19,『残酷さと紙一重であったとしても』
襲撃から数日後の、真夜中。たどり着いた街で、そろそろ自身にかけている性別を偽る呪術をかけ直す必要があった冬月は、こっそり宿を抜け出した。そして呪術をかけ終わったあたりで、久しぶりにジェタを相手に、いつもの如く不機嫌な顔をさらすことになったのだ。
「流石そなただ! 必ずやあの不埒者を退けると、我が伴侶たるそなたを信じていたぞ!」
そう言いながらジェタが冬月に抱きついたが、当の冬月は慣れた仕草でするりと抜けだした。
「また覗いてたのか? いい加減にしろよお前も。っていうか……何度も言うけど僕はお前の伴侶にはならないよ」
声は怒っているが、冬月の表情はやや柔らかかった。……それだけ、目の前のストーカー龍王より、運命狂いの公爵の方がうっとうしかったのだ。
「あの毅然とした態度、私は惚れ直したぞ!」
嬉々としてそう言うジェタの声は大きい。こいつも、よほど露空が目障りだったようだ。まあ、露空が冬月と一緒にいるときに、襲い掛かってこなかっただけ理性的だったのだろうけれど。
……むしろ、よく我慢できたな、と思っていれば、どうにも冬月が露空を『好きではない』と以前明言したことと、冬月が露空に、『触ったら首を狩る』と宣言したのを聞いていたらしい。
いつどこで聞いていたのかと考えれば、全然気づかなかった身としては戦慄が走るが、……うん、以前の不穏なジェタの発言通り、冬月が攫われなかったというだけよかったのだ。そう考えよう。
「ジェタ、声が高いよ。惚れ直さなくていいから静かにして。一応ここは街の外だけど、誰か聞いていたらどうするんだ」
冬月が低くたしなめるが、ジェタはどこ吹く風である。どれだけ嬉しかったのか、その顔は見たこともないほどゆるんでいる。
(なんか子供みたいだなあ)
いつだったか聞いた話からすると、本当は八百歳の爺のはずなのだが。冬月はそんなことを思う。
「この十日ほど、どれほど我慢したか。あの不埒者め、私の妻に気安く近づいて……」
それからジェタは冬月の手を握ってほっと息を吐くが、言っていることは半分妄言である。冬月はジェタの妻ではないし、そんな未来は来ない。
「妻じゃないし、離せ。そういう言動、露空公爵とお前は本当に似てるな」
そうして冬月は、冷たく手を振りほどこうとするが、それより先に、ジェタに強く手を引かれた。腰を抱かれて、ジェタの青灰色の瞳を思いがけないほど近くに捉える。
「私をあの男と一緒にするな……」
先ほどまでの様子が噓のように真剣な声音だった。そこにあるのは苛立ちか、悲しみか。冬月には計りかねた。声も出せずに見つめ返すと、ジェタはゆっくりと冬月を放す。それからまた言った。
「それに……あの男を好かないと言った、そなたの言葉を信じていたから、私はあの男に手を下さなかったのだぞ?」
まっすぐこちらを見つめる瞳。穏やかで曇りなく、偽りもないように思えた。
「ジェタ……」
冬月はその言葉を聞いて、思う。
(僕を攫うだけじゃなくて、公爵の抹殺も考えていたのか! つまり、僕がこいつの信頼を得てなかったら、露空公爵はとっくに八つ裂きだったってことだな!?)
ぞっとした。その姿がどれほど人に酷似していても、その本性は龍。人間の命など、彼の前にはそれこそ、紙ほどの重さもないのだ。
(何がきっかけかは知らないけど、信頼、得ててよかった……)
いくら露空が変人野郎でムカつく卑怯者でも、目の前で八つ裂きは、ちょっと。そんな安堵とともに、ジェタの『信頼』とは、どこまでの意味を含んでいるのか聞きたい気もした。まあ、確かにジェタには最初から自分の最大の秘密を知られているせいで、言葉をごまかしたことはなくもないが、嘘を言ったことはなかった気がする。
(こいつ、嘘には敏感なのかもな。ある意味、純粋なんだろうな)
その純粋さが、残酷さと紙一重であったとしても。
「――僕、お前と公爵ってなんか似てると思ってたんだ」
そう言うとジェタは嫌な顔をして抗議しようとするが、まあ聞けよとばかりに冬月はそれより先にまた口を開く。
「でも、やっぱ違ったね」
穏やかな口調で冬月は空を見上げた。ジェタは少し驚いたように黙っている。
「あの公爵はきっと、本当におもちゃを集める子供みたいな感覚で、僕を見ていたと思うよ。己の価値観がすべてだと、思って許される地位と権力が、彼にはあったから」
いつからかそう気づいていた。だから露空の言葉はどこか薄っぺらくて、軽薄な印象をぬぐえなかった。心に響かないのだ。露空はそれを言っている自分自身に酔っていたから。冬月を見ていながら彼の言葉の中に冬月はいなかったから。――でも、露空と同じように軽薄な言葉で、たぶん似たような視線で冬月を評価しているのだとしても、ジェタと露空は少しだけ違う。
「お前の言葉は公爵よりは、僕のことを見てくれていたんじゃないかって、今なら思うよ」
それはほんの少しの違いなのだろうけれど、明確な違いでもあった。そうして冬月が空から目線を戻すと、月明かりにわかりにくくほほを染めたジェタの顔。本当は齢八百のくせに、本当に見た目のままただの青年のようで。
「公爵にあった打算も、お前にはないしな。公爵には二度と会いたくないけど、お前とはこうして話せるくらいに気安いんだよな、僕は」
ストーカー駄龍に対して、自分は寛容すぎるかもしれないと思いつつ、笑む。そんな冬月にジェタは大きく目を見開いて、何かを言いつのろうとした。しかし冬月はそんな彼にクルと背を向ける。
「だからって、お前の伴侶になるつもりなんて僕にはないけどね」
「……!」
声もなく肩を落とす様子が見なくても分かった。そんなやり取りも、割と自分は楽しんでいる。痛みも重さも伴わない気やすいやり取りだから。
意味なんて、どこにもないけれど。
「私は諦めんぞ」
拗ねたような声。冬月は思わずクスリと笑った。判っている、とでも言うように。
「勝手にしなよ。どうせ、言っても聞かないんだろ」
そう言って、冬月はそこを後にする。阿星たちの眠る宿に戻ったころには、ジェタもまた、夜の闇に姿を隠した。
☽☽☽
――その頃、とある国の、とある場所で。その男は鳥に睡眠を邪魔された。しかし心身ともに鍛えぬいている彼は、年齢を感じさせぬ素早さで眠りから覚醒し、窓をつつく鳥を中へと迎え入れる。足に結わえつけられた文を外すと、数日に及ぶ旅の疲れを癒すべく鳥は用意されていた餌にありつく。それから男が手紙を広げる間に、音もなく飛び去って行った。男はそれを気にもかけず、文書に目を通していたが、その深いしわの刻まれた顔に、一瞬喜色が広がった。
飛び去った鳥は、その闇色が夜に紛れて、もう見えない。