12,『笑っていてほしい(Side世悧)』
世悧は森の中を、阿星と一緒に歩いていた。
——『隊長。……すみません、助けてくれますか?』
冬月が夜、ふと起き出して、ふらりと朝まで姿を消すのは、ここ数日毎晩のことだった。けれど昨夜は嵐にもかかわらず、冬月だけでなく阿星までもが出て行ってしまい、随分と長い間帰ってこなかった。昨夜の宿の外は雷雨だったのだ。冬月にしろ阿星にしろ、さすがに止めようと思ったが、……できなかった。
「————ッ! ————————!!」
だって阿星が、叫ぶように泣いていたのを見てしまった。咄嗟に木蔭に隠れたので、阿星は気づいていないだろうし、雨音にかき消されて、声は世悧にも届かなかったけれど。いつになく頼りない背中が慟哭を吐き出していて、世悧の脚は縫い留められたように止まってしまった。
阿星が出ていったのは、冬月を止めに行ったのだとばかり思っていた。その阿星もなかなか戻らなかったから世悧が追いかけ……慟哭する阿星の後姿を見た。
冬月だけでなく、阿星にもあまり余裕がなさそうであることは、なんとなく察していた。けれど、あれほど不安定になっていることには、気づいてやれなかった。
(なにしてんだよ、俺)
仲が良すぎると思うくらいに、仲がいい二人で、どちらかが心の安定を欠けば、どちらかが支える。そんな関係だと思っていた。支えきれずに、どちらも崩れるなんて、今回が初めてだ。
(けど、まだ十八だもんなあ……)
やたらと博識だし、精神的にも戦闘面でも決して弱い二人ではない。けれど、まだ、十八歳の少年だ。
そんな少年たちに対して、年長者である自分が何もできないことが、情けない。
そもそも、今回の件に関しては、頑なに冬月が踏み込ませないように拒絶をしていた。世悧も阿星もそれを察し、静観に徹していたけれど、……冬月を救いあげるのならば、阿星だろうと、世悧は無意識に思っていたのだ。
あの二人の絆は深い。そこに、自分は踏み込めない、と。踏み込む必要はない、と。
もちろん、彼らにだって言いたくないことはあって、彼らにしかわからないことだって絶対にある。それでも、『踏み込む必要がない』なんて考えてはいけなかった。なぜならそれは、彼等への、世悧からの拒絶に他ならない。
トキロ村の出来事から、越えたと思った一線を、いつの間にかまた、世悧自身が引いてしまっていたようだ。
(それで結局、阿星も泣かせて、そのくせ阿星から言わせちまったもんな)
昨夜、嵐の中の阿星に声をかけることができず、宿に引き返して少し経った頃。翡翠の瞳にしっかりとした光を湛えて、それでいて少しの不安を消せない表情で、阿星が戻ってきた。ぽたぽたと滴が全身から滴る、ずぶ濡れのまま、彼は世悧に言ったのだ。
——『隊長。……すみません、助けてくれますか?』
当たり前だろ、という答え以外、世悧には存在しなかった。……そこから阿星を着替えさせたり体を温めたりとバタバタしてしまったし、その夜はいつの間にか戻ってきていた冬月に話しかける隙が無かったけれど。
そうして、今。嵐が去って、一日晴天のなか、馬を走らせ、再び巡ってきた夜。今夜だって例にもれず野営で、そして冬月は真夜中に起き出して、姿を消した。
意識があるかもわからないような足取りで、彼は森の中へ消えていったのだ。そんな彼を、世悧と阿星は追っている。
もちろん、野営なので火の管理を兼ねた不寝番は順番にこなしているけれど、毎夜姿を消す冬月を含め、支障をきたさないように役割をこなしたうえでの行動だ。タラスジェア帝国兵士の三人は、世悧たちの行動に気づいただろうが、とがめられないのは彼らの気遣い半分、仕事を全うするのなら問題ないという、無関心半分だろう。
それに感謝しながら歩いていると、阿星が苦笑をこぼしながら世悧に告げた。
「あいつ、今たぶん自分の中じゃ処理しきれないくらい、いっぱいいっぱいなんすよね」
ほんの少しだけ、痛みをこらえるような声で。
「でもそろそろ吐き出したほうが、いい。だから隊長、頼みます」
その言葉に、世悧は眉根を下げた。
「……任せろ、と言いたいし、できることはやるけどな。正直、俺にはそこまであいつを計れないぞ」
線は引かないと決めた。それでも、冬月や阿星のことをどれほど理解しているかと聞かれれば、たじろいでしまう程度だ。けれどそんな世悧に対して、阿星は自嘲の色を濃く映した。
「確かに、俺はあいつとは長い付き合いですし、正直俺が一番、あいつのこと判ってると思いますよ」
「だったら、」
「——でも」
言いかけた世悧を遮って、阿星は続けた。
「俺だけじゃ駄目なんすよ。俺は、……まだ、受け止めきれないから」
彼は言う。
「俺じゃあ……」
その顔に浮かぶ笑みは、苦く。それでいて深い自嘲を秘めて。
「——俺だけじゃ、近すぎて、一緒に倒れちまう気がするんすよ」
世悧の紅玉の瞳と、阿星の翠の瞳が交錯した。月の光を受けて、何かが爆ぜ、消える。
「だからお願いします、隊長」
その声が、阿星らしくなくあまりにも切実だった。……普段からあんなに仲がいい二人。けれど、だからこそ、『近すぎて倒れる』と阿星は言うのだろう。
知らず、先刻の阿星と同じ、苦み走った自嘲の笑みが浮かぶ。思わず独り言ちた。
「……まったく。俺も、まだまだだ」
なんだかんだ言っても一年近く共に旅して、話し、怒り、笑ったけれども、今だって冬月にかける言葉を探して、迷っている。
改めて、世悧の認識は甘く、理解は思っていたよりずっと浅かったのだろう。阿星が、あんなに自虐的な顔をするなんて思わなかった。冬月が、あんなに追い詰められたようになるなんて思わなかった。
知りもしなかった。
冬月も阿星も、驚嘆するほどにしっかりした少年だ。世悧が世話されることだってあるくらいで、知識面では頼りっぱなしで。それでも年相応に軽口をたたきあったり、遊びの延長のような喧嘩をしたりすることもある、彼ら。
ただそんな中に時折、切れるような鋭さをも、垣間見る。
それが龍使いゆえなのかさえ、世悧には判らない。基本的に、彼らはごく当たり前の青年と同じに見えるのだ。
(いや、『ごく当たり前の青年』なんだろ、あいつらも。ちょっと色々知ってて、強いだけで。だから脆い面だってある)
確かに、彼らが里で過ごした十七年間を、世悧は知らない。
(……けど、俺が過ごした二十五年間を、阿星も冬月も知らねえんだよな)
つまり、そんなものは、お互い様なのだ。例えば、世悧が自覚していないところで、阿星や冬月が驚くような一面だって、見せているかもしれない。
たった一年で、全てを理解するのは無理だ。当然だ。世悧たちは全員違う人間で、それこそ阿星と冬月という、幼馴染同士でさえ何もかも共有しているわけではない。
(でも、今更、手放すには俺だってお前らが大事になりすぎたよな)
戻れないなら、進むしかないのだ。
笑っていてほしい。大事な仲間なんだから。すべてを打ち明けてくれなくても、そばで支えるくらいはできるから。世悧は横目で阿星を見て、それから冬月がいるはずの場所を見透かすように前を見据えた。
(どれだけ情けなくっても、俺にだって大人としてのプライドはあるんだぜ?)
顔をあげて、あのしっかりしすぎた、まだ『子供』である彼のもとへ行こう。何ができるわけでは、無くても。
——やがて不意に視界が開けた。途切れた森の先。月が煌々と照らす、ちょっとした崖のように突き出した石の上に、微動だにせず座り込む、冬月を見つけた。世悧と阿星は下草を踏みしめ、その小さな……あまりに頼りない背中に向かって歩みだす。
ピクリ、と冬月の肩が揺れた。そこで世悧と阿星は足を止める。あと二、三歩進めば手が届くような、微妙な距離。あからさまなほど目の前の背中は干渉を拒否していたが、世悧は努めていつも通りに話しかける。
「こんなところにいたのか、冬月」
「………」
案の定冬月は応えない。
「ここは、月が綺麗だな。……なるほどな、趣味がいい」
何の関係もないことを意味もなく口走る。答えが返ってくるなんて思わないけれども。
「………」
「冬月」
ほんの少しだけ、困ったような響きを交えて、彼の名を呼ぶ。そこからさらに何か言い重ねようとした。——その時。
「……気を使っていただいて、すみません。でも、大丈夫ですから」
振り返らないまま、抑揚の少ない声で冬月は言った。世悧は開いた口をいったん閉じて、その小さな背中を見つめる。そして、今度は平坦な声で、問うた。
「——本当に?」
「はい」
自然な速度で、答えは返ってきた。何も知らぬものが声だけ聞けば、きっと本当に何事もないのだと錯覚しそうになるほど。しかし世悧は深くため息を吐く。確かに世悧は、冬月や阿星のことを、全て知っているわけじゃない。でも、『何も知らない』わけでもないのだ。
少なくとも冬月という男が、人と話すときは必ずその目で相手を見据えるという事だけは、知っている。
だから世悧は先ほど言い損ねた言葉を紡いだ。
「……なあ、冬月。お前、俺に言っただろう」
そこでようやく、戸惑ったように振り向いた彼と目線があった。世悧は淡く苦笑する。
「——『三人で幸せになりましょう』って。俺はお前も阿星も選べないくらいに大事だぜ? お前だって、俺たちのことを、そう思ってくれたんじゃないのか?」
冬月はその大きな目を見開いている。月光を受けて、その姿は怖気がするほど美しい。ここしばらくで多少やつれてできた影までもが、その美貌を引き立てる。世悧は苦笑を微笑に変えた。
なあ、一人で傷つくな。
「俺たちは、お前を独りにはしないよ」




