喜色がさした。
「……つまり、万が一冬月が死んでるなら、俺の腕にある冬月の龍珠は消えてなくなるはずで、まだ龍珠があるってことは、冬月は生きてるってこと、か!?」
「そうっす!」
普通は、龍珠は持ち主が肌身離さず身に着けているものなので、それで生存確認を行う、ということを失念していたのだが、世悧の右腕が目に入った瞬間に、その性質に思い至ったのである。
そして、もう一つ。
「冬月の居場所も、あいつの龍珠があれば探れるっすよ!」
「なんだと!? 龍使いやべえな!」
たぶんうっかり、世悧から本音がこぼれ落ちたが、阿星は気にせず握りっぱなしだった世悧の右腕の、白い腕輪を見る。
「言ったっしょ、龍珠は持ち主と引きあう、って」
「その『引き合う』ってのは、どういう……?」
「例えばうっかり落っことしてなくしたり、盗まれたりしても、どこに龍珠があるのかわかったり? ……『引き合う』っつうのは結構微妙な感覚なんすよ。言葉で説明するのは難しい感じで……」
龍珠は、長年持ち主の龍気を込められ続けた、特殊なものだ。つまり、龍気を通して、龍珠と持ち主はつながっている、ともいえる。そのつながりを龍使いは感じ取れるのだ。……まあ、他人の龍珠でもそれができるのは、冬月と阿星のように互いの龍気によほど慣れ親しんでいる場合だろうけれど。
とにかく、今は細かい説明は省く。とにもかくにも、冬月の所在の確認が最優先だ。こくりとうなずきあって、阿星は冬月の龍珠に額をつけ、意識を集中させた。
……その龍珠が、世悧の腕にぴったり嵌ってうんともすんとも動かない状態のため、はたから見ると世悧の腕に額をつけているようだが、今この場には真剣な顔をしている阿星と世悧しかいないので、突込みは何処からも飛んでこなかった。
そしてしばし後。ギラリと光る瞳で、阿星は笑った。
「……見つけた」




