16,『吐き気がするほどの無力と絶望(Side世悧)』
急展開に、頭が一瞬停止しそうになるが、そんな場合ではない。一般的な白狼の群れは多くても十数頭。しかし冬月の言う通りなら、今回、迫っている数はもっと多いはずだ。
「火を絶やすな! 荷物と武器の準備を! ばらけずに一班ごとにまとまれ!」
もはや逃げる時間はなさそうだ。白狼は体躯こそ、そこまで巨大ではないが――とにかく速く、獰猛だ。その足は騎馬の速度を優にしのぐ。それでいて普段は山を縄張りにしており、機敏且つ、群れの連携は恐ろしく統率が取れている。
対してこちらの戦力は、二小隊三十人の騎士に、冬月と阿星。しかし、このうち三人は先ほどの件で拘束されているため、実質二十九人だ。
(冬月と阿星の戦闘能力は、当初予想していたより格段に高い。さっきも、的確に首を狙って一撃だったし。だが……今回、俺が引き連れてきた部下は、みんな四花の騎士(小隊長級)以下だ……)
強行軍に耐えられる体力自慢ばかりだが、イコール全員が高い戦闘力を誇るかと言われればそうではない。加えて、第一騎士団という、普段護衛等で対人戦闘ばかりを想定した訓練を積んでいる者たちだ。『雪山の殺し屋』相手に、この暗さの中、どれほど対抗できるだろうか。
けれどそんな風に、迷っている時間もなさそうだった。
「グルルルルルル……」
暗がりから聞こえる獣の唸り声。赤く光る無数の瞳に、油断なく数の把握に努める。雲のかかる空は星明りすらなく、焚火と己の身体能力だけが頼りだ。
(十……二十……くそ、多い!)
ざっと二十頭以上の白狼が、世悧たちに狙いを定めていた。
「――来るぞ!」
そして、群との戦いが始まった。
☽☽☽
どのくらい時間がたっただろうか。緊急事態のため、市来たちの拘束も解き、三十二名全員が応戦をしている。周囲には部下たちの叫びと、白狼の唸り声。そして足元には、無数の足跡で乱れた雪と泥、血痕でぐちゃぐちゃの中、白狼の躯が何頭か倒れ伏していた。
(……予想以上に……速い……っ!)
切りかかるも、人間と狼。その俊敏性の差は歴然としており、あっさりと躱されてしまう。必然、襲い掛かってくる白狼を避けつつ、カウンターで攻撃をすることになる。焚火の傍、野生の獣である以上、炎への恐れがないはずがないのに、それでも襲い掛かってくる群れに押され、野営地から離れてしまった部下が数名。それを追った今、世悧は野営地から街道を挟んで反対側の、林の中にいる。……林、ではあるが、ひどく狭いそれは木々を抜ければすぐ、切り立った崖になっていた。前方は狼、背後は崖。足元は雪。立地は最悪だ。
また世悧は一頭、部下に襲い掛かった白狼を切り捨てる。首ごと落としたそれは、少しの間びくびくと痙攣し、やがて完全に絶命した。
――今、世悧が守るのは、負傷し、意識朦朧としている部下だった。けれどまだ、『負傷』だ。『死亡』じゃない。夜の中、正確には把握できていないが、野営地を離れる前に視認していた限り、まだだれも死んでいないはずだ。ただ、やはり経験不足なものから負傷していく。ひと班五人組で対処しているが、今かばっている部下のように孤立する者もいた。ゆえに、世悧と冬月・阿星の三名だけは白狼を個人で撃破できる実力から、単独で走り回って戦闘していた。
その時、最大戦力を排除しようとしてか、一挙に三頭の白狼が、世悧めがけて迫ってきた。
「!」
一頭の首を落とし、そのままに二頭目を退ける、――が、三頭目は、間に合わないと思った。けれど、そこに飛び込んできた勢いそのまま、白狼を殴り飛ばしたのは、武器すら持たずして応戦していた冬月だった。
「ぐっ、」
「冬月!?」
うめき声に視線をやれば、彼の右腕は牙がかすったのか、血が滴っている。服が破れていないように見えるのは、偶然捲れて腕が露出したのだろうか。それを見て思わず、世悧が彼の名を叫ぶも、冬月はこちらを振り向かない。……拳の入り方が甘かったのか、殴り飛ばされた白狼が、すぐに立ち上がってきたのだ。
ざっと、世悧は剣を構えるが、――瞬間、背中しか見えない冬月から、異様な気配を感じた。
「……」
冬月は無言。しかしその異様さを白狼も感じ取ったのか、今にも飛びかからんとしていた体勢を変えて、ぱっと冬月から距離を取り、暗闇にまぎれる。
(……!?)
世悧は困惑するも、すでに冬月から発せられる異様な気配は霧散していた。
「あと、半分ですよ、隊長さん」
「……そうか。助かった、ありがとう、冬月」
ちらりと振り向き、周囲に気を配りつつ告げた冬月に、世悧は先ほどのことを追求するのやめ、ただ礼を言った。そしてまた、襲い掛かってきた別の個体に斬りつけながら、自然と冬月と二人、背中合わせになる。
そして、世悧はそこで、覚悟を決めて切り出した。
「……なあ、冬月」
「なん、ですか、隊長さん」
冬月も白狼をけり飛ばしながら聞き返してくる。蹴り飛ばされた個体の首を世悧が落とす連携。
「お前らさ、……この隙に、逃げちまえば?」
「は?」
そして切り出した言葉に返ってきたのは、正気を疑っているかのような声と顔だった。……世悧は、冬月について、前髪に隠されてはいるが、かなりの美少年だとみている。その美少年がこれでもかと不信感満載の表情で、「頭おかしいんじゃないですか?」という副音声が聞こえる声音で「は?」って。たった一文字なのにあらゆるものが詰まっていた。
そう世悧がひそかに衝撃を受けていると、冬月はさらに言った。
「さっき頭打ちました?」
「副音声が変化球で来た。遠回しに頭おかしいって言ってきた!」
世悧は傷ついた。……ともかく。
「打ってねえから。イカレてねえから! 俺、正常! ……じゃなくて! むしろここまで共闘してくれる方が! 驚きだっての! お前ら逃げる、つもり、だったんじゃないのか!?」
暗がりから現れた白狼に傷を負わせつつ、疑問をぶつける。すると冬月はシレッと答えた。
「え……まあ、逃げる計画は立ててましたけど」
それが何か? みたいな声だった。さすがに表情を見る余裕はなかったのだが、たぶん堂々としていたと思う。そんな感じの声だった。少しはばつが悪そうにしてほしい。いや、まあ冬月や阿星って最初からこんな調子だけども。
そう、そんな内心の読めない飄々とした態度で、調子を狂わされてきた。いつの間にか部下たちと談笑していて、特に逃げるそぶりも見せず、二人を引き離しても文句も言わず。
最初からおかしかった。おかしかったけれど、あまりに敵意も害意も感じられず、世悧たちへの態度は常に平等。そして時に、小気味いいくらいにバッサリとものを言う。彼らの逃亡を警戒していたはずなのに、いつの間にかそれよりも、市来たちの違和感の方に首をかしげていた。
多分、それは、意図して冬月と阿星がそうふるまっていたのだ。場に溶け込んで、警戒心を解かせた。逃げるために。
なぜ最初、大人しくついてくることにしたのかは知らない。知らないが、理由はあるのだろう。龍使いはだれにも肩入れしないし、王侯貴族にかかわろうとしない、というのはあまりにも有名だ。……だから余計に、各国は龍使いを血眼で探し、欲しているのだが。
それらに気づいたのは、つい先ほどだ。阿星の叫びを聞いた時、そう思いいたった。冬月があんなに阿星を止めようとしたのは、龍使いに関する情報漏洩という意味と、自分たちの行動の矛盾から逃亡計画を阻止されることを危ぶんだのだろう。
そう、逃亡計画の可能性に気づいたのなら、それを防ぐのが世悧の立場としては正しい。せっかく今、共闘してくれているのだ。絆を深めて囲い込んだり、強引な手ならわざと負傷させることも出来なくはない。冬月と阿星の態度が演技だったと気づいたのだから、嫌悪感や怒りを持ってもおかしくないのだ。
それでも、世悧はそれらを選ばなかったし、自分でも不思議なほど、冬月と阿星に対する負の感情は浮かんでこなかった。むしろ逃亡を勧めたのだ。頭の心配をされるのも仕方がないのかもしれない……。
己の発言に、なぜかと聞かれれば、明確な自分ですら答えはわからない。だけど。
「……このまま、お前らを首都に連れてっても、ぐ、! 誰に、とってもよくねえこと、にしかならない気がすんだよ!」
これも、阿星の話を聞いて思ったことだった。彼に言われたことにほだされた、とは思いたくない。ただ、自分たちは『龍使い』にたいして、致命的に理解が足りないのだと知った。
(いやいや、こいつらの秘密主義で、知りたくても無理ってのが大きいんだけどさ)
だが阿星が言ったことは、確かに少し頭を使えば思い至れることだったようにも思う。実際に市来たちによってこんな事件が起こった後では、言い訳すらできない。
「……」
冬月は世悧の言葉に、ただ沈黙を守ってる。何を考えているのか、世悧にはやはり読めなかった。今、彼らが逃げれば、騎士団の負傷者は格段に増えるだろう。白狼はもう半数以下となっているが、死者もきっと出てしまう。部下だけは守ると、決めているけれど、何事にも『絶対』はない。判っている。判っているのだ。
……だが、今世悧たちが戦っているのは、龍じゃない。狼だ。冬月も阿星も騎士ではなく、戦闘能力を持っているからといって戦う義務はない。そして世悧たちは、つい先ほど冬月と阿星の命を狙った連中の仲間なのだ。
それでも命を懸けて一緒に戦ってくれなんて。あまつさえ、彼らが強いから、負傷した騎士たちを守ってくれて当然だという態度をとるなんて、とんだ屑の所業じゃないか?
そもそもの話、『龍使いは強い』という、昔からよく聞く話からして、始まりは逆なのかもしれない。ただ、強くなければ生き延びることができない一族であったがゆえに、彼らは強くあるよう育てられたのではないのか。冬月も、阿星も。
龍使いはその異能を持つからこそ龍使いと呼ばれ、人々を龍の襲撃から救うための存在だと認識されている。だが、阿星の言葉を解釈するに、彼らにとって世間一般の龍使いの認識はおきれいな妄想だ。
龍使いたちは最初から、その命を懸けて人々を救う義務など負っていない。ただ、彼ら一族が生き延びるために行動した結果、今があるだけだ。人々を救うことも、その強さすらも。
けれど、人々は当然のように、龍使いに救いを求める。救ってくれるものだと思っている。そして救えなければ、『悪』だと罵るのだ。
……自分はどうにも、平和ボケしすぎて、想像力が欠如している。阿星が怒気をあらわにしなければ、自分が冬月の言葉の意味を勘違いしたことにも気づかなかった。ただ、冬月のどこか、感情を排除した表情と言葉に、どうしてもつい先ほど、市来たちに聞いた話が頭によみがえったのだ。
『最初はわかっていたんです。……阿星や冬月が、あの子を……妹を殺したわけではないってことくらい。だけど、それでも龍使いの里という安全な場所で、あいつらが不自由なく守られて育ってきたのかと思うと……許せなくなった』
そう言った市来の虚ろな瞳。頼りになる兄貴分のような、いつもの雰囲気は何処にもなかった。彼には歳の少し離れた妹がいたそうだ。けれど市来が十二歳の時、村が龍の襲撃を受け……わずか六歳だった妹は、巨大な鉤爪に引き裂かれて亡くなった。
今でも時折、その光景を夢に見る、と市来は言う。
冬月によって気絶させられていた丹是は、本当に小さいころに両親を失った。龍にさらわれた母親と、母を守ろうとした父親。
『母さんは帰ってこなかった。……親父は、小さな肉片になって見つかった!』
なぜ、と彼は泣いてた。なぜ、ただの平和な日常で、両親は殺されなければならなかったのか。なんで、守ってくれる人は、あの時いなかったのか、と。
津々易は幼馴染の少女とその両親が目の前で龍にかみ砕かれた。両親に背負われ逃げる自分と、逃げ遅れた幼馴染たち。吐き気がするほどの無力と絶望に、彼はかつて、自傷を繰り返したそうだ。手首にその時の傷が生々しく残っているのを見た。
いずれも、龍による襲撃のせいで。
……世悧が阿星のもとへ、最初に駆けつけた時。聞こえてきた言葉があった。引き絞るような悲痛な声で、市来が叫んだ。
『自分たちは特別だって顔をして、実際は何も救わねえ! 龍使いなんて、ただの役立たずのバケモンじゃねえか! 何のために存在してんだよ!』
だから、というのはいいわけだ。それでも、世悧はあの時テントで、『仕方ない』と言った冬月の言葉の意味を取り違え、阿星の逆鱗に触れた。
(よく阿星は市来たちに手を出さなかったよな。あんなに強いやつなのに。てか、冬月も、怖いくらい強いだろ。拳と蹴りで野生の白狼仕留めるって)
……多分、武器を使わない格闘なら、冬月の方が阿星よりも若干勝っているように世悧は思う。華奢な美少年である冬月は、見た目全然そんな風に見えないし、だからこそ襲撃の際、阿星の方に市来が行ったんだろうけど。
なお、丹是もその童顔に似合わず怪力を誇る騎士である。襲撃犯三人の中で、実行役を選ぶなら世悧でも市来と丹是だっただろう。そしてその丹是を冬月は瞬殺し、阿星は若干騒ぎになった。ゆえに、世悧たちが駆け付けたころ、阿星の方に津々易も加勢しようとしていたのだろうが……。
それだけの強さが、冬月や阿星にはきっと必要だったのだ。
龍使いが背負うもの。あの子たちが喪ったもの。……降りかかってくる理不尽。
暢気なお国柄だろうと、考えさせられる。迷いが生じる。冬月と阿星を首都に連れていくことは本当に正しいのか?
国として、騎士として――理解はしている。どの国も、喉から手が出るほどに『龍使い』を欲しているのだ。それがどれだけの利になるのかも、想像できる。天翔ける脅威を操る異能を持つ一族。それだけではなく、単純な戦闘能力の高さすらも目の当たりにしてしまった。
上層部は冬月と阿星を逃がす気はないし、場所の判明した龍使いの里へも手を伸ばすだろう。
(……まあ、冬月と阿星の落ち着き様から、里に関しちゃ何かしら安全だって根拠があるんだろうけどな)
確かに、樹海の攻略がそもそも困難だ。そして、そんな風にあまり時間をかければ、流石にこちらの挙動に気づかれるだろうし、龍使いたちは人知れず、逃げてしまうのだろう。庵哉が帰還し、すぐさま対策を取っているはずだが、さて間に合うのか。樹海の傍に人手を残す案もあったが、冬月と阿星を首都へ確実に連れていくため、今のような布陣となったのだ。……結果はこのざまだが。
(冬月と阿星を逃がしたら、ここを生き残っても、俺の処罰は……)
わかっている。減給で済まないだろうなということは。部下たちにお咎めがいかないよう、全責任は自分が負うつもりであるが。