7,『燃えるように輝いていた』
なぜ、ここに、郁がいるのか。駆麻の姿も見えず、状況の把握が遅れる。——ただ、郁が飛び出してきた場所は、海にほど近い、森の端だった。
(まさか、集落から、泳いできたのか!?)
それはおそらく、不可能ではない。水の民は、恐ろしく泳ぎがうまい一族で、……生まれてからずっと、この近くの集落に住んでいる郁は、このあたりの海のことも、地形も、海から陸へと上がるための最短ルートも、知り尽くしているはず。
いずれにせよ今、郁はこの場に来てしまい、そしてわき目も振らず、姉の所へ来ようと走り出していた。一瞬だけ視線を巡らせれば、郁の姉らしき黒髪の少女は、転んだ姿勢のまま、うずくまっている。先ほど転んだ拍子に、足をくじいたのかもしれない。それを世悧が支えて、森へと誘導しようとしていた。
そう見て取ったところで、襲い掛かってきた牙を、冬月は紙一重で避けた。——が、同時に襲ってきた爪を、躱しきれなかった。
「「冬月!!?」」
阿星と世悧が同時に叫んだ。冬月は一瞬、すさまじい衝撃に意識が遠のきかけたが、空中でを整えて何とか降り立つ。
「掠っただけ! 籠手で受けた!」
叫び返す。事実、籠手で顔を庇い、直撃はしていなかった。それでも圧で額を切ったか、出血はおびただしい。今の冬月には龍珠が半分しかない、というのが響いていた。
しかし龍の一族は、根本的に常人より龍の攻撃が効きにくいのだ。長年の感覚から言っても、大事はない。執拗に怪我ばかり負わせてくれたかつての師に、感謝だ。
「動くな!」
冬月はその巨躯に向かって駆けながら言霊を放つ。しかし、激しいうなりとともにその尾が冬月を襲った。持ち前に身軽さで躱したものの、先ほど攻撃を受けた時に頭に衝撃を受けたためか、視界がぐらっと揺れた。冬月は激しく舌打ちをする。
一方阿星は、冬月をかばうように龍王を正面から見据えていた。そんな二人の後方では、十一人全員を早急に森へと移動させようとし、さらには郁をも保護しようと焦る世悧がいる。郁は、まだ遠い。
龍王の指示次第で、いつほかの龍が、襲ってくるともわからない中、龍王の目にもとまらぬ爪撃が始まった。冬月は籠手、阿星は剣を駆使し、持ち前の身体能力で俊敏に避けるも、十爪の連撃のすべてはさばききれず、顔や手足に無数の切り傷が走る。
龍王の、牙の間から滴る唾液。知性のうかがえない淀みを秘めた血色の瞳。
(捕食ではなく、殺すために、殺そうとしている?)
そう思った次の瞬間、再び冬月と阿星は同時に叫んだ。
「~火を吹くなあああ―――っ!!!!」」
その一瞬だけ、龍王の動きが完全に止まった。間髪入れずに冬月は拳を振り抜き、阿星は剣で龍王の腕を薙いだ。
その鱗には傷ひとつつかなかったが、それでも龍王が一瞬体勢を崩し——。
刹那。
「ギャアアアアオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
「うああああああああああああああああああああ!!!!!?」
真上からの咆哮と、後方からの絶叫。空には——いつの間にか、数十頭の龍が舞い上がっていて、そのうち一頭が口から吐き出した暴風が、先ほどまで郁がいた場所をずたずたに切り刻んでいた。
「「「郁!」」」
叫んだのは全員。しかし少年は、すんでのところで風の刃から逃れたようで、致命傷は見えない。ただ、風にあおられたその軽い体は、森ではなく崖側に吹っ飛ばされていた。
そんな郁に駆け寄る余裕は、冬月にも阿星にも、世悧にすらない。一瞬で体勢を立て直した龍王が仕掛けてきた攻撃を、渾身の力で撥ね返した冬月たちは、上空を旋回する龍たちまで警戒しなければならないのだ。
すでに、東から朝日が昇って、夜が明けている。冬の朝日に照らされて、南龍たちの鱗は燃えるように輝いていた。
これは、何が何でも、逃げなければならない。態勢を、立て直さなければ。この場で龍王の状況を観察し、あまつさえ正気に戻すなどという離れ業は、無理に等しい。
けれども、逃げ切れるか。……どうにか、少女たちは全員が森へ逃げ込んだのが見えた。
(でも、くそ、郁が!)
焦燥が募る。けれど、目の前の龍王のひと吼えで、上空の数十頭が、かぱりと口を開けたのが分かった。ざっと血の気が引く。
「「動くな!!!!!!!」」
のどが裂けそうなほどに、叫んだ二人の言霊は、ギリギリのところで、龍たちの動きを止めることが叶った。その間に、少女たちを逃がした世悧が、冬月たちの後方から崖にむかって、郁を保護に走り出している。
それを見とめた、瞬間。———視界の端に、映ったもの。
森の中、枝の間。南龍の赤ではなく、朝日に輝く鋼の、銀色。
狙われた一点を瞬時に認識した冬月は、考えるより先に体が動いた。
そして、冬月の左足から朱が散ったのと、世悧が驚愕に目を見開いて振り向いたのと、阿星が龍王の尾をはじいたのが、すべて同時だった。
「冬月!!」
驚愕しながらもどうにか足を止めず、郁のもとまではたどり着いて、その小さな体を抱き起こしながら、世悧が叫ぶ。
冬月の左大腿部に深々と刺さっていたのは、一本の矢。その周囲には、冬月がはじいた二本の矢が転がっている。三本連射された最後の一本を、退けることができなかった。
そしてそれらは、過たず世悧の背中を狙ったもの。龍を警戒し、郁に気を取られていた世悧の、完全な死角からの攻撃だった。冬月も、鏃に朝日が反射しなければ、気づけなかっただろう。
(っ、毒か!)
くらりと視界が揺れて、矢に毒が塗られていたことに気づいた冬月は、夥しい出血には目もくれずに、一気に引き抜いた。症状には覚えがあった。耐性もある。死にはしない。ただ、身体の動きはやや鈍くなってしまうことに舌打ちをした。
森の方を見るけれど、すでに射手の存在は感じ取れない。失敗を悟ったのか、逃げたようだ。その間に、阿星は一人で龍王をけん制している。
「逃げるぞ!!!」
振り向かずに、龍王と対峙しながら阿星が叫ぶ。冬月も、常備している造血剤を口に含み、手早く患部を縛って止血してから、立ち上がった。世悧も郁を抱き上げている。
けれど、阿星が走り出した瞬間、龍王の爪が、彼を襲った。
「止まれ!」
反応が遅れた冬月は異能を使えず、阿星だけが叫んだ言霊は、弾かれる。阿星は爪を剣で受けるも、そのすさまじい膂力に踏みとどまれず、吹っ飛ばされた。……世悧と、郁がいる方向へ。
「ぐあっ」
すでに走り出していた世悧にむかって、正面から衝突した阿星。その阿星が握ったままだった剣を、とっさに世悧は己の剣を抜いていなすけれど、勢いを殺しきれず、三人まとめて崖の方へと倒れ込み、それでも止まらずに崖の淵まで転げて行った。体重の関係か、崖に近い方から郁、阿星、世悧が倒れている。
「阿星! 隊長!」
蒼白になって叫んだ冬月の視界には、上空で口腔を開けた龍たちが映っている。そこから、炎が漏れ出そうとするさまが、コマ送りのように見えた。狙われているのは、崖の方。全身を打ち付けて、すぐには動けない、阿星と世悧と、郁。
(あ、)
頭が真っ白になって、胎内で熱が渦巻いた。
「っ、動くなあああああああああああああ!」
その時、冬月から噴き出したのは、龍王すらも圧倒する、龍気だった。朝焼けの中でとどろいた言霊に、その場のすべての龍が、硬直する。
冬月は駆けた。毒の影響なんて、怪我の痛みなんて、そんなもの今は感じなかった。ただ阿星と世悧のもとへ行かなければと。二人を助けなければと。
「走って! 隊長! 阿星!」
恐ろしいほどの沈黙の中、何が起こったのか理解できていない世悧と阿星を怒鳴りつけ、冬月はそのまま郁を抱き起す。
「……にいちゃ、ごめ、オイラ……」
うっすら目を開けた郁が小さく言う。それにこたえることも出来ず、冬月はただ立ち上がる。そして冬月たちは、森の中に向かって走りだそうとした。
でも、一瞬、背筋に怖気が奔った。咄嗟に、目の前の阿星の背中をどんと押し、腕の中の郁をかばうように、体を丸める。
——カッ!!!
冬月と阿星の間を、奔りぬけたのは、灼熱の吐炎だった。言霊による硬直がとけた、龍王が、すぐそばに、いる。
「!」
そして、冬月と郁めがけて振り下ろされた前足をぎりぎりで飛びずさってよける。先ほどまで忘れていた毒の効果で、身体が重い。声も出せず震えている郁が、腕の中で冬月にしがみついている。
阿星、冬月、どちらも言霊を発するが、どちらも弾かれる。そして、龍王の爪を紙一重で避けた——と、思った。
「え、」
ふわっと、浮遊感。ざあっと血の気が引く。顔が引きつる。だって、足元にあるはずの地面が……なかった。正確には、崖っぷちで龍王の攻撃を何度も避けて、その度に抉られた地面が崩れて、そして—————落下。
「う、げ、」
何か前にもこういうのあったなああああああああ!? と思いながら、冬月は落ちていった。郁と一緒に、海の中へ。
そして、視界が暗転する。
主人公、作中通算3度目の高所からの落下。




