6,『どれだけ愛をほざいても、』
冬月が、そうして一人で見張りを続けていた時だ。真夜中、阿星も世悧も眠りについた静寂の中で、冬月は背後に現れた気配にバッと振りむいた。そして大きく息を吐く。
「……っ。なんなんだよお前……。僕は今お前に構ってる余裕はないんだよ……」
疲れて心底迷惑そうな声の冬月。その目には隠せないいら立ちも含まれている。なぜならば、そこにいたのは駄龍だったからだ。何しに来たこいつ。
「つれないことを言うな。ここのところずっと、そなたと二人っきりで話す機会などなかったのだぞ……?」
いつもに増してにっこりと笑顔で、ジェタは囁く。が、笑っているものの、どこか不機嫌そうだ。そして、そんなジェタは、長い指で冬月の髪を緩くなでた。
確かに考えてみれば、ここの所ジェタからの接触はなかった。というか、接触がなかったので、ジェタが不機嫌な理由など冬月にはわからない。そしてこいつが不機嫌だからと言ってご機嫌を取ろうとするほど、冬月はお人好しでもない。
なぜならばこいつは、半年以上も冬月に付きまとう、ストーカーである。しかも、甘い顔をすればつけあがるタイプだ。よって冬月は、髪に絡むジェタの手を不快気に叩いておとす。
「触るな」
そのいつもよりも低いテンションにジェタは違和感を感じたのか、首をかしげた。
「どうした、冬月? いつもの威勢はどこへ行ったのだ?」
その声音に微かに心配そうな色が宿っていることに気づいて、わずかに気まずさを感じる。
「……お前には関係ないだろ。大体さ、縄張りを出てまで、何で僕にまだついてきてるんだ? 女なんてお前の周りにはいくらでも集まってくるし、僕に付きまとってお前に得なんてないだろう?」
冬月の脳裏には、タラスジェア帝国入国前、女に囲まれていたジェタの姿が浮かんでいた。あれはひどかった。顔面にたぶらかされる女性も女性かもしれないが、たぶらかすやつの方がたちが悪いと冬月は思う。
「……それは……、まさか冬月、そなたあの夜のことを言っているのか……?」
「そうだけど? というか、あの人たち、無事に帰したんだよね?」
龍にたぶらかされた女性たちの末路を、穏便なものにするために、冬月は龍気を飛ばして圧をかけていたが、その後の確認まではしていない。街を発つとき、とくにそういった騒ぎは耳に入らなかったので、大丈夫だったのだとは思うが。
じっと、ジェタを見る。一応、休んでいる阿星たちに気づかれないように、気を配りつつではあるが、じっと。そんな彼女を見てジェタはやや目を丸くし、それから破顔した。するりと彼は手を伸ばす。
「……なんだ、やきもちか?」
腕の中に冬月を閉じ込め、からかうような声音で言うジェタ。イラっとした。答えになっていないし、冬月のセリフのどこに、やきもちの要素を見出したのか理解できない。よって、眉間にしわを寄せて反論をしようとして――言葉を失った。
「――――ッ」
自分を見つめるジェタの、顔。
――なんで。
(なんで、そんな顔をするんだ?)
それは、その表情は、……あまりに幸福そうで。慈しむような優し気な笑みなのに、薄く染まった頬は子供のように無垢で。
見たことがないほど嬉しげで素直な、破顔。
(――……)
冬月は激しい戸惑いと動揺を抑え込み、今度こそ自分の表情と感情を制御する。
……これまで、ジェタは暇つぶしの娯楽の一環として、冬月に構っているのだと思っていた。いうなれば、露空公爵と大きくは変わらず、おもちゃで遊んでいるような感覚なのだろう、と。
いや、確かに、冬月は以前露空とジェタは違うとは言った。露空よりはこちらを見ていると思うのは、本音だ。けれどそれは、愛玩動物のレベルだろうと思っていたのだ。その他の相違点を上げるならば、露空にあった打算がジェタにはない、その程度だろう、と。
(でも、そういえば、公爵閣下の時も、攫うだのなんだの不穏なこと言ってたな)
そう思いだして、冬月はジェタの言動を分析する。そして空いた間を取り繕うように、憤怒ではなく呆れと苛立ちの顔を作った。
「……阿呆か、お前は。お前への嫉妬じゃなくて、女性たちへの心配だよ」
けれどジェタはそれすら照れ隠しと曲解したのか、うれし気に微笑み続け――急に明るく笑った。何だこいつ。阿星たちが起きるから静かにしろ。
「ふははははっ! 今日来たのは、そなたが不快な話をしていたからだったのだが……やはり、今日そなたの近くの男たちと話していた内容は、冗談の類だったのだな?」
どの話だ……? と冬月は逡巡したが、防音結界を張る前にしていた話で、なおかつジェタがこういう反応をする話……。
(あっ。『三人で伴侶』のあれか!)
そういえば、今目の前にいる東の龍王は、冬月を己の妻だという妄言を譲らないのだった。失念していた。……どうしよう。冬月は一瞬考え、口を開いた。
「……いや、まあ、『三人で』のあれは、色々ゴリ押しするための建前ではあるよ」
嘘は言っていない。阿星にも言ったが、冬月たちの関係性の名称が、実態に即している必要なんてないのである。そして冬月の言葉に嘘がないことをくみ取ったジェタは、「そうかそうか」と喜んでいる。その間に、冬月は彼の腕からするっと抜け出し、話題を変えることにした。何とかこのまま、穏便にストーカーにお引き取り願いたいのだ。
「そうだ、お前に聞きたいことがあったんだ。確認だけど、お前のところ、東龍……震の一族では何か異変はないか?」
一応、聞けたら聞こうとは思っていた問いである。東龍にも異変が起こっているならば話を聞きたい。まあ、何か起こっているなら、ジェタがこんなところで冬月をストーカーしている場合ではないはずなので、何もないのだろうだとは思うのだが。……この放浪ストーカー駄龍が、どこまで一族の状況を把握しているか、一抹の不安があるのは否めない。
「――……は? ああ……。いや、我が一族は特に何も問題はないようだ。何かあれば私にはわかるからな」
喜んでいる最中に、唐突にぶち込まれた質問だったからか、ジェタは戸惑うように答えた。龍王には、離れていても一族の状況を把握するすべがあるらしい。だからこんな風に放浪していられるのだろうか。こんな龍王を崇拝して服従している東龍たちのためにも、数か月に一回くらいは帰ってくれないだろうか。そのまま冬月を見失って、護竜山に居座ってくれればなおいい。……まあ、どうせ護竜山からここまで、龍の翼ならと一日と掛からない距離らしいので、見失ってはくれないと思うけど。
「……そうか。やっぱりお前のところは大丈夫なのか……」
南、北で龍がおかしくなっているが、東、西には異変は及んでいないのか? いや、西はまだわからないし、南東や北西といった一族に何もないとは言い切れない状況ではあるが。
しいて東龍……震の一族と他の一族との明確な違いを上げると、長がふらふら出歩いて一向にひとところに落ち着かないという事だが、西龍などの状況も明確ではない中、情報が足りない。……とりあえずは置いておくことにしよう。
「じゃあ、離の一族……いや、南龍王のことは何かわからないか?」
冬月はさらに質問を重ねた。なお、この間、冬月はじりじりと焚火から離れるように誘導し、万が一にも阿星たちが声を聞きつけて起きてこないようにしている。そうして今、二人が向かい合って立つのは薄暗い木立の中だ。
「南龍王……。名前がジーク、ということだけは知っている。しかし、他族と交流などせんからな。それ以上のことは私も知らんな」
ジェタは腕を組み首をひねった。まあそれはそうだろう、普通は縄張りを越えて移動するなどということもないはずなのだ。――普通は。冬月はいろんな意味で溜息をつく。
「そうか……」
「南の龍王に何か異変が起こっているのか?」
冬月に投げられたジェタの問いに今度は冬月が首をかしげる。
「え? お前、僕等の話把握してないの? 余計なことは知ってるのに」
微妙に揶揄を込めて言ってみるが、当然のごとくジェタには通じず、そのまま話は続行される。
「ああ……。ここのところ、そなたたちの意識がいつも以上に張り詰められていたからな。そなたはともかく残りの二人に気づかれたら、こういったひそやかな逢瀬を楽しめなくなるだろう? 面倒だから距離を取らざるを得なかったのだ」
そう言われて納得した。いや、せざるを得ないというべきか。特にここ数日の空気は非常に張りつめていた。
「まあ、お前にも知っててもらった方がいいかもしれないから話すけど」
そう冬月は切り出し、簡単に今起こっている異常を説明する。ジェタはあんまり興味がなさそうだったが、龍使いがかかわっている可能性があるから気をつけろ、という話には瞠目していた。思わず聞き返すその様は、感情の揺れが隠しきれていない。
「龍使いが、だと?」
対して冬月は、冷静さを保つため感情を統御して、抑揚をなくした平坦な声で答える。
「可能性の話だよ。証拠は何も掴んでいない」
「だとしても、それは我らの誇りを侮辱しているようなものだぞ……!」
珍しくジェタが殺気に近いものを纏わせて冬月に凄む。しかしこの話が、曲がりなりにも龍王たるジェタの誇りを著しく傷つけるであろうことは承知で話したのだし、今更それに怯むような彼女ではない。
なんだかんだで、ジェタとの付き合いもそれなりの期間になっている。だからこそ、冷静であることがこの場の正解だと知っていた。
「言っただろう、確証は、ない。龍使いの関与を否定する証拠もないけどね。だから、僕たちがしようとしているのは本当は何が起こっているか知り、それへの対処法を見つけることだよ。……事実はまだ、何も明らかになっていないんだ」
冷静なまま冬月はひたりとジェタを睨み据える。睨み合うこと数秒。引かない無言の攻防は軍配を冬月に上げた。
真っ直ぐな瞳は、双方にとって多分、ひどく痛い。
すい、とジェタが視線を逸らす。決まり悪げで不機嫌なその顔。あまり見ない表情ではあったが、冬月は視線も顔も動かすことはなかった。
――が、しかし。一瞬のちに、龍王のそれはいつもと同じ余裕の笑みに変わる。何か悪戯でも思いついたかのように。
青灰色の瞳が、光る。
その豹変に冬月が眉をひそめていると、わずかにジェタは笑いをもらした。
「事実、か。なるほど。では、それが明らかになるまで待ってやろう。そなたを信じているからな?」
そう言って彼は、一瞬で冬月との距離を詰める。びくりと肩を揺らして、素早く反応した冬月はそれを避けようとするものの、一歩遅く、腕を絡めとられてしまう。
「だから、冬月……」
吐息がかかるほど近くで、彼は囁く。つい、意識が聞く体勢に入ってしまったのがいけなかった。
ゆるりと腰に回されていたジェタの手に急に力がこもって引き寄せられて。耳のすぐ横にあった彼の顔が不意にさらに距離を縮めてきて。優しく、しかししっかりとつかまれた手は動かせず。
逃れられないまま。
――首筋に、口づけられた。
強く。
ぞくり、と体に震えが走った。何をされたのか理解できず、冬月は硬直する。
「……やっ、めろ……!」
一瞬の硬直後、渾身の力を込めてジェタを突き飛ばして逃れる。口づけられた場所は赤く痕が残っていて、冬月は混乱のままそこを隠すように手で押さえ、ジェタを睨み上げる。こんの、くそ駄龍が……っ!
「何をする……!」
しかしジェタは楽しそうに笑みを浮かべて。
まるで、理解できなかった。ジェタのこれまでの言動、そして先ほどの無邪気な笑みがぐるぐる頭を回る。
「そなたが私の信頼を裏切らんように、しるしだ。そなたは私の、伴侶であるという証でもあるな」
ひどく満足そうに言うジェタ。
「……ふざけるな!」
今までにない動揺のせいで震えた声しか出ないのが、悔しかった。なぜこんなことをされるのかが、判らない。だって、この龍は。
「私のものだ、そなたは」
笑みを崩さないまま、何も変わらない余裕でジェタが密やかに言う。まるで、冬月がジェタの所有物であるかのように。いいや、最初からこの龍王はそういう言動をする奴だった。ここまで積極的に手を出してきたのが初めてなだけで。
(なんなんだ、こいつ。意味が解らない)
冬月は混乱し、動揺し、そして歯を食いしばる。
「違うって言ってるだろ」
歯ぎしりするように低く否定する冬月に、ジェタは笑う。笑って、いる。
「ああ、そうだ。そなたが知りたい『事実』を一つ。そなたが見たという、私を囲んでいた女たちは、全員そのまま帰ったぞ。そもそも、興味もない。ただあれらを追い払う前に、そなたが私を見つけただけだ。――あの時も今も、私が欲しいのは、そなただけだ」
そしてジェタは冬月が何も返さないうちに、夜の闇へと消えていく。バサリと大きな羽音は、ジェタに驚いた森の鳥類かもしれない。けれどその音にも目を向けず、ただ、冬月はしばらくその場に立ち尽くす。
先ほどのジェタの言動が頭の中を占拠していた。混乱は深い。
だって、冬月は知っている。龍は本来、人間に対して、『獲物』程度の興味しかない。対等には見ていないのだ。特殊な秘密を抱えた冬月に、おもちゃを見るように興味を抱き、愛玩動物程度の情をもったとして、そこに愛も恋も生まれるはずがない。
そう、思っていた。
(けど、ジェタの言動は、まるで『嫉妬』や『独占欲』、みたいだ)
ひどい矛盾だと感じた。
ジェタは冬月を『伴侶』という。甘い言葉をささやき、自分の所有物扱いをする。だけど、その言葉の奥に、愛だの恋だのが存在しないことは、わかっていた。興味を抱いた冬月がたまたま『女』だったから、そういう表現をしているだけだ。
どれだけ愛をほざいても、行動に色をにじませていても、瞳に熱情を載せていたとしても。……その奥に『面白いもの』をただ観察する、それだけでしかない視線があることに、気づいたのはまだ龍使いの里にいたころだ。
そしてその視線は今も同じ。なのに、あの『嫉妬』や『独占欲』じみたものには、本気を感じた。その矛盾。だから混乱する。ぬるい風が吹く中、ゆっくりと空を見上げ、考えた。
(……観察する視線はそのままでも、あいつは僕を『信じている』と言っていた。……もしかして、あいつの中で、僕って『友達』くらいの執着が、生まれてる?)
今夜見た、ジェタの無邪気な笑みと、自分のものだと主張するしるし。……まさか。
「……友達を取られたくない子供……みたいな……? でもあいつの対人経験から、首へのキスみたいな表現しかしらない、とかなのか」
そうだったら、はた迷惑だな、と冬月は思った。