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天統べる者  作者: 月圭
第四章 箱庭の賢王
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13,『この世界の何よりも、大切だった』


「俺たちは、お前を独りにはしないよ」


 そう言った世悧には、どこにもふざけた色はない。どこまでも真摯で、冬月は思わず彼を穴が開きそうなほど凝視した。そうしているうちに、世悧の隣に立っていた阿星がゆっくりと歩み寄ってきて、何も言わずに冬月の手を握った。


 たった二、三歩、それで手が届く。そんな距離に世悧がいる。剣だこで固い感触と、乾いた体温で、阿星が冬月の右手を握っている。


 近いけれども、決して近すぎない場所で、見守ってくれる世悧と、すぐ隣でただ一緒にいてくれる、阿星。


「……ふ、」


 と、笑いが漏れた。ああ、世悧は大人なんだ、と思った。知っていたのに、それでもいつも忘れさせられるのに。こういうとき、嫌というほどはっきり痛感させられる。いつもはわりと抜けていて、子供っぽいと感じるくらいの人なのに。


(この人は、僕も阿星も抱えてくれる、大人なんだなぁ……)


 あっという間にそばに来るくせに、相手が許さない限り絶対に一線に踏み込まない人。どこがそれ(・・)なのか誰より敏感に気付いて、正しくそこで止まれる人。止まってくれていた彼を、あのトキロ村の事件をきっかけにこちら側へ引き込むこと、それを先に決断したのは、確かに冬月だった。


 ——『独りにしないよ』


 世悧はそう言って、冬月を静かに見つめている。そう、こんなときすらも、彼は待つことができる人だ。無理に引きずり出そうとは、しない人だ。


 そして、阿星。彼は何も言わず、ただ手を握っている。昔、まだ幼かったころ、両親を亡くした冬月に、同じように阿星が手を握ってくれていたことを覚えている。その体温に、ひどく安堵した。あの時も、今も。


(……すみません。ごめん。ごめんなさい)


 世悧も、阿星も、理解しているのではきっとなく、同情しているのでもたぶんない。


 ただ違わず『冬月』を見て、独りにしないように、そばにいてくれている。そっと、それぞれの距離とやり方で。


 彼らの優しさを知っていた。本当は、昨夜の阿星の慟哭にも、気づいていたんだ。それでも勇気が出なかったのは、逃げ続けたのは、自分だけ。


 揺れる、揺れる。心が、揺れる。

 崩れそうなほどに。


 この心の内の全てを語ることは、出来はしない。それは、こうまでしてもらってもまだ、怖いから。


 それでも頼っていいだろうか。

 言えないことを彼らは許して、一緒にいてくれるだろうか。


 自分は、彼らに、許される?


(——ああ、でも、もう)


 限界だった。


 冬月の紺青の瞳は泣きそうに歪んで、しかしどこまでも乾いている。その視線の先にいるふたりは、決して視線を逸らさずに今も待つ。阿星の翡翠の瞳。世悧の紅玉の瞳。


 ……冬月の大事な人は、とても少ない。両親を亡くしてからは、阿星と蜜香のたった二人しかいなかった。その二人だけが、命をかけても構わないくらい大事だった。


 どれほどの時間を過ごしても、龍使いの里の大人を冬月が心の底から信じることはできなかった。里長・雁十も、阿星の父である星尹も、東海師範すらも。掟に従ってきたのだろう彼等に、恐怖を抱いていた。阿星と蜜香以外の子供たちとは、幼いころにずいぶんと絡まれたり仲間外れにされたりといった確執があって、今は和解して友人づきあいをしているとはいえ、過去をなかったことにはできない。


 だから、冬月が心許していたのは、阿星と蜜香の二人だけ。


(いつのまにか、三人になってたんだ、大事な人)


 阿星と、蜜香と、世悧。その三人が、この世界の何よりも、大切だった。


 もう、冬月は十分逃げた。いい加減立ち返る為にも、向き合うべきなのだろう。己の為だけでなく、みんなの為にも。揺れ続けては、迷惑がかかるだけ。南龍王に立ち向かうなんて、とても、とても。


 全ては話せない。それでも不安を吐き出して、泣き言を言って、……彼らに赦してほしいと請うて、そばに居たいのだと、大事なのだと本心を伝えることはできる。


 黙ったままでは自分はここから抜け出せない。ここでも逃げてしまったら、後は、……どこにも行けずに、壊れるだけなのだろう。


(心が壊れたら、きっと僕は、『狂って』しまう)


 それだけは、駄目だ。


 だから冬月は毅然と顔をあげて、まっすぐに阿星と世悧を見つめて、はっきりと言葉を発する。


「——あまりに私情、ではあるんですけど」


 怖い。だけど、逃げるな。


 ほんの少しだけ冬月の手を握る阿星の手に、力がこもった。世悧は二、三歩の距離のまま、動かずにただ耳を傾けている。


「僕には、『秘密』があって、」


 誰にも自分の口から言ったことはないことだ。ジェタにだって、その秘密を冬月自ら話してはいない。微かに声が震えた。密かに深呼吸をして、震えを収める。


「誰にも言っちゃいけないんです。今まで、僕は誰にも話したことがない。龍使いの里の人だって、知らない事です。知っていたのは父さんと母さんだけだった」


 言いながら冬月は顔を歪める。ああ、もう取り乱しそうだ。——情けない。


 落ち着け、落ち着け。


 言い聞かせて、再び深呼吸。いつの間にか、阿星に握られているのとは反対の手で、胸元のペンダントをきつく握っていた。


「いえ、むしろ、父さんと母さんに言われて育ってきました。『誰にも話してはいけない』と」


 優しい母は、冬月に必死に言い聞かせていた。寡黙な父は、そのことだけは何度も何度も繰り返し、冬月に諭した。『どうか、お願いだから、生きて』と。


「それは大多数の人間に恐れられてしまう『秘密』で、両親は僕のことを案じてくれていたから、誰にも言うなと教えたんです」


 阿星は翡翠の瞳を痛みを耐えるようにわずかに伏せ、世悧は紅玉の瞳をわずかに見開き、そして細める。しかし、どちらも何も言わなかった。


「……阿星、隊長。僕は、この『秘密』を、まだあなたたちにも言えません」


 息を吸う。乱れた呼吸を整えようとするけど、うまくいかなかった。仕方なしに一、二回深く息を吸って、数秒目を閉じる。


 瞼の裏によみがえるのは、悪夢の名残。振り切るように、目を開く。


「この『秘密』をあなたたちに伝えるのが、僕は怖い。怖くて怖くて、……どうしようもない」


 弾かれたように阿星が目を上げ、世悧は一歩を近づこうとして、踏みとどまる。冬月は構わず続けた。


「……こわい」


 声が震えた。


 動揺し、ぐらついて。

 彼らをどうしても、喪いたくなくて。


「それなのに、そんな『秘密』なのに、あの呪術師……羽異が、何故か、僕のことを、知っていたから、だから、」


 呼吸がわずかに乱れたのに気づいて、深呼吸をする。まだ、阿星も世悧も、沈黙を守ってくれていた。それに甘えて、少しの間だけ目を閉じる。


 自分の存在という、罪。見殺しにしてきた数多の命。何もわからないままに殺されていった、龍使いの異能を持って生まれただけの、女の赤子。千年前の大罪。朧という女が引き金を引いた天変地異。数千、数億の喪われていった命。


 冬月は儚げな笑みを口の端に上らせる。


 目を閉じればいつも、悪夢の名残が追いかけてくる。逃げても逃げても逃げても、立っているのは同じ場所。


 ——『生まれてきてはいけなかった』と。


 それを、阿星と世悧に言われるのが、どうしようもなく怖い。そんな人たちではないとわかっていても、それでも彼らが紅駕屡に向けた視線を、冬月は覚えている。


 冬月は目を開いた。


「なぜあの呪術師が知っていたのか、わからない。だけど、あいつとは絶対に初対面で、なら他にも、僕の『秘密』を知っている誰かがいる……。そう気づいて、不安定になって、もしあなたたちにも知られてしまって、あなたたちが離れていってしまったらと思ったら、それが一番怖かった」


 タラスジェアの皇城では耐えられた。気を張っていたから。後回しにしていたから。でも、馬を走らせるだけの時間では、どうしても考えてしまった。余計なことまでも。


 そして混乱して、惑って、抜け出せなくなった。


 迷惑をかけたくなくて、必死で悟らせまいとした。そもそもこれは誰にも言えない、自分の問題だから。八年で培われた虚勢が、会話に受け答えをさせて薄っぺらな思考を生み出す。いつも通りを演じさせる。『努めて』、いつも通りを。


 それでも眠れば迫りくる悪夢に目を覚まし、毎晩誰もいない場所で心を宥めた。


 だけど、それももう終わりにするのだ。阿星と世悧が来てくれた。独りにしないと言ってくれた。だから。


 震えそうになる声を抑え込む。そうしてか細い声で、冬月は告げた。


「阿星、隊長、僕はやっぱりまだ、あなたたちに『秘密』を話せない」


 今は、まだ。


「……でも、約束します。いつか、絶対、話します。僕から二人に伝えるから。だから、それまで待っていてくれますか?」


 冬月の瞳には、ここしばらく欠いていた強い意志が、宿っていた。それを見て、阿星と世悧をわずかに瞠目させる。


 そして阿星はくしゃりと笑い、世悧は二、三歩の距離をゆっくり詰める。


 ふたりはひどく優しく、冬月の頭をなでた。冬月は驚いて動きを止め、ひたすら阿星と世悧を凝視する。阿星は翡翠を潤ませて、言った。


「……ばーか」


 世悧もいつになく穏やかに答える。


「——当り前だろう、冬月。俺たちは、お前を独りにしないって言っただろうが。いくらでも待ってやるさ」


 それはきっと、優しいだけではない。突き放しているわけでもない。ただ彼らから伝わってくる。


 阿星と世悧にとっても、冬月は失いたくない存在だ、と。


「……ありがとう、ございます……」


 されるがままになりながら、口をついて言葉が滑り出た。泣きそうで泣けないけれど、でもその感謝は心から。阿星も世悧も何も言わなかったけれど、フッと笑って、二人一緒に抱き着いてきた。いきなりのことに体勢を崩した冬月は倒れ、三人一緒に転がってしまう。


「もう、何するんですか!」


 重い! と悲鳴を上げる冬月に、阿星と世悧は今度こそ、声をあげて笑った。つられて冬月も笑ってしまい、やっとおさまった時には、三人とも息を切らして夜空を見上げていた。


 美しい月が浮かんでいる。


(ありがとう、ふたりとも)


 心でもう一度、礼を言う。たった三人だけの大事な人たち、そのうちの二人。


 ——何より長く傍に在り、この先も傍にいてほしい。


(だから、いつか絶対、伝えるから)


 今はまだ甘えさせて。















※彼らの距離感はバグっています。

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