15,『『人』は、すぐ壊れる(Sideジェタ)』
冬月たちの様子を上空から見守る、人影があった。
ジェタは人型のまま背から翼だけをはやし、音もなく中空に浮遊している。彼がいるのは地上数百メートル、いかに月が明るかろうとも見えない場所で、心乱れる冬月はもちろん、誰も彼がそこから、はるか下方を注視し、かつ鮮明に一つ一つの光景を見ている、などという事に気づいていなかった。
しかし、龍であるジェタにとって、下の様子を知ることなどたやすい。彼の視力も聴力も、人間とは比べ物にならないのだ。
「隊長ってば、お父さんみたいですね」
「おとっ!? お、俺はお前らみたいなでかい息子がいるほど老けてない!」
などと言う下らない会話まで、一言一句違わずに聞き取れるし、その会話の主たちの親しげな表情も細部まで見通せた。
ジェタはギリ、と歯を食いしばる。その直後、そんな自分に首をかしげた。
不思議なことに今、自分は、すぐにでも滑空して、あの男の横から冬月を連れ去りたい、と思っている。あの男たちをこの爪で引き裂いたってよいと思ったのだ。
けれど、それをしたら冬月が、どんな顔で自分を見るのかを考えたら、止まった。……奇異なことだと、自分で自分がよくわからなくなった。
似たようなことを、冬月に言ったことはあった。ロクーだかコクーだかという名の男が、冬月にまとわりついていた時にも、ジェタが気に入るあの子供を自分の所に持ってきてしまいたいと思った。
それは、自分のおもちゃを盗られないよう、しまっておきたい子供の心理に似ていただろう。さらには、ジェタがその行動をした後、冬月が自分にどう歯向かって、どう逃げようとして、何を言うのかが興味深かった。
ジェタの冬月への言動は、ほとんどがそこに端を発する。冬月が予想外のことを言うから、やるから、面白くて見ているし、ちょっかいを出すし、彼女の言動を許し、自由にさせている。
けれど、面白いだけだ。今まで接したことがない生き物を観察するような、そんな感覚だった。
ゆえにこれまで、冬月を見ているだけだった。言葉に本気をにじませても、それを実行しようとはしなかった。実行する気がなかった。それは冬月を慮ってのことではない。ただ、外で生きているあの子供が一番面白いと思うからだ。
……ここ数日、その子供の様子が目に見えておかしいことは、もちろんジェタだって気づかないはずがなかった。ジェタは今も変わらず、冬月の行動を観察しては、やはり面白い女だと思っていたのだ。
——しかし。
ここ毎晩、一人になっている冬月は無防備で、いつでも手が出せるように思えるが、ジェタが近づくことはなかった。
(……脆い姿は、面白くない)
つつけば壊れるだろうその小さな背中は、まるでつまらないもので、だから行く気になれなかった。
そもそも、なぜ彼女が表情をゆがめていたのか、なぜ重苦しい空気を漂わせていたのか、ジェタにはわからない。理解ができない。
だから今に至るまで接触をしなかった。する気になれなかった。このまま彼女が壊れるのなら、もういいかとも思っていた。『人』は、すぐ壊れる。だから仕方がない、と。
けれど今夜、とうとうしびれを切らしたのか、何か心境の変化があったのか。冬月の近くにいつもいる男どもが動き、冬月はその表情を和らげた。
それらをも見ていたジェタには、彼女らの会話も聞こえた。しかし、理解が及ばない。冬月の『秘密』をジェタは知っている。しかし、その『秘密』がなぜ『秘密』でなければならないのかは、知らなかった。
さらに言うなら、なぜその『秘密』を知られた結果、あの男どもが離れるのではないか、と冬月が恐れているのが、どうしてなのかもわからなかった。
(離れていくのなら、その程度の関係だったのだろう? ならばこちらから切り捨てればいい話だ。何を気に病む?)
ジェタには理解ができない。彼女らのやり取りも、その感情も、結局冬月は『秘密』を語らなかったにもかかわらず、笑い合えている彼女らの関係性も。
ジェタには、人間同士の関係性などわからない。龍同士はほとんどほかの一族と交流しないし、同じ一族ならば離れることも裏切ることも争うこともあり得ないのだから。
そんな中、現在生きる龍たちの中でも最年長であるジェタが、八百年生きて、初めて龍以外の生き物と交流をもったと言えるのが、冬月だ。喰らうのではなく、襲うのでもなく、ただ言葉を交わす、小さな存在。
女なのに龍使いで、女であることを隠していて、呪術が偶然解けていなければ女だなんてジェタも気づかなかった。そして、東龍王であるジェタの前で啖呵を切って、数千メートルもある断崖絶壁から飛び降り、生還してしまうような悪運の強さと胆力がある。
これまで、ジェタが見てきた人間の中でも一等変わっていて、物珍しく面白い存在だった。『伴侶になれ』と言えばおかしなものを見たような視線を向け、ジェタが龍王であると知りながら怒ったり、けなしたり、殴ってきたり、かと思えば心配の言葉をかけてきたり、まるで普通の友人かのような態度の時もあった。
面白い観察対象、だった。
なのに今、当然のように冬月の傍らにいる男どもに腹が立つ。それはいったいなぜなのか。
(私が、そこに居たかった、とでも?)
わからない。これはなんだ? わからない。
あの子供の隣にいるのが自分ではない。ずっとそうだっただろう? 彼女の近くに居るのはあの男どもだった。別にそれで、構わなかった。
訳の分からん部外者や、冬月を不快にさせる不埒者が近づくのは、お気に入りを汚されるようで気に入らなかったが、あの男どもは冬月の付属品のようなものだから。
(『三人で伴侶』だのというのも、所詮実態は伴わないものだ。人の子はすぐ壊れるから、私たち龍よりも互いが近く、よく群れる、それだけの話)
今回だって、同じ。ただ壊れやすいものが群れているだけの話。その中に、冬月がいるだけのことだ。
それだけだというのに。
ジェタはゆっくりと息を吐きだし、かぶりを振る。
(もし、私があの男どもを殺せば、そなたは何を思うのだろう……)
想像がつきそうだったから、思考をやめた。拳を握りしめ、秀麗な顔を歪める。
ジェタにはわからない。この苛立ちの理由も、奇異な思考の原因も。
冬月に触れたいと思った。しかし心のどこかで自分で自分を押しとどめる。苦しくて、苦しくて、誰かにすがりたい。
けれどジェタは動けない。
——教えてほしい。この衝動の名前を。
ジェタは苦悩にとらわれる。理解できない何かにのまれる。
だから、彼もまた気付かなかった。森の中、同じく冬月たちの様子を見ていた二つの双眸があったことに。
☽☽☽
時を同じくして、はるか東の国。途絶えて久しい連絡を待ちながら、男はつぶやいた。
「……まさか、裏切りはせぬだろうな? ……世悧よ」
昏い部屋にともる明かりを見つめて、冷たい瞳で部下の名を呼んだのは、この東の大国で宰相の地位に就く男——汰浦だった。




