3,『タラスジェア帝国の皇室(Side阿星)』
牢獄じみた地下空間での戦闘が始まるより、二日前のこと。とっくに突き止めていた皇帝の私室にて、阿星と世悧は紅駕屡と相対していた。
ちなみに、基本的に扉を守っているはずの兵士は、その時はいなかった。いなかったというか、皇帝の私室前の扉を守る役割は、阿星と世悧が担っていたので、結果的に兵士はいないということになった。
まあ、うん、そのために本来の護衛兵士たちにいろいろしたんだけども。……うん、いろいろ頑張ったんだよ、色々。
ともかく、準備を整えた阿星と世悧は、満を持して皇帝の部屋に踏み込んだのである。
「失礼いたします、皇帝陛下」
入室方法は、いたって普通に扉から。まあ、いきなり扉をあけ放ち、にっこりと呼び掛けたのは普通ではなかったかもしれない。開け放った途端に、室内で焚かれている香の匂いが鼻を突いた。
そんな侵入者二人に対して、私室で一人、ワインをあおっていたらしい皇帝は、億劫そうに顔を上げた。
「……」
その赤銅色の瞳は虚空を見つめている。紅駕屡からすれば今の状況は明らかに異常事態、身の危険が迫っているにもかかわらず、なんの反応もしない。いや、ほんのわずか、瞳が見開かれただろうか? けれどすぐに、そんなことには興味などないかのように焦点は失われた。
「なんじゃ、そち等は」
慌てるでもなく、怒りをあらわにするでもなく、恐怖すらなく、無感動な問い。面倒だと思っていることだけはありありとわかった。
そんな様子を、冬月から聞いてはいても、実際に見ると驚きを禁じ得ない。阿星はわずかに動揺したけれど、すぐにとりつくろって、ことさらきれいに笑って見せた。
「陛下にご提案がございまして、このようなお時間にお邪魔させていただきました」
深夜、突然やってきた見知らぬ訪問者、しかも兵士姿。それだけでも不穏さしかないというのに、『ご提案』という更によからぬことしかなさそうな言い回し。横で世悧が引き気味なのは感じている。
だが、阿星はにっこり笑いながら、じっと紅駕屡の反応を観察していた。
「……帰れ。今なら不問にしてやろう」
紅駕屡は阿星たちを一瞬見て、スッとそらし、溜息をついてから、にべもなく追い払うようなしぐさをする。
それを、阿星はつぶさに観察していた。瞳の動き、沈黙の長さ、瞬きの回数、ため息に込められた感情。
そして、確信する。世悧とも顔を見合わせれば、うなずきが返ってきた。世悧から見ても、『大丈夫』だと感じられたらしい。
だから、阿星と世悧は引き下がらない。阿星はは笑顔を崩さないまま、紅駕屡に歩み寄って、そっと囁いた。
紅駕屡にとっての悪魔のようなささやきを、吹き込んだ。
……あとから世悧に聞くところによると、この時の阿星は、まさに悪役のようなさまだったらしいけれど。
「俺たちに、『狂った皇帝』のふりは、必要ありませんよ。……皇帝陛下はただ、皇后陛下と、皇子殿下を救いたいんでしょう?」
「!」
紅駕屡の反応は顕著だった。限界まで見開かれた瞳、真っ青になった顔色、乾いた唇はわずかに開かれ、声にならない声が驚愕を示している。
その様子を目にして、阿星は見ようによっては恐ろしく悪辣に、笑みを深めた。
☽☽☽
時間は、もう少しさかのぼる。
阿星たちがタラスジェア帝国の城に潜入して数日、いろんな情報を見聞きして、すぐにおかしなことに気づいた。もちろん、見聞きするうわさ話や実際の状況は、『普通』とは言えない事ばかりではあったが、その中でも、皇后と皇子についての話が、不自然なほどに流れていない事が気にかかった。
ここで、タラスジェア帝国の皇室について、少し整理しよう。
現皇帝・漣瞳紅駕屡は、今年六十一歳になるが、最初にめとった皇后とは三十年前に死別している。その後、皇后を忘れられなかった彼はしばらく後妻を迎えなかった。けれど、跡継ぎがいなかったために、二十年前に周囲の説得をとうとう受け入れ、二番目の皇后を迎え入れたのだ。
阿星らが知っている話では、二番目の皇后と紅駕屡は年の差もあり、最初は友人のような、兄妹のような距離感だったけれど、ゆっくりと互いを受け入れ合い、愛し合うことができたため、仲睦まじい夫妻となったようだ。
しかし子供ができにくい体質だったのか、なかなか子宝に恵まれず、ようやく皇后が身ごもったのが婚姻から八年後。大事に大事に育てられているたった一人の皇子は、今年で十一歳になる。
そんな、現在の皇后と皇子の話が、全く聞こえてこないことがあるだろうか。
阿星や世悧が兵士を中心に世間話を装って尋ねても、冬月が澪南たちに聞いてみても、返ってくるのはあいまいな情報ばかりで、何もわからなかった。それどころか、皇城内をずいぶんと動き回ったにもかかわらず、皇后と皇子が生活をしている様子すらうかがえなかったのだ。皇帝については、その姿を確認し、食事や着替えの痕跡、使用人の動きを把握できたにもかかわらず。
そこで浮上した可能性は二つだった。一つは、単純に皇后と皇子はこの城にはいない、ということ。どこかの離宮や別荘に身を隠している可能性である。しかし、移動したのならばどうしても人目につくし、相応に護衛や使用人もついて行くはずだ。ゆえに、そういった話が、どこかしらからもれ聞こえてもおかしくはない。特に現在の、タラスジェア帝国騎士をはじめとした使用人たちは、あまり教育が行き届いていないのだから。
そしてもう一つは、二人の身が安全な状況にはない、という可能性だ。拉致、監禁、或いは病やケガ。何らかの事件でとらわれているか、もしくは口外できない事情があるために隠されているか。こちらの可能性であれば、本当に信用できる最低人数に関わりを絞れば、隠し通せる可能性は上がる。
この件に関して、阿星と冬月、世悧の意見は一致した。皇后と皇子の状況を、先に確認するべきだ、と。
「勘でしかないが……たぶんそれが、かなり重要な切り札になる情報だと思う」
世悧の言った言葉に、阿星と冬月も賛同した。だから皇帝と対峙するときのためにも、皇后と皇子の現状を探ることを優先したのだ。
けれど、そんな相談をしたすぐ翌日に、皇后と皇子の隠されている部屋を見つけることができたのは、恐ろしく運が味方したのだろう。
見つけたきっかけは阿星だった。城の奥、ごくごく限られた者しか立ち入ることができない、皇族の居住空間の中でも最奥。あらゆる手段を用いて調べを進める中で、ただ少し、ほんの少しの違和感を感じる場所をがあったことに阿星は気づき、それを冬月と世悧に伝えたのだ。
「……なんか、そのあたりに近づこうとしてたのに、別の場所に行こうっていつの間にか考えているというか……」
曖昧な言葉に、冬月と世悧は首を傾げていた。けれどその後、世悧の提案で、簡易な皇城の地図を作成し、三人がそれぞれ確認した場所をかきこんでいったところ、明らかに不自然に、三人のうちの誰も探っていない場所があることが判明した。
「怪しいですね」
「あからさまに怪しいっすよね」
「明らかにここに何かあるよな」
当然のように、三人の意見は一致。そして、冬月がその場所を探ることになった
冬月いわく、その場所には呪術がかけられており、探られないように隠されている可能性が高いとのことだ。皇城の簡易地図を見ながら、阿星も世悧も同意せざるを得なかった。だから、一番その手の知識に精通している冬月が、探ってくることになったのだ。
「そういう、精神に働きかけてくる呪術って、かなり高度で……本当に呪術がかかっているなら、かけた呪術師は、相当の実力者ですよ」
少しかじった程度の冬月とは、比べ物にならないだろう、と冬月は言った。阿星たちは当然、彼の身を案じてやはり全員で行くべきか、とも言ったけれど、冬月は首を横に振ったのだ。
「心に作用する呪術って、『そういう効果の呪術がかけられている』って認識さえしていれば、こっちの意思の力で破ることも出来なくはないんです。……まあ、破れなかったとしても、目的の部屋を見つけられずに帰ってくることになるだけですし、みんなで行って目だったら本末転倒でしょう」
そうして笑った冬月に、反論はできなかった。実際、冬月は至極無事に帰ってきたのである。……その冬月が見たのは、あまり『いいもの』ではなかったのだけれど。
呪術の効果を認識し、意図的に抗ってねじ伏せた先で、たどり着いたのは、城の最奥だったという。
見張りや護衛の騎士はその部屋には立っていなかった……どころか、本当に周囲には人がまるでいなかったらしく、冬月はわりと堂々と周囲を調べて、呪術記号を見つけたと言っていた。そしてその記号から、その部屋にかけられている呪術が分かったようだ。
冬月いわく、生物にかけた呪術は発動と同時に体内に吸い込まれ、記号が消えるが、無機物にかけた呪術は発動と同時に、その対象に記号が刻み込まれる。記号が消えるのは、効果が切れた時だ。だから、その刻まれている記号を見れば、呪術の効果もわかるのだという。
果たして、かけられていたのは冬月の予想通り、『人よけ』と『認識阻害』。さらによく見れば、『防音』も重ねてかけられていたそうだ。ただ、それ以上の呪術がかけられている様子はなかったとも言っていた。
(兵士もいないのに……結界もなかった、ってことか?)
その話を聞いた時、阿星はひどく違和感を覚えた。いや、阿星だけでなく、冬月も世悧も、同じように眉をひそめていた。……だって、冬月がしたように、人よけも認識阻害も、突破しようと思えばできる程度の効果しかないというのに、守りについては全く施されていない、なんて。
しかも、だ。
冬月が見たという、美しく整えられた、居心地のよさそうな部屋の中、並べられた二つの大きな寝台と、そこに眠る人物。
それは予想にたがわず、この国の、皇后と皇子だったのだ。