5,『最後の太陽が沈み、』
最後だけ阿星視点です。
バッと、冬月は東の空を見上げる。すでにほぼ太陽は落ち、藍色の空が広がるそこには何もないように見える。見える、が。
冬月の表情は急速に硬いものになる。風は変わらぬ寒風、さわさわと湖面を揺らすも穏やかで周りには獣の影も見えない。けれど冬月の視線は鋭くとがる。
「……龍……!」
つぶやいた声と、走り出したのは同時。普通の人間には何も感じないであろう距離から、その姿を目でとらえるのではなく肌で感じ取る。それもまた、龍の一族の異能のひとつだ。上空から迫る強大な複数の気配は、龍使いの里には目もくれないとばかりに、一路、樹海を抜けた草原――おそらくはその向こうにある集落へと向かっていた。自分が一番、その集落に近い場所にいるのだと思った瞬間、鍛錬に疲弊したことも忘れ、冬月は走る。
☽☽☽
最初に聞こえたのは耳を劈く悲鳴と大地を震わす咆哮。一頭や二頭ではない、龍の襲撃。鍛錬で疲弊しているし、装備が万全ではない今、ここに来たのは失敗だったか、と今更思う。それでも助力ぐらいはできるはず。草原の向こうの集落の人々の避難は、既に始まっているだろう。運よく一族の『行商』がいればなおいいが……たとえそれがなくても龍の巣に近い集落、住民も心得ている。
――だから、半人前の冬月に今できるのは、龍が集落にたどり着く前に鎮め、巣に還す龍使いたちの補佐だ。遥か高い山々から飛来する脅威が集落へとたどり着くのと、どちらが早いか……。
「冬月!」
そこで、阿星の鋭い声が響いた。
「阿星!?」
帰宅したはずの阿星の姿に冬月は驚きの声を返す。それも彼は集落の方からやってきていて――龍使いの里からここまで、阿星が自分より先にたどり着くには無理がある。祠は草原に近い里はずれにあるのだ。なのに阿星とはすれ違ってすらいない。
そう怪訝に思って聞けば、熱さましの薬草を摘みに草原に出向いていた蜜香を阿星が迎えに出て、現在に至るという。しかし阿星の近くに幼馴染の少女の姿はなく。
冬月はぞっと、血の気が引いた。
「おい阿星、じゃあ蜜香はこの近くにひとりでいるってことか!?」
同様に血の気のひいた顔で阿星がうなずくのに舌打ちする。蜜香も龍の一族だ。だが『少女』である彼女には当然、異能はない。それでも逃げ方を知らないはずもないが、ここは草原。身を隠すに不利すぎる。冬月は阿星とうなずきあい、蜜香を探すために二手に分かれた。もう、龍の気配は近い。最悪の事態が頭をよぎるのを振り払う。
「どこだ、蜜香っ、」
「いやあああああああぁ―――っ!?」
走って、その先。意外なほど近くで、女の悲鳴が上がった。続けて巨大な龍の咆哮と熱風が冬月の体をなぶる。その悲鳴の主を冬月は知っていたから、思わずそちらへ飛び出した。
「蜜香っ!?」
と、また熱風とともに咆哮、そして自分のすぐ脇、先ほどまでいたところで巨大な火柱が上がる。ばっと飛びずさってから見ると、青い火吹き龍の鈎爪に、少女が一人捕らわれているのが見えた。
「蜜香!」
龍は彼女を捕まえたまま、今にも飛び立とうとしている。この場で殺さないということは、彼らの長、東龍王への貢物にするつもりらしい。
「ちっ……! やめろ! 蜜香を放せ!」
龍気とともに発せられる龍使いの言霊は龍を縛り従える。しかし冬月の力は――ムラがある。だが、今この時、この場面で、失敗はできない。全力で、命令を載せて、言霊を飛ばした。
息の詰まる龍気の攻防。そしてその龍は、冬月がそう叫んだ瞬間、動きを止めて蜜香を掴む力をほんの少しだけゆるめた。
その隙を見逃すような冬月ではない。一瞬で蜜香のところまで駆けつけると、彼女を爪から奪い返して叫んだ。
「走れ!」
蜜香がまろぶように駆け出して、続けて冬月も走り出そうとした――その刹那。
龍が再び鈎爪に力を込めた。たった数秒、逃げ遅れた冬月は蜜香の代わりに捕らわれてしまう。固い爪の感触、あとほんの少し龍が力を込めたらぐしゃりと引き潰されてしまうだろうとわかる圧迫感。ぞくりと背に這う恐怖に震える自分を叱咤して、冬月は叫んだ。
「放せ!」
しかし。
今度の言霊は――効かなかった。
龍は翼に力を込め、悠然と舞い上がる。その様子に気づいたか、はるか下方でこちらに駆け寄ってきた阿星が何事か叫んでいるのが見えた。けれどその距離は絶望的で……飛翔を続ける龍はどんどんと地上からの言霊が届く範囲を脱していく。地平線に最後の太陽が沈み、唸る風が冬月の体を凍らせた。彼は叫ぶ。
「くっ……! 降りろ! 戻れ! はっ放せ―――!」
しかし効果は皆無。今ほど自分の力の不安定さを呪ったことはない。
(このまま、喰われるのか……!)
こんな高所で放りだされれば普通は無事ではないだろうが、冬月は龍の一族。その身に宿る力は龍気だけではなく、ただひととは比較にもならないほど強靭な肉体を持っている。さらには日々の鍛錬で高高度からの落下への対処法は学習済みだ。
ゆえに放せ放せと何度も命じるが、高度がどんどん上がるばかり、草原は既に遠ざかり、龍の爪はがっちりと腰回りを固めて冬月を放す気配は全くない。ただ、掴まれた衝撃と暴れたせいもあって服が乱れ、首元にいつもかけている青いペンダントがするりと服の内側から出て風に揺れた。――母の形見であるそれが、風にあおられてちぎれ飛ばなかったことにだけ、場違いにほっとする。
(……っ、くそ。蜜香が無事でよかったけど……ほかの龍の襲撃は防げたのか?)
見渡せば、自分を捕まえる龍以外にも巣に向けて飛ぶ龍が何頭も見えるので、おそらくは間に合ったのだろうが。……と、そう思ううちにも、高度が上がったせいで気圧と気温が急激に下がる。歯の根が合わないほど震えて、もはや言霊が言葉にならない。その場で食われず、かといって爪で引き裂かれるわけでもなく、護竜山の龍の巣へ向かっているところからして、やはり東龍王の前に引き出されるのだろう。ぞくり、と、寒さからではなく震えた。
(東龍王は女しか食べないんじゃなかったか……?)
がちがち震えながら思い当たる。しかし今更どうしようもないことだ。彼をしっかりつかんだ鈎爪は緩みそうもないのだから。
――やがて、頂上付近の巨大な穴が近づいてきた。冬月の顔色は蒼さを通り越して、真っ白になっている。息をのんで見つめる先で、穴の奥から光る瞳とともに総身を震わせる咆哮が、彼を迎えた。
☽☽☽
「冬月! 冬月……!」
半狂乱で泣き叫ぶのは冬月に助けられた蜜香だ。冬月が連れ去られた瞬間から彼女はそこにへたり込んで一歩も動けないようで、ひたすら冬月の名を呼ぶ。その様子を言葉もなく見つめるのは事態に気づいて集まってきた龍使いの一団と、――阿星。
阿星は冬月が消えた空を見つめて険しい顔で拳を強く握りしめていた。
(どうして、二手に分かれたんだ俺は……! あいつの力が効くかどうか不安定だってわかってただろうが!)
握りしめすぎて爪が食い込んだのか、阿星の拳からは血が滴っている。目の前で攫われた親友。龍に攫われたら生きては帰ってこないだろうとわかっている。傍にいた龍使いの一人が阿星の肩を遠慮がちにたたいた。
「……思いつめるな。攫われただけ、ましだ」
痛みをこらえるような表情でその龍使いは言う。阿星はその男をキッと睨むことしかできなかった。わかっている。目の前で殺されなかっただけ、その場で食われてしまわなかっただけ、心情的にマシだと言いたいということは。
(……そんな慰めいるか)
被害の処理に周囲がまだ慌ただしく行き来するなか、阿星と蜜香はその場から動くことができなかった。蜜香はまだへたり込んだまま、もはや声もなくぼろぼろ涙をこぼしている。
「ばっか野郎……!」
罵らねば、涙をこらえられそうになくて、誰に対してかわからない悪態を阿星は何度も吐いた。
わかっていた。龍に攫われた冬月が、生きて帰ってくることがないことなんて。わかっていた。もう二度と、会えないだろうことなんて―――。判っている。阿星は龍使いなのだから。理解している。……それでも。
「冬月……っ」
力なく親友の名を呼んだ瞬間、こらえきれない嗚咽が漏れて頬を熱いものが伝った。